『二字熟語で遊ぶ』を書いた直後に、読者から「こういうのもあります」と12、3の例が寄せられた。「高座と座高」「事故と故事」「女子と子女」などは案外気づきにくく、意味も変化するので、個人的には愉快に感じた。
(例)「理論」は体系的な知識、「論理」は前提から結論に到る筋道。机上だけでは役に立たないという共通点がある。
論も理も昨今あまり人気がないが、かと言って、なくてもいいのかと突き詰められるとちょっと困ってしまう。
(例)すべての人に「背中」らしきものはあるが、みながみな「中背」であるとはかぎらない。
かつて中肉中背が理想とされた時代があったが、ここで表現されている中肉と対比されるのは太さ・細さなのだろうか。「中背」は高さ・低さなのだろうか。太肉低背とか細肉高背に当てはまる人間はいるが、未だかつてこのような表現を見聞きしたことがない。
(例)「貴兄」には尊敬の念が込められ、「兄貴」には親しみの情が込められる。
貴兄と呼んだ瞬間、ちょっと身を引き締める振りをしなければならないが、兄貴と声を掛けるときは頼りにしているか甘えているのだろう。おごってもらいたければ「アニキ」と呼び掛けるのがいい。
(例)ちょっと「機転」を働かせていれば、あの時が人生の「転機」だということがわかったはずだ。
転機は勝手にやってくることがあるが、機転は自発的である。だから、機転のきく人間になるのは、転機を迎えることよりもむずかしいのである。
(例)望めば人間は「落下」することができるが、「下落」することはありえない。
人間であれモノであれ、落下できるのは物体である。下落するのは価値である。肉体としての人そのものは下落せず、人の評判や値打ちが下落するのである。
(例)原子が結合して「分子」になるが、親にくっついて手下になると「子分」になる。
なお、分子には分母という親の影もちらつくから、ある意味では子分なのかもしれない。異分子にならぬように保身的に振る舞う今時の組織人は、思想なき子分と言い換えてもいいだろう。