知ろうとする努力の行く末

あることについてあまりよく知らない。あまりよく知らないが、興味をもったので本を読むなり調べるなり誰かに聞くなりしてみる。この場合、知ろうとする努力によって想定する行き先は、言うまでもなく「少しでもよく知る」であるはずだ。そうでなければ、誰も延々と知る努力を重ねようとはしないだろう。ところが、意に反するかのように、知ろうとする努力が知ることを暗黙的に約束してくれるとは限らない。

どこまで知ろうとするかによって、知に至る満足度や達成感は変わるものである。知りたいことをエンドレスに深く広く追いかければ追いかけるほど、求める知はどんどん逃げていく。いくら知ろうとしても満たされず、目指した極点には行き着きそうもない。逆に、知りたいことを少なめに見積もっておけば、努力はそこそこ程度の知識にはつながってくれる。おそらく「身の程をわきまえ知に貪欲になりすぎるな」という類の教訓はここから生まれてくるのだろう。

しかし、ほんとうにそれでいいのだろうか。それが何事かを知ろうとする基本姿勢であってもいいのだろうか。こんなふうに真摯な問いを投げ掛けながらも、ぼくはさほど悩んではいない。際限なく知ろうとする努力を怠れば、身につけた小手先の知識すら有用にはなりえないだろう。知への努力は「飽くなきもの」でなければならないと自覚している。「何? それでは永久に満足感も達成感も得られないではないか」と考えるのは、努力が足りないからにほかならない。知ろうとする努力に際限はないが、知ることを許された時間は有限である。時間が知の領域を決めてくれるのだ。それゆえに、時間に限りがあることを十分に了解して知ろうとすれば、努力は報われるようになっている。


ここからは、「人間には知ろうと努力する遺伝子が備わっている」という前提で話を進める。第一に、すでによく知っていることを人は知ろうとはしない。せいぜい再認で終わる。第二に、ある程度知っていることなら、足りない分を知ろうとするだろう。なぜなら、「知への努力」という前提に立っているので、ある程度知っていても「もっと知りたい」へと向かうはずだから。第三に(そしてこれが重要なのだが)、知らないことに対する人の振る舞い。微妙だが、「ほとんど知らない」と「まったく知らない」で大きな差が出てくる。

「ほとんど知らない」とは、「わずかでも知っていること」を意味する。同時に、「自分があまりよく知らないこと」をわきまえている状態でもある。たとえば、「彼のこと、知っている?」と聞かれて「ほとんど知らない」と応答できるのは、彼の職業については知っているが、「出身地、趣味、家族構成」などについて知らないということである。つまり、彼について不足している情報があることを認識できている。ところが、「まったく知らない」は箸にも棒にもかからない状態だ。いや、箸も棒すらもない。知らないことすらも知らないし、絶対に知りえない。完全無知。これに対しては、知る努力をするDNAが備わっていてもどうにもならない。

完全無知から脱皮する手立てを自力で創成することはできない。「彼のこと、知っている?」と尋ねてくれる他者の、外部からの刺激がきっかけになって初めて、知ろうとする努力への第一歩を踏み出せるのだ。言い換えれば、ぼくたちは「少し知っている状態」を出発点にしてのみ知ろうとする努力ができるのである。しかし、ここにも遺伝子が機能できない盲点がある。青い空に流れる白い雲を見慣れたぼくたちは、青い空と白い雲についていったい何を知っているのだろうか。見えているからといって知っていることにはならない。仮に知っていると思っていても、何かを省略し別の何かを抽出した結果の知ではないか。つまり、「知っているつもり」の可能性が大きい。

楽観的に見れば、知ろうとする努力には「少し知り、ある程度知り、やがてよく知る」というプロセスと行く末があるのだろう。しかしながら、知ろうとする努力の行く末が往々にして「知っているつもり」であることも忘れてはならない。そして、「知っている」と「知っているつもり」の違いを認識させてくれるのも、ほかならぬ他者の存在である。人は一人では何事も知ることはできない、他者と交わってのみ知が可能になる。

学習偏向と免疫の関係

免疫研究の専門企業の広報を手伝ったことがある。研究の様子や試薬製造の現場も見せてもらい、専門家にヒアリングして免疫についていろいろと教わった。詳細はすっかり忘れてしまったが、まったく無知だったぼくには抗原と抗体のメカニズムの話はインパクトがあった。強いインパクトを覚えたポイントは今も記憶に残っている。

外部からウィルスが身体に侵入しようとする。この攻撃に対して人間側ではリンパ球やマクロファージなどの軍隊を編成し外敵をやっつける――おおよそこんなふうに理解している。もう少し正確に言うと、ウィルスという抗原に対して、リンパ球やマクロファージが抗体をつくって、抗原の作用を排除したり抑制するのである。これが免疫システム。「病気にならないように抵抗力をつける」というのが普段の表現だ。もっとも関心を抱いたのが、免疫システムが「自己」と「非自己」を識別するという点だ。

自己を強く守れば守るほど非自己への「沿岸警備」はいっそう厳しくなるんだろうな、と考えたりした。「知」になぞらえたら、自分好みの同種の知を蓄積すればするほど、異種の知への風当たりが強くなり免疫反応を示すようになるのだろうか――とも推論してみた。フロイトの防衛機構論的に言えば、現実を歪曲したり誤解したり否定したりすることにつながりはしないか、と案じたりもした。


やがて知の世界にも強烈な免疫システムがあると確信するに至った。肉体の免疫は低下していくが、こっちの免疫は加齢とともに強化されることもわかった。免疫は学習においてもちゃんと機能する。「偏重して同種の知ばかりを蓄積し、同質思考を繰り返すと、異種の知や異質思考への防衛機能が強く働く」のである。そうなのだ、人は非自己と見なす「ウィルス的知性」を拒絶する。一定の成熟レベルに達すると、多くの人たちは新しい知や異種なる知に目を向けなくなる。やがて知の偏りが生じる。免疫過剰による滞りなのだ。

熟年になっても知のダイナミズムを衰えさせたくなかったら、ものすごくリスキーなことだが、意識的に防衛機能を甘くせねばならない。それは、自己内でほぼ自動的に形成される「知の抗体」を弱めて、新種かつ異種なる――もしかすると危険な――「知の抗原」を迎え入れる勇気である。もちろん勇気とリスクに見合ったご褒美も期待できる。自己と非自己を分別しない、開かれた知の世界である。

免疫と学習の構造は、もはや類似という段階ではなく、同一と言ってもいいくらいである。自分を高めようとして学習しているつもりが、実は料簡の狭い防御壁をつくり、安住の閉鎖空間に自身を追い込んでいるかもしれない、というわけだ。防衛機能に保護された学びは、やればやるほど排他的になる。結論を急いではいけないけれど、知の免疫における抗体は「専門自我」と呼ぶべきものだろう。実はその専門、すっかり閉じられた「偏学」に過ぎない。

議論できる能力を養う

月曜日火曜日と二日連続で硬派なトーンで「知」について綴った。だが、翌日になって、あのまま幕引きしていていいのかという良心のつぶやきが聞こえた――「もう少し具体的にソリューションを提示すべきではないか」と。

いま「すべき」と書いた。「~すべし」は英語の“should”、ドイツ語の“sollen”と同じく定言命法と呼ばれる道徳法則だ(哲学者カントの道徳的命法)。これをディベートの論題表現に用いると、その命題はあらゆる状況に無条件に当てはまり、かつ絶対的な拘束力を持たねばならなくなる。たとえば、「わが国は死刑制度を廃止すべきである」という論題は定言的(無条件的)であって、例外を認めてはいけない。「~というケースにおいて」という条件を付けたり含んだりしてはいけないのである。

「わが国はハッピーマンデーを倍増すべきである」。この論題は、「現状の4日間のハッピーマンデー(1月、7月、9月、10月の指定された月曜日)を8日間にするアクションを取りなさい、しかもそのアクションが価値のある目的になるようにしなさい、これは絶対的かつ無条件的な命令です」と言っているのである。

「わが国は定額給付金を支給すべきである」は、ここに明示されていない金額と対象を除けば、「つべこべ言わずに可及的すみやかにこのアクションを取りなさい」と命令している。年齢によって金額を変えるのなら「一律12,000円」を論題に含めてはいけない。また、対象が国民全員ならそう付け加えるべきである。「~すべし」は命題で書かれたことだけに言及し、書かれていないことに関しては論者の裁量に任せる。


「~すべし」という、例外を許さない命題を議論していると、激昂した強硬論争になりそうに思えるだろうが、いやいやまったく逆なのだ。イエス・ノーが極端に鮮明になる議論ほど、不思議なことに論者は潔くなってくる。自分への批判にも耳を傾けるようになるし、やがて度量も大きくなってくる。

ところが、「~ならば、~せよ」という仮言命法になると、ずる賢い論法を使うようになる。たとえば「定額給付金を支給するならば、生活支援とせよ」。すると、「定額給付金の支給には賛成だけれど、生活支援ではなく景気対策でなければダメ」や、「何らかの生活支援は必要だとは思うが、一律方式の定額給付金である必要はない」などと論点が条件的になってくる。議論に慣れていない人にとってはとてもややこしい。こんな「ケースバイケース」のディベートはおもしろくない。

記述する命題の文末が「~すべし」であれ「~である」であれ、ディベート論題の長所は是非を明確にすることであり、それによって論理が明快になる点にある。死刑制度の存続論者であるあなたは、自分の思想に近い立場から「死刑制度廃止」に反論することになるかもしれないし、まったく逆の立場から「死刑制度を廃止すべし」という哲学を構築し論点を証明しなければならないかもしれない。真っ向から対立する両極意見のどちらにも立って議論することにディベートの意義がある。だから、ぼくは抽選によって肯定側か否定側かのどちらかが決まり、一回戦で敗退したらそれでおしまいというトーナメント方式を歓迎しない。


「死刑制度」、「ハッピーマンデー」、「定額給付金」のどれもが、大多数の人々にとってはもともと自分の外部で発生した情報である。これらが自分のところにやってきて、ただのラベルのついた情報として蓄積しているわけではないだろう。推論や思考によって、何らかの価値判断が下されて自分の知になっているはずだ。そして、その知と相反する知が必ず世の中に存在し、自分の周囲にもそんな知の持ち主がいるだろう。自分の知と他人の知を議論というルール上で闘わせるのがディベートだ。一方的な「イエス」を貫く知よりも、「イエスとノー」の両方を見渡せる知のほうが世界の輪郭は広がる。そして鮮明に見えてくる。議論能力が知を高めるソリューションなのである。