師走のプチ歳時記
ビール
芋焼酎のマイブームは昨年末から下火気味で、900mlの瓶は封を切らずに数本買ったまま。ワインは、1本飲んでは1本買うというありさまなので減ることはなく、相変わらず常時40本くらいある。セラーに入り切らないので一部は室温15℃の部屋に放置。冬だからこれで問題はない。そうそうオフィスにも10本保管している。
缶ビールは冷蔵庫に2、3本しか入っていない。あまり買い置きせず、飲みたい時にそのつど買う。暑い夏場よりも寒くなってからのビールがうまい。乾燥した部屋の中での最初の一杯で渇いた喉が潤う。缶ビールはそのまま飲まずにグラスに注いで飲む。しかし、缶ビールより瓶ビールのほうがいい。外食時もほぼ瓶ビール。生ビールはたまにしか飲まない。
そもそもビール党ではないので、痛飲することはない。週に1、2度中瓶を飲む程度だ。日本のビールは店で飲み、自宅ではたいていベルギー、ドイツ、チェコのビール。日本のビールとの違いはおおむね色が濃く、色のバリエーションが豊富だということ。
写真のドイツビールは飲んで初めて分かったが、アルコール12%というツワモノだった。グイグイ飲めないし、グラスでちびちび飲んでもほろ酔いの回りが早い。ほぼワインと言ってもいいほどのアタック感があった。
忘年会
昨日は3人だけのプチ忘年会。焼きとん酒場で午後5時スタート。飲み放題には関心がなく、3人で瓶ビール2本とハイボール1杯ずつ。串は1人5、6本、小皿のつまみが3皿、あとは枝豆と塩だれキャベツという質素なラインアップ。こんな飲み食いでも、雑談しながら2時間も経てばそれなりに満腹感を覚えるもの。
次の店はスナック。カウンターのみ9席の店だが、スペース感があって落ち着く。クリスマスイブ前の月曜日、客はわれわれ3人だけ。しばらくして、さすがに小腹が減ってきたので、1人がたこ焼きを買いに出た。1人にワンパック8個。昔はよくスナックでお好み焼きやたこ焼きを出前してもらったものだ。焼酎のお湯割りや水割りは各自2杯、歌は各5、6曲。ちょうどいいほろ酔い加減で午後9時半におひらき。2軒合わせてお勘定は5,000円ぽっきり。予算も時間の長さもシニアにやさしい企画だと自画自賛。
街歩き
冬になると、夏の1.5~2倍歩くようになる。歩き始める時は少し寒くても、1万歩も歩けばかなり温まる。距離と時間が長くなると、眺める対象も増えてくる。普段見えなかったものが視界に入りやすくなる。
御堂筋の歩道は、北上する時も南下する時もたいてい東側を歩く。よく動ける冬場は西側も歩く。すると、北御堂の歩道寄りの掲示板も目に入る。
このお寺のマスコットが「キタミゾウ」という象だと知る。「見たいゾウ、聞きたいゾウ、言いたいゾウ」と言ってる。まだ未熟ということなのか……「おさるさんってスゴイ!」のは、ゾウさんにできない「見ざる、聞かざる、言わざる」ができるからか……それは成熟のシルシなのか……ハイ、ここでストップ! 小難しく考えるのは厳禁。「おもしろいなあ」で止めておくのが街歩きのコツ。
慌ただしい年の瀬の二字熟語遊び
師走も早や終盤に入った。年賀状じまいという一大決心をして重荷を下ろしたが、雑用が増えて気分は慌ただしい。ブログを書き下ろす時間もあまりない。さぼらないように(また、鈍らないように)、夏場に書きためていた二字熟語遊びを年の瀬に捌いておきたい。
【里山 と 山里】
(例文)『桃太郎』のおじいさんが柴刈りに行った山は、山里ではなく、暮らしていた集落に接する近くの里山だった。
おじいさんは自然が残っている中山間地域の山に分け入って、焚き木用の小枝を取っていたのではない。そんな山里には行っていない。おじいさんが柴刈りをしていたのは、家から遠くない里山である。里山の山は低く、山里の山はそれよりも高い。山里にもわずかに人は住んでいたが、過疎地だった。「住む人もなきやまざとの秋の夜は月の光も寂しかりけり」という和歌が残っている。限界集落は今と変わらない。
【白黒 と 黒白】
(例文)「白黒も黒白も同じだよ」とえらく自信ありげに言う人がいたが、厳密にはそうではない。目は白黒させるが、黒白させることはない。
ややこしいが、是非や真偽については、「白黒をつける」でも「黒白をつける」でもいい。ところが、これまたややこしいことに、黒白をつけるという用例では黒白は「こくびゃく」と言うのが正しいらしい。読み方はともかく、白黒と黒白は互換性があるようだ。と言いかけて、白黒写真とは言うが、黒白写真とは言わないことに気づく。意味の重なりは一部あるものの、どうやら白黒と黒白は別物のようである。
【花火 と 火花】
(例文)それが線香であれ打ち上げであれ、花火がある所に火花が発する、飛ぶ、散る。他方、火花の元は花火だけではない。火花は目からも論争からも散る。
線香花火は手で持って愛で、打ち上げ花火は見上げて楽しむ。火がなくては花火は咲かないが、火がなくても散るのが火花だ。又吉直樹の芥川賞受賞作は、最初『花火』だと思っていたが、しばらくして話題になってから『火花』だと知った。書店でページを捲った程度で、作品は読んでいないからしかたがない。
〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「〇△」を「△〇」としても別の漢字が成立する、熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。
ことばに立ち止まる
📝 知らなかったことば
知らなかったなあ、ソムリエがワインサービスの時に使う、左腕に掛けているあの布のナプキンの名称。知ったのはつい先週だ。「リト-」とか「トーション」と呼ぶらしい。世の中には知らないことが山ほどある。だから知らなくてもがっくりすることはないが、ナプキンと呼ぶよりはいい感じがする。覚えておこう。
📝 碑に刻まれたことば
たぶん7、8年前のこの時期だったと思う。冷たい風が吹く寒い日だったこと、公園脇の碑に菊池寛の座右の銘が刻まれていたことを覚えている。残念ながら、その座右の銘をすっかり忘れていた。そのことばを思い出したが、記憶を辿ったわけではない。別のことを調べていて偶然見つけたのだ。
不實心不成事 不虚心不知事
漢字を見て思い出し、「実心ならざれば事成さず、虚心ならざれば事知らず」という読み下し文で記憶がはっきりよみがえり、「現実的でなければ事を成就できず、こだわりを捨てなければ真実が見えない」という意味にえらく感心してノートに書いたことも思い出した。
📝 朝三暮四 と 朝四暮三
なじみがあるのは「朝三暮四」で、手元の辞書では見出し語として出ている。ところが、「朝四暮三」は見出し語になっていない。知った時は、へぇ、そんな四字熟語もあるのかと少し驚いた。どちらも「目先の利益にこだわって、同じ結果だということに気づかない」という意味である。
飼っているサルに朝に三つのドングリ、夕方に四つのドングリをやろうとしたら、サルは怒って「朝に四つ、夕方に三つにしてくれ」と注文をつけた。一日で見れば同じ七つだが、サルには朝に四つのほうが得と思えた……という中国の故事。朝四つで夕方三つなら、あまり使わない朝四暮三のほうが本筋ではないか。しかし、朝四暮三と言ったりすると、「間違ってますよ」と注意されそうだ。
📝 読めなかった漢字、「烤」
この字が店名に含まれている四川の中国料理店がある。「火へん」だから何となく想像できたが、辞書には載っていない。日本では使わない漢字のようだ。読めなくてもしかたがないが、どこかで見た記憶がある。とりあえず「火へんに考」で検索したら見つかった。「烤鴨」が出ている。ペキンダックのことで、烤は「カオ」と発音する。「烤魚」のほうは頻出語だ。魚の皮を焼いてからコトコトと麻辣味で煮る料理。直火で加熱する時は「烤」の字を使うらしい。
さて、ぼくの知るあの店は四文字。烤はわかったが、残りの三文字の発音ができない。店名が発音できたら一度行ってみようと思う。
語句の断章(60)勿体
「もったいぶる」という表現を使ったことはあるが、漢字で「勿体」と書いたことはない。本を読んでいて、もったいない、もったいぶるなど普通の表現として何度も出合っている。特に珍しいわけでもないのに、この漢字をずっと見ているうちに異化作用を催してきた。勿体? それはいったい何?
これまでどんなつもりで、もったいぶると言ったり書いたりしてきたのか。そもそも勿体とは何を意味しているのか。ある辞書には「物のあるべき姿や本質」と書いてある。どうやら、その意味がやがて「重々しい、立派、大きい、ものものしい、尊大とか威厳」に転じたようである。しかし……
ここまで書くのにいろいろ考えもし、調べもしておおよその意味とニュアンスは摑めたが、まだ「勿体」に慣れない。見れば見るほど、書けば書くほど、漢字変換すればするほど、奇異に見えてくる。もう一度問う、勿体とはいったい何?
奇異を拭おうと語源を調べることにした。次のようなことが書いてあった。
元は仏教用語で、勿体は「物体」と書かれていた。物は「牛へん」で、それは不浄な獣だから、へんを取って「勿」とした。勿体となって、物事の本質となり、ありがたみを意味するようになった。
おもしろい謂れだが、物から牛が消えて勿になったと言われてもすっきりしない。それで物事の本質となったら、なぜありがたくなるのかがわからない。
しばらくして、すっきりしない理由がわかった。「あの人は勿体だ」とか「事態は勿体になった」とは言わないのだ。つまり、勿体は単独で使わない用語なのである。
さほどでもないのに、ちょっと見に内容があるように感じさせるのは「もったいぶる」。まだまだ使えるのに無駄に粗末に扱うことやまったく使っていないのを惜しめば「もったいない」。気取ったりすまし顔したり、体裁を飾ってものものしく振舞って威厳を示すなら「もったいをつける」。
威厳などという立派な意味があるのに、勿体はその意味で使われることがほとんどない。それがない時に、それをぶる時やつける時になってようやく意味をあぶり出す。勿体とはそんな、もったいぶった用語なのである。
巡り歩けば巡り合う
「いい天気だなあ、どこかへ出掛けるか」とふと思った。大阪と接する京都府乙訓郡の大山崎は9月に訪れていたので、隣りの長岡京市へ行ってみることにした。仕事で何度か訪れている土地だが、駅周辺しか知らない。駅で地図を手に入れ、西山浄土宗の総本山、光明寺が紅葉狩りのスポットだと知り、バスを待つ人たちを横目に麓を目指して歩くことにした。
人混みもなく比較的静寂な境内で晩秋の景色を堪能した後、公園でカレーパンのランチ。帰りもバスに乗らずに歩くと決めた。歩くなら別ルートでと思い、住宅地の細道をジグザグと縫いながら乙訓寺と長岡天満宮に寄ってみようと歩き始めた。寺を目指して歩き始めて数分、ぼくより少し年配の夫婦らしき二人が三叉路の右手から歩いてきた。目と目が合った。
「こんにちは、どちらからですか?」とご主人が話しかけてきた。大阪と言ったものの、漠然としているので天満橋と言い足した。地名はご存知だった。「どちらに行かれるのですか?」と聞かれる。見知らぬ土地なのでキョロキョロと家並みや住所表示を見ていたから、迷い人として映ったのに違いない。「乙訓寺へ行ってみようと思っています」と答えた。
「家に帰るところで、ちょうどそっちの方向に行くところです」と言い、ご主人は案内人となって乙訓寺と弘法大師の話を語り始めた。ほどなく住宅地にある乙訓寺窯跡の前に出た。
話によると、奈良時代の8~9世紀に乙訓寺の瓦を焼くために作られた窯で、発見されたのは1966年とのこと。住居の土台部分が窯跡。何かの拍子に崩れたようだ。「ここは私の息子の家です。よろしければ先に向かいの方へどうぞ」と別の家を指差す。案内されたのはご主人の住居の裏庭。石や古木が所狭しと置かれ、柚子の木なども植わっている。
あまり他人の仕事を聞くことはないが、聞いてみた。雪舟筆法の水墨画家とおっしゃる。十代の頃に書道と絵画に少し打ち込んでいたので、話についていけた。向かいの窯跡の扉が開いたので中を見せてもらう。扉を開くと扉の裏側に、ご主人の手になる龍の絵が無造作に貼ってあった。
別れ際に自宅隣りの別邸の木からもぎたての檸檬と柚子をいただき、教えてもらった道順で乙訓寺と長岡天満宮に寄って帰路についた。一昨日、姉にこの話をした。父が篆刻をしていたのは知っているが、師匠の名前までは知らなかった……梅舒滴は初耳……その水墨画家に会ったとしても、私だったら「あ、そうですか」で終わってたなあ……と姉。父が篆刻を始めたのは姉が嫁いだ後だからやむをえない。
不案内な土地で特に当てのない巡り歩きをしていたら、少々縁のある人と話に巡り合って昔を偲んだというエピソード。
惰性的な行為と時間を減らす
かれこれ10年以上、毎朝小1時間ストレッチをしている。ストレッチの内容を体調に応じて変えたり、深い呼吸をするように意識している。これからも続けるつもりだ。やめたいと思ったことはない。また、嫌々やっているのでもない。つまり、ストレッチは惰性ではない。歩くのは1日平均8,000歩。これも惰性ではない。
これまでやって来たからという理由だけで、あまり考えもせずに続けてきた習慣があった。習慣形成しようと意識しない習慣もあったし、やめたいのになかなかやめられない習慣もあった。このような習慣は「惰性」と呼ぶべきものだ。
ほとんど何も考えずに、昨日今日と行為してきて、おそらく明日もそうするだろうという惰性的習慣の代表はコーヒーだった。手持ちぶさたになると、口には出さなかったが、「コーヒーでも飲むか」という感じで飲んていた。コーヒーを嗜んでいたつもりが、気がつけば惰性で飲んでいた。惰性でコーヒーを飲むのをやめてから、コーヒーがおいしくなった。日々のシーンでコーヒーの存在が大きくなり濃密な時間が持てるようになった。
惰性は急流に似ている。その流れに抗えなくなり意思や主体性を失うようになる。コーヒーの他には、テレビを見ること、本を買うこと・読むことが惰性になっていると気づいた。出社して朝一番に掃除したりコーヒーを淹れたりするのは意味のあるルーチンになったのに、PCにスイッチを入れて何げなく画面を眺める行為は相変わらず惰性のままだった。
惰性の最たる習慣がスマホの操作。惰性ではない朝のストレッチが小1時間なのに、惰性でスマホを触るのが2、3時間になってしまっていた。仕事のためや生活上の必要があって使っているのではない。スマホが趣味、スマホを使ってSNSを楽しむのはそれ以上の趣味というわけでもない。
生活のあらゆる場面から惰性を消すことは難しい。やむなく惰性に行き着く過程ではいろいろあったはず。コーヒーにも、突然の来客や打ち合わせなど、惰性にならざるをえない経緯があった。強迫観念や焦りから読書も惰性的になっていたかもしれない。
怠けて眠ってばかりいることを「惰眠」という。転じて、特段したいことがあるわけでもなく、また自らの強い意志で何かをするわけでもなく日々を過ごすことを意味する。適当に惰性的生き方をしてきたので、一気に「脱惰性的生き方」ができるとは思わない。それどころか、惰性とまったく無縁の生き方がどんなものなのか想像できない。
ともあれ、「他に価値ある選択肢があったのに、つい惰性的時間を過ごしてしまった」と、一日の終わりに振り返ることには意味がある。スマホとSNSの時間を減らしてから、惰性とそうでない行為・時間の違いを認識するようになった。毎日を同じものにしマンネリ化するのが惰性の本質。しかし、今日が昨日と同じ、明日が今日と同じではつまらないのだ。
土佐料理店の観察日記
高知への出張は毎年2、3回、十数年続いた。一昨年手を引き、土佐料理とも縁がなくなっていた。徒歩圏内に土佐料理の専門店があると聞いた。夕方に出掛けるエリアではないので、午後5時から営業のこの店に気がつかなかった。戻りガツオ気分の先月中旬に行ってみた。
土佐料理店の観察日記、略して『土佐日記』。料理、客の様子などを綴ってみる。
まずは瓶ビール。注文したのは赤星だったが、出て来たのはスーパードライ。これは小さな残念ポイントだ。たたきは本場同様の藁焼き。予定通り戻りガツオの塩たたきを注文。ニンニクのスライスの代わりに「ぬた」を乗せる。続いてブリの刺身、ハランボ(カツオのトロ)、アオサ海苔の天ぷら、ウツボの唐揚げ、シュウマイ。〆に土佐巻き。注文過多。
1カ月後、午後5時半に予約して行く。すでに席の半数が埋まっていた。注文した赤星が注文通りに出てきた。グラスに注ぎ一口、お通しを口に運ぶ。斜め後ろに欧米風の中年カップルがいる。アオサの天ぷらを食べている。「大丈夫?」などという心配は無用。昔と違って、外国人観光客はぼくら以上によく下調べしている。
この日は、お通しを除いて3品と決めていた。カツオのたたきと他の料理を天秤にかけながら料理を選択。第1回戦は「カツオのたたきvsブリ刺し」。ブリ刺しは前回も賞味し、この日も「これからが旬だ」と自分に言い聞かせた。結果、ブリの勝ち。こんなに贅沢にカットしていいのかと思うほどの厚みだった。
第2回戦は「負けたカツオのたたきvsハランボの炙り」。カツオ対決だが、経験値の豊富なカツオのたたきに比べると、まだ数回しか実食していないハランボに食指が動いて、カツオのたたきは2連敗。
第3回戦は「連敗中のカツオのたたきvsウツボのたたき」。たたき合いするまでもなく、ウツボに軍配を上げた。こうして、食べ慣れたカツオのたたきはわが偏見によって3連敗し、この日はお呼びがかからなかった。
カウンターの角の一人客の女性は、メニューを見ては一品を注文し、そのつど違う日本酒を合わせる。ぼくが来店する前からいたので、少なくとも5種類の料理に5種類の日本酒を合わせたと思われる。箸運びとグラスの手さばきがこなれている。逞しい。
昼に過食していたので、ぼくはここでお勘定の合図。左手に座っていた若い英語圏のカップルと目が合う。ブリの藁焼きを指差して「ベリーグッド」と、(店主でもない)ぼくに言う。「それはグッドチョイスだ」とぼくも言う。「その種の魚を食べる観光客はあまり見かけない」と言ったら、「彼女はカリフォルニア出身なので魚貝が好きなんだ」と彼氏が言う。この二人も和食の事前調査が万全だったようである。
年内にもう一度来てみようと思う。他の好敵手である四万十ポークや地鶏の土佐ジローとの勝負にカツオのたたきは勝利できるだろうか。
抜き書き録〈テーマ:食のエピソード③〉
食べることに関心が薄れたり本を読まなくなったりする同世代に「危なっかしさ」を見る。シニアと呼ばれるようになってから、より一層食事に好奇心を掻き立て、これまで同様に本を読み話をすることに励んできた。本から食のエピソードを抜き書きするというのは、シニア時代を生き抜く負荷の少ない一石二鳥の方法だと思っている。
📖 『食卓のつぶやき』(池波正太郎)/ 朝食
いまの世の中は、物並べて、固有の匂いというものが消えてしまった、かのように思われる。(……)むかし、男たちの朝の目ざめは、味噌汁の匂いから始まった。
味噌ばかりではない。野菜も卵も豆腐も、醤油も納豆も焼き海苔も、それぞれに個性的な香りをはなち、そうした、もろもろの食物が朝の膳に渾然とした〔朝のムード〕を醸し出していた。
味噌汁は定食屋で補充するか、時々夕飯でいただく程度。コーンフレークはたまに食べるが、残念なことに香ってくる匂いがない。トーストと目玉焼きからは匂いは漂うが、同時に淹れるコーヒーの香りが優勢。味噌汁の朝食をよく知っている身としては、コーヒーが香る朝食はまったく別物で簡素に見える。しかし、コーヒーとトーストと目玉焼きの朝食は意外に手間暇がかかる。味噌汁に比べて手抜きとは言えないのである。
📖 『奇食珍食』(小泉武夫)/ 軟体動物・腔腸動物
(……)貝類だけは活きの良いもの以外、生で食べてはならない。(……)だから鮑、栄螺、牡蠣、赤貝など生きているものはまず例外なく生食。少し鮮度が落ちれば煮るか炒めることにしよう。
生の貝を嫌がる人は少なくない。磯臭いのとヌルヌル感がダメらしい。ホタテなどは寿司でも刺身でもうまいが、もちろん炙っても煮ても揚げてもいい。しかし、新鮮ならまずは生で食べてみたい。
テレビ番組で鹿児島自慢の二枚貝の「月日貝」が紹介されていた。大阪では口に入らないと思っていたところ、先週末に市場で見つけてしまったのである。「刺身で食べて! ヒモとキモは焼いてもおいしい」という威勢のいいオバサンの助言にしたがう。蓋を開けて、包丁を入れずにそのまま一口で食べた。ホタテよりも甘味が濃い。
📖 『ざんねんな食べ物事典』(東海林さだお)/ 老人とおでん
大暑一過。と思ったらたちまち木枯らし一陣。
ということになると一挙おでん。時の過ぎること疾風のごとし。(……)
ついこないだガリガリ君をかじっていたと思ったら今はコンニャクをアヂアヂなんて言いながらかじっている。
というわけで、早速おでん屋のノレンをくぐる。店内はおでんの湯気モーモー。
客のほぼ八割が五十代。男性。
おでん屋はかなりごぶさたしているし、居酒屋でもおでんを注文することはない。おでんは自家製になって久しい。オフィスの近くに屋台風のおでん屋があったので、よく通った。五十代ではなく、三十代から。熱燗はおでん屋で覚えた。錫かアルミ製の「ちろり」(関西では「酒たんぽ」)からコップに注いで飲んだのも最初はおでん屋だった。
抜き書き録〈テーマ:食のエピソード②〉
一昨日に続いて食がテーマ。「昔からある和の食材」にまつわるエピソードを抜き書きした。
📖 『魚味礼讃』(関谷文吉)/ 紫式部はイワシ好き
身分の卑しい者が食べる魚だから「イヤシイ転じてイワシ」とか、大きい魚のエサになる弱い魚だから「ヨワシ転じてイワシ」とか言われる。たくさん獲れるから安っぽく感じ、平安時代の昔からイワシは下賤の食べ物とされてきたそうだ。ところが、紫式部がイワシ好きだったと知って、庶民は俄然心強くなる。
イワシは臭くてたまりません。「無下に賤しきものを好み給ふものかな」と叱責する亭主の藤原宣孝に対し、
日の本にはやらせ給ふ岩清水まゐらぬ人はあらじとぞ思ふ
日本人であれば岩清水八幡に詣らない人はいないのと同じように、イワシも日本人なら食べない人はいないとやりかえしたそうです。
獲れたてをぜひご賞味あれと、セレブな光る君たちにも光るイワシを食べさせて「うまい!」と言わせたのだろうか。
📖 『駒形どぜう噺』(五代目越後屋助七)/ 思い出の作家
好きよりも嫌いが多いのが「どぜう料理」。複数人の集まりには向かない。どぜう汁、どぜうの柳川は何度か食べているが、たいてい一人。残念ながら、名店駒形どぜうでどぜう鍋を賞味したことはない。味のほどはわからないが、通の有名人が駒形を語ったり綴ったりしているのを知って、想像を掻き立てられる。駒形どぜうを贔屓にしていた詩人サトウ・ハチローの詩が残っている。
(……)
むぞうさにおとうしと徳利を
おいて行く女の子の
くるめがすりが目にしみる
くつくつ煮えはじめたどじょう鍋と
酒の酔いが
すぎし日の悔恨と郷愁を
かわりばんこに こみあげさせる
はしでつまんだ どじょうのヒゲを
むねの中でかぞえるわびしさ
誰かがつくった ざれ句が唇からもれた
――きみはいま 駒形あたり どじょう汁……
📖 『そば通ものしり読本』(多田鉄之助)/ 瓦版流行歌とそば
すでに消えた昔の風習はおびただしいが、年越しそばは今も廃れていない。明治20年頃までは、年越しの夕方に「御厄払いしましょう、厄落とし」と言いながらやって来る職業があったそうだ。家に招いて厄を落としてもらい、銭と餅の礼をした。早口で愉快な口上を述べたら、「西の海とは思えども、この厄払いがひっ捕らえ、東の川さらり」という決まり文句で終わる。厄払いの文句の型を模して綴られたのが次の「蕎麦づくし」。
蕎麦づくし
アアらめでたいな――、またあら玉の新そばに、御祝儀めでたき手打そば、親子なんばん仲もよく、めうとはちんちんかもそばで、くれるとすぐにねぎなんばん、上から夜着をぶつかけそば、たがひにあせをしつぽくそば、てんとたまらぬ天ぷらそば、かけかけさんへあんかけの そのごりやくはあられそば、やがてお産みの玉子とじ、あつもりおいてそだてあげ、てふよ花まきもてはやし、かかるめでたきおりからに、あくまうどんがとんで出、やくみからみをぬかすなら大こんおろしでおろしつけ、したじの中へさらりさらり。
艶話を巧みに匂わせながら、親子南蛮、鴨蕎麦、葱南蛮、ぶっかけ蕎麦、卓袱蕎麦、天麩羅蕎麦、かけ、餡かけ、霰蕎麦、玉子とじ、熱盛、花巻の12種の蕎麦を仕込んである。温かい蕎麦ばかりで、ざるがないのが物足りない。















