咲き誇る吉野のシロヤマザクラがテレビの画面に映し出されている。「その数、なんと3万本!」とナレーターが言い切っている。えらく正確に数えたのだと皮肉る気はないが、もし賭けの対象にするなら「ぴったり3万本」に賭ける気はしない。あらためて言うまでもなく、3万本というのは概算に決まっている。
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“Fixed match”
時事的には少々旬が外れたが、ちょうどよい振り返り頃ではある。英字新聞には ” fought a fixed match with (against) ……” などと表現されている。他に “fixed game” という言い方もあるし、レースなら “fixed race” と呼ぶ。スポーツ全般、古今東西で存在してきたのが、この “fixing” という行為である。英語で表現すると何だかスマートに見えてしまうが、ずばり「八百長」のことだ。八百長は八百屋と囲碁に由来するが、子細は省く。
昭和30年代のスポーツと言えば、大相撲にプロレスにプロ野球だった。大阪市内の「ディープな下町」で8歳育ったが、当時町内でテレビを置いていたのは金物屋の爺さんの家だけだった。爺さんは大の相撲好きで、足の踏み場もないほど隣近所を集めては一緒に観戦するのだった。場所中は連日の十五日間、人が集まった。サラリーマン家庭が少なかった地域だったから、夕刻の早い時間でもテレビの前にやって来れたのだろう。駆けつけるのが遅いと玄関から遠目に見なければならなかった。
今にして思えば、爺さんたちはぼくたちにわからぬよう賭けていたのかもしれない。それはともかく、千秋楽の日には、力士のどちらが勝つかよく当てていたものだ。自前の星取り表を見ては、「七勝七敗のこっちが八勝六敗のあっちに勝つ」などと一番前に予想する。時には「この二人は同部屋みたいなもんだからな」とも言っていた。最近の千秋楽もそうらしいが、当時も、勝ち越しのかかった力士が大負けしている相手や優勝争いから脱落しているが星のいい相手に見事に勝つケースが多かった。子どもだったが、何かがありそうなことに薄々気付いていた。
「フィックスされたマッチ」とは、戦う前から結果が仕組まれている試合のことだ。「出来レース」とも言う。八百長に語弊があるのなら、単純に「出来」と呼んでおこう。閉じた勝負事の世界に出来はある。『侠客と角力』という本にも博打と相撲世界での出来について書いてある。出来はある意味で環境適応の本能かもしれないと思う。15歳やそこらでその道に入り、世間一般とは異なるルールやしきたりを刷り込まれる。当然、適応のための知恵もつく。ルールの中に反社会的な要素があることに気付くためには、入門前に社会の常識をわきまえておかねばならない。天秤の一方の台座に「世間の常識」、他方の台座に「土俵の常識」を載せれば、ふつうは世間の常識が重いはずだが、あいにくそちらの台座が空っぽだから、つねに土俵の常識(=社会の非常識)側に天秤が傾くのである。
ところで、強者がこの一番でどうしても勝ちたい時、通常の力関係で勝てそうな相手にわざわざ大枚をはたいて負けてもらう必要があるのだろうか。ふつうに考えればありそうにない。大人が幼児に小遣いを渡して腕相撲をすることはないのである。だが、万が一に備えて、念には念を入れて、優勝や昇進のかかった大一番では出来が仕組まれることもあながち否定できない。
「もし大相撲がなくなったら……」と聞かれたら、「そりゃ困るよ」と言うほど身近だった時代があったし、誰もが熱狂した時代があった。しかし、時代は変わった。スポーツは多様に人気が分布し、スポーツ以外のエンタテインメントも何でもありだ。文化や伝統を盾にしても、相撲でなければならない理由は見当たらないのである。消失して困る人よりも困らない人のほうが多くなれば、やがて慈悲に満ちた救済の声も消え入るだろう。人気とはよく言ったもので、対象を取り巻く人の気が弱まれば対象の存在価値も失せるのである。
さあ、どうする、大相撲? 階級制にするのか、部屋を解体するのか、ハンデ戦にするのか。あくまでもスポーツとしての道へ向かうのなら、儀式性や旧態依然としたしきたりと決別しなければならないだろう。いやいや、伝統的芸能ないしは興行的見世物としての要素も残すのか。いま、こんなふうに問うても、論争の対象にすらならないほどの死に体なのかもしれない。どうやら「業界の、業界による、業界のための存在」が最善の選択になりそうである。
人の何に賭けるのか
「賭け」と口に出しただけで危うい匂いが漂ってくる。賭け事ということばに爽やかなニュアンスはない。うしろめたく、まっとうではなく、堂々と胸を張りにくい。だから、その方面の愛好家は賭け事などと呼ばずに、「競馬」や「パチンコ」や「麻雀」などと遊戯内容を明かすことによってマイナスイメージをやわらげようとする。
それでも、求人募集に応募した面接で「趣味は競馬です」とか「パチンコファンです」などと情報公開する者はほとんどいないだろう。万が一「趣味は賭け事です」などと舌を滑らせてしまったら、競馬やパチンコ関連業でも不採用になるかもしれない。別の場面、たとえば何らかの決意表明などでも、「ここが勝負どころです」と言うのはいいが、「一か八かの賭けに出ます」は向こう見ずで物騒だ。安心して見ていられない。
ところが、ことばにして「賭け」とは言わずとも、ぼくたちは様々な状況で何がしかの賭けを人に対しておこなっている。面接をして誰を採用するか、その判断は一種の賭けである。応募者も「趣味は賭け事」と言わないし、面接官も「よし、君に賭けた」とは言わない。しかし、一方は会社の未来に賭け、他方は将来の人材に賭けている。
賭博は偶然性の要素を含む勝負事であるが、回数を重ねていくと強者・弱者に色分けされる。人材の成長可能性を読むのを賭け事と同じ扱いするつもりはないが、まったく非なるものとも言い難い。なぜなら、過去の実績と現在の技能や力量を踏まえ、将来性を見極めて採否の決定を下すのは、その人物への賭けにほかならないからだ。賭けは当たるかもしれないし、外れるかもしれない。経験を積んだ人事の眼力が問われるところである。
だが、学校を出たばかりの若者の成長可能性を見抜くのは容易ではない。履歴書というペーパーに記載された出身大学やその他諸々の経歴・賞罰という「事実」、そして面接と入社試験の成績(あるいは縁故など)が、はたして精度の高い評価を支える証拠になりうるのか。確率論的にはなりうるだろうが、評価はあくまでも個人単位である。ところが、国家公務員住宅の家賃が相場の半額以下という事実が明るみに出た昨年11月、著名人がまさかというコメントをしているのを聞いて呆れてしまった。
元検事の評論家と行政学専門の大学教授は「家賃が高いと優秀な公務員が集まらない」と、ぬけぬけと言ってのけたのだ。彼らが言う「優秀な公務員」とは実績を積んだ社会人ではなく、新卒のことである。つまり、「優秀な公務員になるであろう新卒を集めるためには、世間の家賃相場の半分以下で住宅を用意せねばならない」と言っているのである。
優遇を期待して公務員になる人間と、そんなことなど当てにもせずに公務員を志望する人間がいるだろう。前者が優秀で後者がさほどでもないなどという推論は当然成り立たない。二十二、三才の時点で公務員マンションに格安で住もうとする連中を、優秀な公務員候補と格付けしてしまう愚かしさを嗤うべし。現状の優秀性のみを見て成長可能性に目配りなどまったくしていない。まるでデータ重視の本命主義だ。安い家賃や住宅手当に期待などせぬ活きのいいダークホースに賭けてみる勇気はないのか。