誰もが記憶の倉庫を所有している。それを掃除したり棚卸ししたりすれば、アタマの働きが回復できると思われる。ディスクのクリーンアップやデフラグみたいなものである。気分転換程度の掃除や棚卸しでいいから一ヵ月に一回程度お薦めする。少なくとも効能の概念的根拠は、『論語』に出てくる〈温故知新〉としておこう。先人の学問や昔の事柄を学び直して再考してみれば、新たな発想や今日的な意義が見い出せることを教えている。原典では「そうすれば、師にふさわしい人物になれるだろう」と続く。
温故を「故きを温ねて」と読み下すが、温にはもちろん「あたためる」という意味が潜んでいる。また、故は自分の記憶であってもよい。つまり、自分のアタマを時々チェックしてみれば、そこに「おやっ」と思える記憶が見つかって、気分一新して気づかなかった知が甦ってくるかもしれないのである。現在の小さな断片をきっかけにして過去につながっているシナプス回路を遡ってみると、脳が歓喜し始めるのがわかる。
一昨日『アートによる知への誘い』というタイトルで文章を書いた。その後、「誘い」という一語がするするっと5年前に吸い込まれていった。まるで不思議の国のアリスが穴に落ちていった時のように。当時、ユーモア論について研究していて、笑いのツボを語りに内蔵させるコツについて話したりしていた。講演は『愉快コンセプトへの誘い』だった。ここでの「誘い」は当然「いざない」と読む。みんなそう読むだろうと思っていたから、ルビなど振らずに、講演タイトルと簡単なレジュメを主催者に送った。
講演当日、会場に着いてしばらくしてから、タイトルに何か違和感を覚えた。ぼくが持参した手元にあるレジュメの表紙とどこか違っている。目をパチクリさせてもう一度バナーの演目を見た。そこには『愉快コンセプトへのお誘い』とあった。「いざない」が「おさそい」に変更されていたのである。次第はこうだ。レジュメを受け取った担当者は、誘いを「さそい」と読んだ。これを少し横柄だと感じた。この感覚は正しい。そこで思案した挙句、丁寧な表現にするべく「お」を付けて「お誘い」とし、本人は「おさそい」と読んだのである。たまたま「愉快コンセプト」とケンカしなかったのが何より。これが『交渉術へのお誘い』になっていたら、たぶん合わなかった。それどころか、お茶会気分になっていたはずである。
「誘い」ということばからもう一つ別の情報が記憶庫で見つかった。土曜日に鑑賞してきたクレーが発端になって、これまた5年ほど前だと思うが、別の展覧会を思い出した。通りがかりにその展覧会開催を知り、強く「いざなわれ、さそわれた」。この時に『クレー ART BOX 線と色彩』(日本パウル・クレー協会編)という小さな画集を買った。クレーは好きな画家の五指に入る。たしか安野光雅はクレーを「色の魔術師」と称した。ところが、ぼくはクレーの作品の大半を凡作だと思っている。ほんとうに気に入っている絵は全作品の数パーセントにすぎない。しかし、それでいいのである。極端に言えば、芸術家は「たまらない一作」を完成させてくれれば、あとはどうでもいい。そして、その一作だけでこよなく愛せるのである。
どういうわけか、クレーの記憶の隣にファビオ・コンカート(Fabio Concato)がいる。これは記憶の構造だけに留まらず、現実もそんな構造になっている。リビングルームの一カ所にクレーのポストカードを6枚飾ってあり、そこからほんの数十センチメートルのところにCDを600枚ほど収納できる棚がある。そこに10年前にミラノで買ったコンカートのCDがある。あるはずだった。しかし、ここしばらく聴いていない。見つからなかったからである。一枚一枚何度探しても見つからなかった。
それが昨日見つかった。まったく予期しなかった場所で。別個に仕分けしていた数十枚のCD群の中で見つかった。腹ペコ少年のようにバラードを聴いた。メロディーが記憶に響く。音楽は記憶庫の棚卸しに絶好である。おびただしいイメージを背負っているからだろう。バラード系のカンツォーネに興味があるなら、YouTubeでコンカートが聴ける。このジャケットの一枚しか持っていないが、この一枚で十分堪能している。