空間の話

空間ということばをわざわざ辞書で調べた記憶はない。ある程度イメージができているし、今さら辞書を引くことなどない。と思ってみたものの、気になるので広辞苑を引っ張り出した。「物体が存在しない、相当に広がりのある部分。あいている所」と書いてある。この「あいている」は、「空いている」であって「開いている」ではない。

この定義は、空間が閉じているか開いているかに言及していない。何もなくて空っぽであれば空間と呼べそうだ。空間とは、そらあいだではなく、いているである。引っ越しの荷物が搬出されて、何もなく空っぽになった部屋の状態。閉じているが、れっきとした空間だ。結構広かったんだなあと述懐する。窓を開けて見慣れた景色に別れを告げる。目の前にはビルに囲まれた更地が見える。天に開いているが、あれも空間。

空間を最初に哲学したのは老子だ。老子は何を哲学したか。「うつわが有用なのはその中が空っぽだからである」と言った。たしかに。そのうつわは空っぽだが、そこにお茶を注げばお茶碗になる。コーヒーカップではない。お茶を飲み干してから、コーヒーを入れたらコーヒーカップ。それも啜り終えたら、空っぽになる。その瞬間、そのうつわは有用度を増す。


老子は次のようにも言う。

部屋が有用なのもその中が空っぽだからである。

昔の家には「何でも部屋」のような一室があった。普段は片隅に箪笥が置いてある程度で、ほぼ空っぽの和室。そこに卓袱台を持ち込めばにわか応接間になった。それ以外に、その一つの部屋が居間、食堂、書斎、寝室、裁縫室、娯楽部屋に変化した。片付けてしまえば、何にでも化けることができる有用な空っぽの部屋に戻る。

うつわにしても部屋にしても囲まれた有形である。しかし、中空ちゅうくうの構造を持つ。有形のものが使い勝手がよく有用であるためには、無形の構造という条件を満たさねばならない。

ところで、広辞苑の定義には「相当に広がりのある部分」という記述があった。だからと言って、広大な宇宙を想像してはいけない。空間というのは広いから認識しやすいというものでもないのだ。大きい家、大きい部屋だが、空間の広がりを感じない場合もある。一方、まったく狭さを感じさせない小さな家、小さな部屋がある。広がりのある小ささは簡素で洗練された空間の理想形なのだろう。ル・コルビュジェが設計したレマン湖畔の〈母の家〉はその最たるものである。

「かつ」と「または」

3日前「あれもこれも」と「あれかこれか」について書いた。その折りに、論理学の基本用語の“and”“or”のことがよぎった。論理的ということについては諸説あるが、基本は文章の明快さのためのルールや法則に適っていることだ。「~は~である」もそうだし、「~は~ではない」もそうである。他に「すべて・・・all)といくつか・・・・some)」や、そして「かつ・・and)とまたは・・・or)」も論理的文章を書く上で欠かせない。

X and YXかつY)は「セット」という感覚。ケーキセットを注文すればケーキとドリンクが出てくる。ケーキが付いていない、あるいはコーヒーが付いていないならandの条件を満たしていない。「印鑑と運転免許証持参のこと」とあれば、両方を持っていかなければならない。

X or YXまたはY)はセットではなく、いずれか一方を満たせばよい。「運転免許証またはパスポート」とあれば、両方持って行く必要はなく、いずれか一つで身分証明の要件を満たせる。当たり前のことだが、「ケーキセットにはコーヒーか紅茶が付きます」とは、コーヒーと紅茶の両方は飲めないという意味である。


X and YX or Yに否定が絡んでくると、論理学の初心者には厄介である。「机の上に鉛筆と消しゴムがあった」の否定はどう言えばいいのか。よく間違われるのが「机の上には鉛筆も消しゴムもなかった」である。

あなたは危険な居酒屋に入った。この店では赤と白のグラスワインを差出して一言を添える。ところが、その一言はつねに虚言なのだ。いったん否定して真実を探らねばならない。

「赤ワインにも白ワインにも毒が入っていないよ」
こう言われたら、「赤ワインには毒が入っていない。かつ、白ワインにも毒が入っていない」と読み替える。そして、この文章を否定する。つまり、「赤ワインに毒が入っている。または、白ワインに毒が入っている」。否定する時、「かつ」を「または」に変えるのがポイント。一方が毒入り、他方が毒入りでないということになる。確率は五分五分だが、安全なのが赤か白かはわからない。

「赤ワインか白ワインのどちらかには毒が入っていないよ」
こうコメントされた。「赤ワインに毒が入っていない。または、白ワインに毒が入っていない」と読み替えて、否定する。「赤ワインに毒が入っている。かつ、白ワインに毒が入っている」となる。「または」を否定すると「かつ」に変わる。両方が毒入りであるから、たとえただでも飲んではいけない。

「赤ワインか白ワインのどちらかに毒が入っているよ」
こうつぶやかれたら、「赤ワインに毒が入っている。または、白ワインに毒が入っている」と読み替える。これを否定すると、「赤ワインに毒が入っていない。かつ、白ワインに毒が入っていない」となり、どちらを選んでも安全ということになる。


「かつ」と「または」を含む文章の否定形を作るには、次の変換法則を覚えておけばいい。

XYは~である」→3つの要素に分ける→「Xは~である」「かつ」「Yは~である」→(それぞれの要素を否定する)→「Xは~ではない」「または」「Yは~ではない」。

XYのいずれかが~ではない」→3つの要素に分ける→「Xは~ではない」「または」「Yは~ではない」→(それぞれの要素を否定する)→「Xは~である」「かつ」「Yは~である」。

こんな論理図式に出番などなさそうだが、「論点Ⅰ論点Ⅱから結論が導かれる」という主張を覆すのに論点Ⅰと論点Ⅱの両方を検証否定する必要はなく、いずれか一つを否定できればいいことがわかる。

「あれもこれも」と「あれかこれか」

生半可に考えて作業に取り掛かると、つい「あれもこれも」と欲張り、足し算型の仕事になってしまう。対して、はじめによく考えておけば――先々まで全体を構想していれば――「あれかこれか」と決断でき、作業からムダが省かれて引き算型の動きが取れる。

足し算に問題があるのではない。あれもこれもと考えるのは仕事が始まる前がよく、仕事の終盤で足し算すると収拾がつかなくなりかねない。いったん作業が始まったら、なるべくシンプルに最短で事を運ぶべきなのである。

テーマを広げたり複雑にしたりするのは成り行きでできてしまう。成り行きなので当初の思惑と変わる。だいたい仕事がうまくいかないのは、よく構想したり段取りしたりせずに見切り発車しているからだ。計画から生まれるのは「あれかこれか」であり、作業は引き算中心になる。絞り込んだり簡素化したりできるのは、全体を見渡せているからである。


オフィスでは来客用にホットコーヒーをお出しすることがあるが、昨年までは一種類だけだった。これはこれで何の問題もない。ただ、来客がない時にも飲むので、自分の嗜好性からして他の種類も飲んでみたい。そこで、4月から数種類の豆を挽いてもらって飲み比べし、来客に合わせてセレクトして淹れるようにした。

ところがである。種類いろいろ、値段いろいろ、淹れ方いろいろ試して、自分なりの満足度ランキングができてしまった。そして、ランキング下位の豆にほとんど出番がなくなってきた。あれもこれもと豆を用意してはみたが、飲み比べしているうちに上位の二つが定番になり、この二種類でいいではないかということになった。

あれかこれかと吟味しているうちに、揃えた豆の種類が引き算されてきた。それはそうだろう、ここはオフィスなのであって、喫茶店ではないのだから、品揃えを増やす必要はない。と言うわけで、ぼくの好みのスペシャルティコーヒーを二種類だけ常備することにした。スペシャルティコーヒーとは全コーヒー豆の生産流通量のわずか1パーセントにすぎない。当然値も張るが、一日に惰性で何杯も飲むよりも、ここぞという一杯に気合を入れる。これは引き算型の嗜好ということになるだろうか。

と言う次第ではあるが、アイスコーヒー用の豆や廉価なブレンドの在庫がまだかなりある。当面は来客のコーヒー通の度合をわきまえながらさばくことになる。

無関係なメモ

バイブルサイズのシステム手帳、スマホのメモアプリ、A5判のシステム手帳、スタイラスペンで綴るiPadのノートアプリ……。一応これだけの「メディア」をいつもスタンバイさせているが、常用はバイブル判のシステム手帳と脳内記憶。これでたいていのメモやノートは間に合う。

とは言え、手書きが出発点でない場合もある。つまり、直接PCやスマホで打ち込む雑文が多々ある。紙のメモには手が届きやすく、情報はとりあえず一元化できている。電子デバイスのメモはあちこちに散在して、どこに何があるかわからない。メモやノートに関してはまだまだ紙優勢である。

ノート術のことをこのブログで何度も書き、講演でも何度も喋ってきた。「いったい何を書いているのか?」と興味を示す人は少なくない。何を書いているか? まだよく理解していないことを書く。書きながら内容が明らかになってくるのを期待している。同時に、未成熟なメモを、ただ気になるという理由だけで、走り書きすることもある。


25℃の朝の涼と23℃の朝の涼の違い。2℃の差を表わす語彙が「涼しい」と「昨日より涼しい」では情けない。

楽屋言語で分かり合えることは共通言語になりにくい。共通言語で分かり合えることは楽屋言語派からすれば面白味に欠ける。

一つの大きな愉しみに期待するよりも、日々複数の小さな愉しみを体験するのがよい。大きなものはめったに来ないのだから。

「みんな」と言う時、自分は除かれ、たいてい他者のみを示す。たった一人の他者をみんなと言う場合もある。そう、みんなとは“all”ではなく、都合のよい“someone else”なのである。

人は強い動機や願望によって変身するばかりではない。たとえば樹木や花壇のある川岸に佇んで、偶然にして人は、作曲家に、絵描きに、詩人に変身するきっかけを与えられる。稀にホームレスに変身する人もいる。
数年前、サンマルタン運河沿いでぼくは駄文を綴る徒然の遊歩人に変えられてしまった。その時のメモは紙のトラベラーズノートに残っている。

ジャンルと上位の概念

「音楽はお好きですか?」
「ええ、音楽なしの人生は考えられません」
「音楽鑑賞の会をしているのですが、どうです、覗きに来ませんか?」
「ええ、ぜひ!」

行ってみたらクラシックを聴いて語り合う会だったらしい。ところが、ひいきの音楽はジャズ。どうにも居心地が悪く、最初で最後の参加になった。音楽は音楽でもジャンル違い。音楽という上位の概念は、アート一般において絵画や書道や工芸などと区別するためのものだ。その音楽の中にはジャンルがあり、ほとんどの場合、特定のジャンルやミュージシャンが好みなのであり、音楽なら何でもこいというのは稀だ。音楽論とクラシック音楽論は別のものなのである。

上位の概念で語れば、その下に置かれるおびただしいジャンルも包括したことになる。たとえば「食べることに目がない」と言えば、どんな食材でも料理でも受け入れることを意味する。そんな人はめったにいないから、「今度食事でもいかが?」と誘うのは配慮不足、また安易に「お願いします」と返すのは思慮不足。「鍋料理はどう?」も不十分。誘うなら「すっぽんでもいかが?」と絞り込まねばいけない。


書物にもいろいろなジャンルがある。メンバーがお気に入りの本を読んで書評をしたためて発表する書評会を不定期で主宰している。一般的に書評会や読書会はあまりジャンルにこだわらない。上位の本好きでくくっているからだ。但し、ぼくの書評会では「文学は除く」としている。知り合いには文学、とりわけ詩に絞って鑑賞会や創作研究会をしている人もいる。上位の概念をぽつんと出して済むこともあれば、ジャンルまで示すほうがいい場合がある。

芸術というのは上位の概念である。それだけでは音楽か絵画か文学か工芸か映画かはわからない。すべてひっくるめて芸術と言う場合は、経済ではない、工学ではない、農林水産ではないという排他的意味合いが強い。具体的なジャンルを枚挙する必要がない。すでにお気づきのように、芸術という概念は根であり、音楽や絵画や文学などはそこから派生する枝葉なのである。

上位の概念は時を経るにつれジャンルが細分化していく。つまり、枝葉が増えていく。情報化社会では生まれたてのジャンルもすぐに広まり、好みやひいきの多様性は日々加速していく。どんなマイナーなジャンルでもそこそこのグループが形成されるのである。だから、「音楽は好きですか?」「はい、好きです」というやりとりは今ではほとんど意味を成さない。「コンサートのチケットが余ったけれど、一枚差し上げますよ」と声を掛けられても、熱心な音楽ファンなら軽はずみに「ありがとう」とは言わない。ジャンルは当然のこととして、ミュージシャンの名まで聞く。

上位の概念は認識にとって重要だが、日常生活は具体的なジャンルで営まれている。特化され深掘りされた嗜好性に基づいて語らねば、上っ面のやりとりに終わってしまうのである。

アナロジーの想像

『オーケストラ・クラス』(原題“La mélodie”)を観た。音楽をテーマにした映画で、主役はバイオリンに初めて触れるとんでもない子どもたち、そして彼らを指導するプロのバイオリニスト。下記にあらすじを紹介するが、ネタバレにならぬよう公開されている情報の範囲に収めておく。

パリ19区の小学校に音楽教育プログラムの教師として赴任したバイオリニスト、シモン先生。音楽家として行き詰まっているシモン先生は子どもが苦手のようである。6年生の生徒たちにバイオリンを教えることになるが、悪戯好きでバイオリン初体験の彼らに音楽を教えるのは容易でない。先生は落胆する。
このクラスの生徒でないアーノルド少年が練習に加わるようになり、少年に素質を感じた先生が自信を取り戻す。仲間の子どもたちもアーノルドから刺激を受ける。音楽の魅力がわかり、練習に夢中になり、子どもたちは演奏を通じて少しずつ成長する。
そんな彼らに向き合い、先生も音楽の喜びを取り戻す。そして、生徒たちとともに一年後に開かれるフィルハーモニー・ド・パリでの演奏会を目指す。さて、その成果は……。

フランス語の原題の「メロディ」を英語の「オーケストラクラス」に替えて邦題にしているのでアメリカ映画と思ってしまう。日本語ならさしずめ「管弦楽(団)教室」というところか。管弦楽とは言うもののシモン先生が指導するのはバイオリン。本番のコンサート発表会ではその他の楽器のパートを外部から招いてコラボレーションしていた。


紹介したあらすじ通り、パリの音楽教育プログラムを脚色したストーリーと読めば、それはそれで十分である。才能それぞれ、習得速度それぞれ、音楽を教えることの根気の大変さを認識して映画館を出ればいい。予告編の映像やパンフレットの文字をなぞる映画鑑賞で何の不満もない。

ただ、この映画に関しては、原題“La mélodie”を併せてみると――深読みになるか見当違いになるかは別として――もう一つの物語の線を引けそうだ。多種多彩な楽器が音を奏でるオーケストラ。バイオリンだけに限っても弾く子どもの肌色は多種である。アルジェリア系、アフリカ系、アラブ系、アジア系の子どもの多さには気づくが、歴史的風土で生きてきたケルトやラテンやゲルマンの末裔らしき顔はちらほらである。

アメリカ人という呼び名同様に、フランス人というくくりにほとんど意味がない。民族の起源に遡って現代を批評し論じるには、多民族性が極まり過ぎた。パリやニューヨークは「オーケストラシティ」の様相を呈している。鑑賞後にそんなアナロジーを想像してみたのである。観光客がどれだけ押し寄せてきても、風土の深層に日本人色が沈殿しているぼくらの国と違って、一部の人種的偏見を残しながらも、この映画の舞台ではるつぼの中の攪拌はかなり進んでいる。まるで異音を繋いでメロディを奏でているかのように。

職人とサラリーマンとアルチザン

職人とサラリーマンは根本が違う、いや、そんなことはない、雇われ職人もいれば職人的サラリーマンもいるではないか……など、いろんな所見があってよい。職人とサラリーマンを二項対立で捉えてもよし、併せて一つになるのも一方で他方を兼ねるのもよし。職人がサラリーマンよりも上等であるなどとは微塵も思わない。

三年ほど前だったか、マンション建設にともなう一連の不祥事があった。法令遵守コンプライアンスしなかったと言って片付く話ではない。技術や倫理上の現象として生じた問題のゆゆしさもさることながら、仕事人が何を生業とし、何をよい仕事と考え、いかに顧客の期待に応えるかという根本的な問いを怠ることに問題の根深さがあった。職人が品質よりもコストや効率を優先すると困ったことになるのだ。

1970年代の自動車や電気製品に見られた〈計画的陳腐化〉を思い出させる。計画的陳腐化とは故意に劣化しやすい部品を製品に組み込み、寿命を短くしようとするけしからぬ企図だった。作るほうも作るほうだが、製品サイクルが短くなって新しい製品を手に入れたいと願う消費者もその片棒をかついでいたのである。今日、事業は当時とは比べものにならないほど超大であり、かつ生命や社会的損失に直結している。経済効率のためについ不正を犯してしまった、申し訳ないでは済まされない。

CSRでキレイごとを並べ立てても企業倫理の襟は正せない。企業に勤めながらプロフェッショナルたる職人がいかに矜持を保ち続けるのか。効率を最優先するあまり、「よい仕事」は二の次。職人とサラリーマンが相容れないのではない。そもそも職人には経済効率やぼろ儲けが似合わないのである。


「よい仕事(good work)とは出来のよい仕事である」とC.S.ルイスは言う。分業化社会の仕事には二種類あって、一つは「やる値打ちのある仕事」、もう一つは「金儲けだけを目的とする仕事」。当然、前者が「よい仕事」であり、よい仕事というかぎり出来が問われる。ルイスによれば、自給自足的社会に悪い仕事はなかった。自分が住む家の造りに手を抜くはずがなく、また自分が口にする農畜産物には安全を期した。しかも、よい仕事を自他の分け隔てなくおこなった。職人は人が誰であるかを問わない。仕事の出来のみを問う。

中身を偽るのは顧客を欺くばかりでなく、回り回って自己存在を揺るがすことになる。だから一流の職人は手を抜かないし、依頼人が十分に満足したとしても、そのレベルを超えてもなお手を止めない。

二年前に大阪歴史博物館で『近代大阪職人図鑑』を鑑賞した折り、細部の技巧にどれだけ凝れば気が済むのかと驚嘆した。大胆な全体構想にアート感覚を漲らせ、細部へのこだわりに執拗なまでの時間と手間を施す。アートと技が一つになる。「アルチザン」とはそういう資質に恵まれた職人を意味する。

よい仕事や値打ちのある仕事とは社会公共的あるいは芸術文化的になくてはならぬ仕事でもある。つまり、買い手がいなくても国や地方自治体が従事する者の職業と生活を担保するに値する仕事だ。医師や僧職者の仕事もそういう類なのだが、金儲けを目指すけしからん輩がいたりする。他方、一流のアルチザンでありながら恵まれない人々がいる。国家や都市は、自らの品格や気高さを願うのなら、アルチザン指数と言うべきものを高めてしかるべきである。

虚言を弄する

偽るなかれと心しても、人は多少なりとも偽って生きている。「相互信頼が社会の根本、真実まことを語らねばならない」と言うのは簡単だ。しかし、虚偽や虚言と無縁に生きるには修行が足りない。ひとまず自己反省を先に済ませておく。

虚言とは人の口から出る嘘。弄するものであり、吐くものであり、並べるものである。虚言はエネルギーを要する。のべつまくなしに嘘を、それこそ八百も並べるのは容易ではない。嘘とは一線を画すようでありながら、「心にないこと」や「適当なでたらめ」も虚言の仲間である。

都合が悪くなるとあっちは黙る。黙られるとこっちが困るから、大人げなく、しないほうがいいとわかりながらも、つい詰問してしまう。詰問されたら今度はあっちが困るので、ないことをあるかのように作り上げ、あることをないかのように見せかける。あっちもこっちもどっこいどっこいだ。悪人でも詐欺師でもない善良なる人たちがなぜ虚言に逃げるのか。


仏教学者で哲学者の中村元の『東洋のこころ』にはブッダのおびただしいことばが紹介されている。

会堂にいても、団体のうちにいても、何人も他人に向かって偽りを言ってはならぬ。
汝は甘言で取り入ったり、二枚舌を使ったり、うそをついたりしてはいけない。

単純な道徳論ではない。道遠く険しいのはわかっているが、生き様において虚言は排さねばならない。少なくともそういう生き方を心掛けねばならない。たまには生真面目にそう思う。

嘘つき呼ばわりするのは酷だが、言行不一致も結果として虚言と見なされる。有言不実行もそうだ。言を発する行為の「口業くごう」や「語業ごごう」を以て実行できたと錯覚するのが常。言うだけでおこなわなければ、それも虚言的行為である。

人はなぜ嘘をつくのか? これは核心の問いである。「それは何ものかを貪ろうとする執着しゅうじゃくがあるからです」と中村は言う。ニーズとウォンツなどと区別するが、必要と欲望は交錯する。仕事のため、生活のためと必要を強調しているうちに、貪欲の一線を越えてしまうのが人のさがなのである。

個人的体験としての読書観

『必読書考』と題して書いたことがある。その一文の最後を次のように締めくくった。

人それぞれに読みたいと直感する本があるように、人それぞれに必要に応じて読まざるをえない必読書があり、人それぞれに他人に紹介したい推薦書がある。(……)万人が読みたいと思う本などが存在しないように、万人が読まねばならない必読書や推薦書を最大公約数化できるはずがないのである。必読書に振り回されて読書ノイローゼを患うのは馬鹿げている。どこかの偉い人が薦める本などはしばし棚上げして、読みたいと思う本を読めばいい。そして、権威に頼らずにそういう本を見つけるには、足繁く書店や図書館に通って自ら〈読書縁〉なるものを結ぶしかないのである。

きわめて個人的な体験から生まれた読書観であり、誰にでも当てはまるわけではない。この読書観ゆえに、本の読み方については助言することはあるが、読むべき本を推奨することはめったにない。稀に「お勧めの本は?」と聞かれるが、よほどのことがないかぎり勧めたりしない。「最近読んだ本で印象に残っているのは何々」と言うことはあっても、それを推薦しているわけではない。

先月古書店で『本なんて! 作家と本をめぐる52話』という本を見つけた。この種のエッセイ集は一話が数ページで書かれているので、空き時間に「点の読書」をするには向いている。この一冊に浅田次郎の「読むこと書くこと」というエッセイが収められている。「職業がら読み書きはむろん大好きであるけれど、しいてどちらかと自問すれば前者であろうと思う」と言い放つ。

読書は愉しいが、「読みたい」が「読まねばならない」に転じる時があり、その瞬間から苦痛を感じる。浅田次郎は毎日午後2時から6時までの4時間を読書に充て、栞を挟まずに一気呵成に一冊を読むのを習慣としているらしい。一日に一冊の書物を読み続けるのは、さほど難しくないと言ってのける。年に365冊である。ぼくの場合、年に365冊以上読んだのは28歳前後の2年間のみ。千冊以上読んだと思うが、決して愉しい「千冊行」ではなかった。


たとえば、10歳から本格的に週に一冊読み続けて、還暦でようやく2,500冊に到達する。生涯これだけの本をふつうは読めない。ところで、先月の行政職員の研修時に、前列に座る数人に年に何冊の本を読むか聞いてみた。だいたい3冊から5冊だった。残りの受講生全員にそんなものかと尋ねれば、おおむね頷いていた。想像以上に少ないのである。月に一冊ならよく読んでいるほうに属するのだ。月に一冊とは年に12冊。半世紀で600冊である。ほとんどの人は千冊を読まずに生涯を終える。

こう考えると、安直なハウツー本やノウハウ本を読書遍歴の中に残すわけにはいかないと気づく。浅田次郎は言う。

思うに、あらゆる書物中の役立たずの最たるものは、いわゆる「ノウハウ本」であろう。自己啓発法だの成功術だの生活の知恵だの、つまり目先の悩みを解消しようとする類いの書物ほど無益なものはない。そもそも人生を活字から学ぼうとすること自体が横着だからである。

一見速成的に役立ちそうな本を追い求めずに、想像力を働かせてくれるような本を読むべきだと同感する。年に数冊しか読まない平均的読書人ならなおさらではないか。

件の研修後に一人の熱心な受講生が「どんな本を読めばいいのでしょうか?」と聞いてきた。冒頭で書いたように、共通の必読書などないと考えて推薦などしない主義のぼくだが、話を聞けば、読書に関して自分なりの考えを持つほど本を読んでおらず、しかも指南も受けてこなかった。同情に値する。と言うわけで、彼が独自の読書観を培う一助になればとの思いから数冊推奨したのである。言うまでもなく、例外的対応だった。その数冊から離陸して早々に個人的体験を積んでもらえればと思う。

〈白〉の時間

青については少々饒舌気味にこれまで語ってきた。気温34℃の今日の昼下がり、〈白〉が浮かび上がる。机の上にずしりと置かれた広辞苑を繰る。「しろ【白】」の項の筆頭に「太陽の光線をあらゆる波長にわたって一様に反射することによって見える色」という説明が出てくる。

「あらゆる」とか「一様に反射」などと言われると、さっき歩いてきた道すがらの眩しさがよみがえる。脳が暑さを思い出す。しかし、広辞苑は、語釈の後に「雪のような色」と言わずもがなの形容を付け足す。これで相殺できるというわけか。

ここ数日間、ノートは「何も書いたり加工したりしていない」。これも〈白〉だという。何もないことが〈白〉。頭がパニックになることを「頭が真っ黒になった」とは言わない。気が動転しことばを失う時、「頭が真っ白になった」と言う。


オフィスの冷蔵庫にはいただきものの白ワインがある。ボトルを立てるスペース不足のため、一段目の棚に寝かせてある。よく冷えている。ふだん頻繁な来客が、この暑さのせいでここ半月めっきり減った。夕刻の訪問者はもしかするとこの白にありつけるかもしれない。

盆休み中のオフィスは静寂そのものだ。白い椅子に腰かけて順番待ちの本を拾い読む。拾い読みでないと、長蛇の列が続いてさばききれない。拾い読みだけして、熟読の要ありと判断した本は横にのけておく。

まったくノイズのない環境は、逆に落ち着かない。iTunesに取り込んでおいたCDの音楽を新しいiPadにインストールして流す。三局目に流れたのは『マルシェの白い熊』。ヨーロッパのどこかの市場――と言っても、都会のそれではなく、小さな街か村のマルシェ――を勝手にイメージする。メロディラインがその雰囲気にぴったり。

曲が流れると本読みに集中できない。今日もまた無為に半日が過ぎるのか……。白旗を上げる前にささやかな抵抗を試みる。それがこの一文。〈白〉という、あまり縁のないテーマだが、数日ぶりに白いページが埋まった。