運よくうまいものに巡り合えた人間は、その運のよさに感謝して一品を心ゆくまで味わえば十分に満足できるはずである。ところが、人は運のよさのことを忘れてしまい、さらに多種大量を貪ってしまう。腹いっぱい、酒いっぱい、金いっぱい、遊びいっぱい……欲望は尽きることはない。
いつになったら、あるが上にも欲しがらないようになれるのか? ギャル曽根百人分の食欲と胃袋でも手に負えないほどの食糧を眼前に積み上げられたら、おそらく降参するに違いない。いや、もっと簡単な方法がある。いっそのこと身体を壊してしまえばいいのだ。壊れた身体の一部の欲の皮だけがもはや突っ張ることはあるまい。
食に関しては卑しいところが残っているが、昔に比べれば少しは節制できるようになってきた。酒や金や遊びはもうすっかり枯れた境地である。ただ一つ、欲の皮が突っ張ってしかたがない対象がある。そいつにだけは卑しくなったり貪ってはいけないと頭では重々承知しているし、他人にまでそのことを示唆しているにもかかわらず、それをついつい求めてしまう。それは、情報である。情報依存症になってはいけないと、自他ともに言い聞かせているくせに。
光る情報が欲しくなるのだ。この情報欲というのは一種のメンタルな病だろうと思う。資料はもう十分なのである。当初構想したものはちゃんと出来上がっているのである。もうストップすればいいはずなのだ。にもかかわらず、落ち着かない。一日に一つ、いや、週に一つでも二つでもいい、光る情報に接しないと不安になってくるのである。
ここまで自戒の念に苛まれなくてもいいのかもしれない。プラス思考で考えてみれば、あと一つの情報を欲張るのは、固定化しつつある知のネットワークに一条の光を照らすためだろう。くすぶっていた視界がパッと開けるような効能もあるに違いない。
しかも、大量の情報を求めているのではなく、きらりとした一点情報なのだから触媒としてはほどよいのではないか。それをゆっくり噛みしめればゆゆしき問題ではない。と、ここまで書いてきたら、冒頭の文章につながってくるではないか。わかっているつもりのことなのに、どこでどう狂って貪欲への一線を越えてしまっているのだろうか。しかし、わかった。
「ユーレカ!」と叫んで、裸で風呂から飛び出すほどの大した悟りではない。要するに、あと一つの情報を楽しく求めてみて、なければないで情報探索を潔く切り上げて自力思考にシフトすればいい。そんな環境を作るのはさしてむずかしくはない。書物や辞書やインターネットをしばし遠ざければ済む話である。