私家版食性論(下)―風土と食事

哲学者であり倫理学者である和辻哲郎は名著『風土』の中で次のように書いている。

「食物の生産に最も関係の深いのは風土である。人間は獣肉と魚肉のいずれを欲するかにしたがって牧畜か漁業かのいずれかを選んだというわけではない。風土的に牧畜か漁業かが決定されているゆえに、獣肉か魚肉かが欲せられるに至ったのである。同様に菜食か肉食かを決定したものもまた菜食主義者に見られるようなイデオロギーではなくて風土である」。

かつては風土が食べるものを決定したと言うのである。どうやら、元来食生活は嗜好性によって決定されたのではなかったようだ。好き嫌いの余地すらなかっただろうが、もし好き嫌いという意地を張った者がいたとしたら、滅びる運命を辿った。和辻の説を敷衍すれば、人類は例外なく旬の狭食を余儀なくされたわけである。

そこで、文化風習への適応を促す「郷に入っては郷に従え」という諺が思い浮かぶ。まさに食事こそこの教えにぴったりだ。異国へ行けばその土地の人が食べるものと同じ旬の料理を食べるのが理にかなっている。好きなものをやみくもに料理に加えたり、嫌いなものを料理から差し引いたりしないほうがいい。少なくともぼくはそうしている。翻って、日本にいるときはどうなのか。日常茶飯事、世界中の食べ物を口に入れている。旬のことなど気にせずに、嗜好性を優先している。異国に入っては異国に従っているくせに、自国にあっては自国に従わないことが多いのである。


〈医食同源〉という熟語が示す通り、食材も薬もよく似ていて、体内で組み合わさった時にどんな化学反応・・・・が起こるのかは読み切れない。広食を習慣としてきたぼくなどと違って、狭食してきた人がある日突然広食に転じると、胃中で悪しき食い合わせが生じる可能性がある。たとえ好き嫌いをしてきたとしても、狭いなりの食性秩序が保たれてきたと考えるべきかもしれない。数年前のことだが、幼少時からジャムパン以外いっさい食べていない十代半ばのアメリカの少年がテレビで紹介されていた。医者が健康診断したところ、軽度の貧血症状があるものの、いたって健康であった。こんな極端な狭食性であっても、栄養の帳尻が合っていたのである。

広食であれ狭食であれ、旬を忘れてしまった現代人の食性は少なからず歪んでいる。このことは、食に経済原理が持ち込まれたことと無縁ではない。「もし地球外生命が地球を眺めたら、地球を支配しているのはトウモロコシに見えるだろう」と分子生物学者の福岡伸一が語っていた。トウモロコシの64パーセントが畜産用の飼料である。肉ばかり食べるとトウモロコシを育てなければならない。そうすると、他の穀物を育てなくなる。先進国のチョコレート需要を満たすために、穀物を育てずにカカオのプランテーション事業を優先するというのも同様の論理である。一部現代人たちの「グルメ偏食」を経済がさらに加速させているという構図だ。

鰹の心臓.jpg

これはある食材をニンニクで炒め、塩・コショーしたソテーである。その食材とは鰹の心臓だ。「そんなものをわざわざ食べなくても、心臓も混じって売っている鶏肝を食べればいい」という声も聞こえてくる。そうかもしれない。しかし、ぼくたちは鰹を釣り上げて、鰹のタタキにして食べる。鰹節も作る。どの部位を選んでどんなふうに食するかの前に、一匹の鰹は絶命するのである。その命の恵みにあずかるのなら、できうるかぎりアタマからシッポまで、すべてご馳走になるべきだ。これを「全食」と言う。

古代人は風土とのバランスがとれた全食をしていたのである。だから、今日から全食に立ち返ろうなどというつもりはない。飽食の時代だからこその偏食も狭食もある程度はやむをえないと思う。しかし、最後に、商材化した食材に反省を加えよ、自ら作り注文した料理は残すな、おもてなしのために供されたご馳走に挑戦せよ……と好き嫌いの多い人々に伝えておきたい。

〈終〉

イタリア料理とワインと・・・

『イタリア紀行』と題して雑文エッセイを54回にわたって書いた時期がある。本ブログに長く付き合っていただいた読者なら記憶に残っていると思う。先ほど調べたら、最終回は2009年の9月だった。つまり、1年と4ヵ月経ったことになる。ヨーロッパに最後に旅したのが2008年の2月~3月。まもなく3年になろうとしている。

めっきりイタリア離れをしている今日この頃だが、年が開けてから集中的にNHKハイビジョンのイタリア特集を観る機会があった。毎日、複数の番組が数時間から十時間くらいにわたって放映された。すべてイタリアにちなむものだ。再放送もいくらかあったものの、初めての番組も楽しむことができた。こんなきっかけからイタリア語の本を開けたり久々に音読したり。会話をしてみたら、おそらくだいぶなまっているに違いない。

無性にイタリア料理を食べたくなった。よく食べてはいるが、ランチでパスタばかり。ディナーとしてゆっくり食べてみたくなったのだ。国内のイタリア料理店はどこも本場水準、いや、むしろ凌ぐレベルに達してきたから、近場でも十分に堪能できる。だが、午後8時に予約を取り、午後7時に仕事を終えて大阪から芦屋まで出掛けた。もう何年も前からその店のことを聞いていたのだが、なかなか縁がなかった。遠戚がオーナーシェフをしている、夜しか営業していないトラットリア(trattoria)。小ぢんまりとして肩肘張らない料理店のことをそう呼ぶ。


少々遠出になるとは言え、寒さや歳にかこつけて邪魔臭がってはいけない。もっと早くこの店に来るべきだったと反省させられたのだ。良質の味と良心的サービスにはまずまずの知覚を持ち合わせているつもり。だが、上には上があるものである。この店は元バールだったが、常連客に薦められて本格的料理を手掛けるようになったらしい。

数種類のおかずを盛り合わせた前菜、ボローニャ風ラグーソースのタリアテッレ(平打ち生パスタ)、それにボリュームたっぷりのオッソブーコ(骨髄の入った仔牛の骨付き脛肉の煮込み)。これにエスプレッソが付いて、さあいくら? とクイズに出したくなるほど、とにかく旨くてリーズナブルなのである。ワインは好きだがたくさんは飲めない。それでもお気に入りの赤ワイン、モンテプルチアーノ・ダブルッツォをグラスになみなみ3杯。

仕事の絡みもあって、風土から見たヨーロッパの小麦・牧畜と日本の稲作・漁業について再学習している。和辻哲郎の『風土』にこうある。

「食物の生産に最も関係の深いのは風土である。人間は獣肉と魚肉のいずれを欲するかに従って牧畜か漁業かのいずれかを選んだというわけではない。風土的に牧畜か漁業かが決定せられているゆえに、獣肉か魚肉かが欲せられるに至ったのである。」

ちなみに、小麦と米の選択にも同じことが言える。

この説に大きくうなずく。そして、はるか遠くのイタリア風土が育んだパスタと肉を頬張った翌日に、米と魚を融合した食文化の最たる寿司を堪能しようとする日本人の貪欲を思う。ぼくたちの食習慣から風土の固有性が失われて久しい。地産地消的に言えば、これほどルール違反をしている民族も珍しい。それでも、その節操の無さは異文化受容の柔軟性とつながっている。日本人は間違いなく世界一の美食家であり食性が広いのである。願わくば、スローフード発祥のイタリアに見習って、もう少しだけ食事に時間をかけてみたい。