好き嫌いという究極の評価

偶然だが、3日連続で「プロフェッショナル談義」にお付き合いいただくことになる。一つのテーマを執拗に追いかけているようだが、別の見方をすると、こんなときは実は視野が狭まっていたりする。

教育マーケティングの話で記事を終えた昨日のブログ。指導者側の難点に苦言を呈したが、一年のうち半分ほど講師業を営むぼく自身の勉強と能力はどうなのか。勉強と工夫は人並み以上に研鑽している自信はあるが、能力については口幅ったい言を控えるべきだろう。能力は他者、すなわち講演や研修の主催者と受講生・聴衆が評価するものだからである。

ぼくの小・中学校時代、通信簿は155段階評価だった。社会人教育での講師評価もおおむね5段階になっている。講義終了後に受講生にアンケート用紙が配られる。研修で学んだこと、今後どのように生かしたいかなどの所感に加えて、講師の技術(場合によっては人柄)、配付資料のわかりやすさ、講義内容などについて、受講生に「たいへんよい、よい、ふつう、あまりよくない、よくない」の評価を求める。


もう十年以上も前の話。ある大手の企業では、全受講生の平均評価点が4.0未満だと翌年は声を掛けてもらえなかった。幸いにして、ぼくは三年連続で4.0を無事にクリアすることができた(四年目は研修体系の大幅変更にともない出番はなし)。この4.0、今にして思えば奇跡である。仮に受講生を10人とした場合、57人、21人、1点2だと合計39点となり平均3.9でアウト。研修を受けた人たちの70%が「たいへんよい」と評価しても失格なのである。

したがって、この超有名で超優良の企業の講師であり続けたいならば、「あまりよくない、よくない」にチェックマークを付けさせない工夫が必要になってくる。受講生の中にいち早く要注意人物を見つけ、研修中も休憩時間もあの手この手でケアして、少なくとも「この講師はまあまあだな」という印象を与えねばならないのだ(数日前に書いた「拗ねる受講生」への対応みたいなことを迫られる)。

こうして、どうにかこうにか3点、4点、5点の評価が下るよう工夫をし、あとは3点が4点になるよう上乗せ祈願をする。いずれにしても、半数の受講生から5点を取れなければ、平均4.0は不可能である。迷ったときに「ふつう」を選ぶ日本人の気質を考えてみると、なおさら厳しい数字に見える。繰り返すが、4.0はミラクルなのだ。


4.0の話はさておき、一般的な評価にあたって、ふと次のような疑問が湧く。受講生が10人のとき、(a) 55人・15人、(b) 45人・25人、(c) 310人という三つのケースが起こると、すべて平均3.0になってしまう。これら(a)(b)(c)3人の講師である場合、平均値評価だけでいけば全員「ふつうの講師」であり優劣がつかない。次年度は講師を一人に絞りたい。どの講師と契約を結ぶのか。

(a)の危険なメリハリ先生か、(b)の詰めぎわ甘い先生か、(c)の偉大なる平凡先生か……客観的な評価は功を奏さない。研修を主催する側の理念や教育方針や道徳倫理基準に照らして判断するほかないのである。そして、そのような判断は、契約更改されない講師には「好き嫌い評価」と同義語に映るだろう。

親しくしている研修所長にこの「拮抗する三人の講師評価」の話をした。そして、「あなたならどうしますか?」と聞いてみた。「そりゃ、女性講師にしますよ」と即答された。さもありなん。さらに、「全員が女性だったら?」と意地悪に尋ねた。「そうなったら、もうやっぱり、一番美人の講師でしかたがないでしょう」。所長、好き嫌い評価のホンネをポロリとこぼしてしまった。フィクションのように聞こえるだろうが、実話である。