ある老夫妻

世間から見れば還暦は年寄りになるのだろうが、還暦を迎えたほとんどの人が「まだまだ若い」と自分では思っている。歳を取ったという自覚があっても、中年の仕上げという気分でいる。それが、たとえば後期高齢者の烙印を押される75歳あたりになると、もう老人であることを自認せざるをえなくなる。現役でばりばり頑張っている先輩もいるが、人生を無為に消化しているようにしか見えない人も少なくない。

高齢者はバリエーション豊かである。働き盛りの中高年がある程度類型化できるのに比べると、プロファイリングしにくいほど様々な「種」がいる。地域性も色濃く出る。先日病院で遭遇した老夫妻は後期高齢者の手前あたりと見受けたが、ある意味大阪的であり、また、大阪的でありながらも、そうそうお目にかかれる種ではなかった。実話とコントは同根で、違いがあるとすればギャラがあるかないかだと実感した次第である。


妻が院内の自販機でサプリウォーターを買ってきた。キャップを開けて夫に差し出した。黙って受け取って飲めばいいのに、夫はわがままである。「おれ、味のついた水は嫌いや。普通の冷たい水がええねん。」 そう言うから、飲まないのかと思いきや、ペットボトルをひったくるようにして飲んでいる。一言何か言わないと気が済まないのだ。一口飲んで物言わない。妻も黙っている。二人は向き合わず別々の方向を見ている。

しばらくして、夫の携帯が鳴る。マナーモードの切り替えを知らないから、高齢者の携帯はたいてい呼び出し音が鳴る。応答する声も大きい。「おお、○○か!?」 傍若無人な大声だ。大した話をするわけがない。夫の話を聞くだけで、電話の相手の問いまでわかってしまう。

(相手……)
「今な、病院で診察や。」
(相手……)
「膝に水が溜まっとる。」
(相手……)
「そうや、金も貯めんと膝に水溜めてるんや。」
(相手……)
「金も貯めんと膝に水溜めてどないすんねん!」

かなり気に入った表現か、あるいは常套句なのか、夫は二度繰り返した。

ディスプレイに番号が出て、ほどなく夫の名前が呼ばれる。ここは循環器内科なので、膝の水とは関係ない。つまり、夫は内臓にもどこか疾患があると思われる。診察を終えて夫妻が出てきた。開口一番、「今日は先生とは漫才にならんかったな、ハハハ。」 待合の人たちに聞こえるように言っている。妻は知らん顔。受付前でも虚勢を張った話しぶりだった。

夫妻は川面が見える窓際へ歩み、ソファーに腰掛けた。二人は黙っている。ぼくの診察番号がディスプレイに出たので席を立った。この先も沈黙が続いたのかどうかは知らない。

夫は普段から携帯以外にものを持たないのだろう。病院でも紙一枚すら手にしていなかった。ここに来るのも会計をするのも、おそらくすべて妻任せ。買物も一人でできない、買物弱者である。但し、携帯を持てば冗談を言い軽口を叩き、面と向かって喋れば強がってみせる。ギャグあり、虚勢あり、病気あり。そして、どこかに視線を向けて黙ると、背中に悲哀が漂う。高齢と折り合いをつけ、晩年を健やかに生きるのは容易ではない。

夏の匂い

夏特有のステレオタイプな匂いがありそうだ。街から離れたら、潮が匂い、樹木が芳香を放つ。その気になれば、日光も風もアスファルトも匂う。汗が匂うのは言うまでもない。鰻のかば焼きが匂い、蚊取り線香が匂う。視力だけと思われがちな既視感だが、本来は「感じたような気のする感覚」だ。嗅覚にも当てはまる。

今日、イタリアンブレンドのコーヒー豆をエスプレッソ用に細かく挽いてもらった。挽き始めた瞬間、閉じ込められていた香りが解放されて辺りに広がる。横を通る女性がつぶやいた、「わ、いい匂い」。ぼくの注文の品だが、香りは独り占めしない。どうぞご自由に、嗅ぎ放題ですから。

嗅いでいるつもりはないが漂ってくる匂いがある。その匂いは二つに分かれる。逃げたくなるほど閉口する匂いと、自主的に嗅いでみたくなる快い匂いである。前者の匂いは「におい」とも書く。後者の匂いは「香り」とも呼ぶ。

くすのきの成分を抽出したアロマミストを使っていて、出張時にも持って行く。フェイスシートよりも手軽だ。と言うか、汗を拭く用途と違い、ミストは気分転換のため。駅のホームで数分待った後に新幹線に乗り込む。首筋にワンプッシュすると、ほのかな森の香りと冷感で安らぐ。深呼吸して積極的に嗅ぐ。


ぼくの住む街には川があり運河がある。数キロメートル先には港もある。夏になると、昼間に温められた水面から湿気が立ち上がり、微風が特有の匂いを運んでくる。かすかに生臭い潮の匂い、藻のある池で澱んでいるような水の匂い。水際からかなり離れていてもそんな具合である。夜更けて温度が下がり、匂いはやっと緩和される。

川と運河の他に古い町家も方々に残っている。そぞろ歩きすれば、いくつもの路地を左右に眺めることになる。路地からは、寒い時期には感覚できない匂いが夏になると漂い始める。決してかぐわしい匂いではないが、悪臭でもない。日焼けした畳のような匂い、虫と草の青臭い匂い、地面が土だった時代の湿気た匂い……どれもこれも、嗅ぎ覚えのある懐かしい匂いだ。

夏は匂いの季節なのだろう。入り混じる各種の匂いに困惑されてはいけない。濃く味付けした食材を焼けば特有の生温い臭気を退治できる。夏場の鰻や肉がうまいのはそのせいかもしれない。

道案内の比較文化

スマートフォンどころか、インターネットも十分に普及していなかった頃の話。地図で現在地を知り、経路探索が簡単にできる今に比べると隔世の感を禁じ得ない。当時も勉強会をよく主宰しており、初参加者から電話の問い合わせがあった。加えて、仕事柄英文コピーライターを不定期に採用していたので、外国人がよく面接にやってきたものだ。

日本人からの問い合わせに対して、当社の場所を案内する場合の標準的な手順は次の通り。

「今はどちらにおられますか?」
H駅です」
「そこから地下鉄T線に乗ってY駅またはF駅方面の電車に乗り、二つ目のT駅で下車してください。改札を出て地上の4番出口へ。目の前に広い通りがありますので、南方面へ歩いてください。一つ目の角を右へ曲がれば角のビルを含めて三つ目の建物がDビルです。当社はそのビルの5階です」

このように書いてみると、さほど難しくないが、なにしろ電話での案内だ。メモも取らずに覚えるには少々複雑なので、二人に一人は公衆電話からもう一度連絡してきたものである。

あくまでもぼくの経験に限るが、一般的に日本人は目立った建物を頼りにして案内することが多い。「この道をまっすぐ200メートルほど行くと右手に○○病院があります。その病院を越して二つ目の角を左折してしばらく歩くとコンビニがあって……」という具合。もっとも尋ねられた案内人に土地勘がなければ、ここまで具体的には説明できない。東西南北という方角を使うか、それとも左右で示すかも悩ましい。初めての場所では方角はピンとこない。正しい方向に歩けているとすれば、右折や左折のほうがわかりやすい。


「南方向へ大通り沿いに」などと言っても、東西南北がチンプンカンプンだと、行き先の反対方向に歩いてしまう人がいる。道で聞かれる場合は指があるから指し示せる。電話ではそうはいかない。「4番出口を出ると二車線の大通りが走っています。車の進行方向に沿って」などと伝えると正確になる。英語では、決まり文句がある。“Walk along the traffic”(車の走る流れに沿って)。逆なら“Walk against the traffic”(車の走る流れの逆に)である。

英米人のほうがこういう発想に慣れているような気がする。彼らに目ぼしい建物の固有名詞を知らせるのはあまり効果的ではない。病院や郵便局などと具体的な点の位置を教えても、文字が読めなければ意味がない。だから、道程を伝えるほうが理解されやすい。彼らは建物群の一区画を表現する「ブロック」になじんでいるので、何メートルなどと言わなくてもよい。

A地点でBに行きたいと尋ねられるとする。まず、進行方向を指で示して「2ブロック進む」と伝える(青い点線)。この時、角にどんな建物があろうと、その情報を説明に紛れ込ませない。次の道が広いなら、ここで道を渡るように指示する。つまり、「2ブロック進み、道を渡る」。続いて「左折してさらに2ブロック進んで道を渡る」と伝える(黄色い点線)。ここで、「その角がB」と言うのだが、この時点でそのビルの1階が花屋であるかレストランであるかを伝えれば親切だ。

対面している時は以上の要領でいいが、電話での案内になると東西南北は必須になる。地図の助けなしに方角を示すのはかなり煩わしいから、その場合はA地点近くの目ぼしい建物や店を本人に尋ねて立ち位置を確認し、進行方向を示すことになる。決して容易なコミュニケーションではないが、案内者がそこまで詳しくなければ手も足も出ない。「誰かに聞いてください」と説明を放棄したスタッフもいた。

スマートフォンの地図もナビゲーションも便利この上ない。しかし、頭の中で地図を思い浮かべ、必死に適語をまさぐって行き先をピンポイントで伝えるような努力も機会もなくなった今、確実にぼくたちのある種のコミュニケーションは劣化した。具体的な集合場所など伝えずに、「駅に着いたら電話ちょうだい」で済んでしまうのは、はたして喜ぶべき現象なのだろうか。

カフェにて

賑わっているカフェ。カウンターで注文の際に「店内は大変混み合っておりますので、先にお席の確保をお願いします」と言われることがある。促されるまま、注文を後回しにして席を探す。予約札があるわけではないから、自分の席のしるしになるものを置くしかない。たいていはハンカチ。ハンカチがなければノート。「命と同じくらい大切なノート」と広く宣言しているにしては、不用意に置くものである。

カフェ賑わい空席わずか 片隅のテーブルのノートは自分のしるし /  岡野勝志

確保したテーブルに注文したコーヒーを自分で運ぶ。隣りの男性はテーブルに所狭しと書類や本を広げ、パソコンに向かっている。彼はトイレに立つ。すべて置きっ放し。おまけに、上着も椅子にかけたまま。なかなか戻ってこない。こっちがドキドキしてしまう。彼の陣取った場所はしるしだらけ。しかし、それは席外しの証でもある。この国の人々の安全安心ボケ、ここに極まる。


街歩きの途中で一休みする。公園のベンチに腰掛けるのもいいが、喫茶店を探してコーヒーにありつくのが愉しみの一つ。チェーン店が一杯200円か250円でまずまずのコーヒーを提供する時代だ、年季の入ったマスターが仕切っている喫茶店の倍額のコーヒーが引けを取るはずがない。しかし、稀にハズレがある。昨日がそうだった。ハズレの後に帰宅して真っ先にすること。お祓いではない。自分でエスプレッソを淹れて飲み直し。

初めて入る店の気配は店名と店構えから判断するしかない。まあいいのではないかと直感して入った。昭和レトロだが、インテリアも照明も悪くない。とびきりうまいのを淹れてくれそうな雰囲気のマスター。待つこと56分。コーヒーを一口すすった瞬間、レトロな喫茶店は「場末の茶店さてん」へと転落した。

ああ、レトロな構えにほだされた

注文したのはブレンドなのに

出てきた一杯はアメリカン

香りのない超薄味のアメリカン

砂糖入れなきゃ飲めやしない

自分の勘の悪さが情けない

『涙――Made in tears』を思い出す

♪ メッキだらけのケバい茶店……と

中島みゆき調で口ずさんでみるか

コーヒー運は悪くないのに……

威張っているような砂糖壺を睨み

420円を放り出すように置いてきた

五月の雑談

暑くなると喋るのが億劫になる。五月の終わりはまだ大丈夫。突然やって来る若い知り合いとの雑談も弾む。ちょっとした気づきも書き留めておこうという気になる。


ひょんなことからコマーシャルの話になった。「お墓のない人生は、はかない人生というのがありましたね」。うん、あったあった。たぶん関西限定。「はかない」と「墓ない」がダジャレになっただけだが、耳にこびりつく効果があった。

死後の話ではなく、生きている今、もしなかったらはかなく感じるのは何だと思う? 「一つだけ挙げるのはむずかしいなあ、クリープを入れないコーヒーははかないとか……」。うーん、それはない。クリープなんて元から使ってないし。それを言うなら、「コーヒーのない生活ははかない」ではないか。あ、コーヒーを淹れよう。あいにくクリープはないけれど。

「近々ヨーロッパ旅行に出掛けるんです」。羨ましいなあ。ぼくもそのつもりだったが、仕事や体調のこともあって春先に断念したばかり。旅のない人生ははかないと思う。人生そのものも旅だけど、人生以外の旅もいる。別に欧州まで行かなくても、近場を非日常的感覚で歩くだけでも、ちょっとした旅になる。見えなかったものが見えてくるし……。いや、見えているのに見なかったと言うべきか。

旅に出ると人や光景に出逢う。出逢いとは「邂逅」。ふつうは「かいこう」と読むけれど、裏ワザ的に「わくらば」と読ませることがある。「わくらばと言えば、病に葉と書く『病葉』もありますね」。そう、それもある。ちなみに、病を「わくら」、葉を「ば」と読むと思っている人が多いけれど、病葉は熟語訓なので分解できないんだ。知ってた?


最近小さなグリーンをちょくちょく買っている。前からあったのも生き長らえているが、病葉じゃないかと思うことがある。道端の雑草のほうがよほど元気だから。ベランダの鉢植えの名は知っているが、雑草の名は知らない。有名か無名かの差が天と地の居場所になってしまう。雑草にだって名はある。名がありながら無名扱いになるのは人も同じ。

「そろそろアジサイの季節ですね」。たしかに。でも、子どもの頃庭に咲かせていたアサガオのほうが印象深い。ところで、メジャーなアサガオがマイナーなヒルガオに組分けされているのを知ってちょっと複雑な気分になったことがある。有名なアサガオのほうをグループの屋号にすればいいのに……。

朝顔の科がヒルガオでサツマイモ属だと知って見方が変わる /  岡野勝志


「思い出や印象の濃淡、遠近感は人それぞれですね」。だからこそ、こうして雑談ができるわけだ。みんな一緒だったら話すことなどない。ちょっと前までは、思い出や印象は脳の記憶だけに依存していたけれど、最近はそれだけではないような気がしている。自分と長く時間を共にしてくれた物からいろんなことを思い出させてもらっている。

思い出は記憶庫にあるのみならず 物の中にも綴じられている  /  岡野勝志

平らに均す

天気予報に「気温は20°C前後で、この時期らしい気候になるでしょう」という表現がある。この時期らしいと言われても、これがよくわからない。過去の平均的なこの時期の気温など頭も身体も覚えていない。昨年との比較すらできない。「昨日よりも過ごしやすいでしょう」も困る。過ごしやすさは人それぞれ。「昨日より暖かくなるでしょう」なら、まあ何となく想像がつく。なにしろ、昨日の今日だから、感覚はまだ鈍っていない。

「気温は平年並みでしょう」というのもある。親切なコメントであり、迷惑だと思わないが、あまり役に立つ情報ではない。この時期と言われるのと同じく、平年の寒暖のほどがわからないからである。ぼくたちが思慮せずに平年と言うのとは違って、天気の専門家の平年にはきちんとした定義があり、データの裏付けもあるらしい。平年とは過去30年の平均だ。平年より低い、平年並み、平年より高いと三段階で表現されるとのこと。残念ながら、過去30年のことは記憶にないので、平年並みと告げられれば「そうか、平年並みか」とうなずくしかない。うなずくが、どんな体感なのかはやっぱりわからない。


今年のこの日の平年並みというデータも過去に組み入れられる。一番古いのを押し出して、新たに加わって過去30年の平年が更新され、来年に活用される。算出している専門家はよくわかっているが、告げられるほうにはピンと来ない。平年並みという表現に何となく納得するのも妙な話だ。

平らにならすのは過去の気温だけではない。学生の成績からは平均値が導かれる。平均を平準と言い換えれば、凹凸を均して差を無くすという意味になる。他にもいろいろある。よく使うのは平日。さらに、平時と言えば戦時ではなく、平事と書けば有事ではない。戦時と有事の明快さに比べたら、平時も平事も摑みどころがない。

今日という日がどんな日かを知りたいから、過去と照合して平年並みなどと表わす。自分がどんな状況なのかを気にするから、その他大勢と比較して「平均的サラリーマン像」なるものを浮き彫りにする。そして、こんな感じだよと他人に教えてもらうのだが、知ってどうなるものでもない。トーストにバターを塗って平らに均す。これも平均化作業の一つだが、その良さは実感できる。そうしないよりもおいしくいただけるからである。

たいやきとエスプレッソ

何を食べ何を飲むかという併せ技はもちろんのこと、何を食べてから何を飲むか、その逆に、何を飲んでから何を食べるかという時間差飲食も願望通りにはいかず、偶然の流れに委ねることが多い。思いと裏腹の後先になると、食べものと飲みものの味覚と印象は大いに異なってくる。出汁までたいらげたきつねうどんの後にコーヒーは飲みづらい。

あの日の昼下がり、腹八分目だったら話は変わっていたかもしれない。昼食で十分に満たされていた。いわゆる別腹デザートを受け入れる余地はなかった。それどころか、腹ごなしに歩かねばならないと思ったほど。だから歩くことにした。まったく不案内の場所ではなかったが、方向感覚は頼りない。街並みに視線を投げながら半時間ほど歩いたところで、「これはすぐれものだろう」と直感した店の前に出た。たいやきの店である。前の客がいくつか包んでもらった直後、焼き上がるまで数分待つ。

焼きたてがうまいに決まっている。半時間ほど歩いたので大丈夫だろうと思って買ったわけだが、熱々のたいやきを手にして、どうもあんこは喉を通りそうにない。買い食いを断念して、さらに半時間かけて帰路につくことにした。


真っ直ぐ帰ればいいのに、たまたま通りがかったカフェに誘惑される。以前飲んだこの店のエスプレッソが本場に引けを取らないのを知っている。ところで、エスプレッソを飲み慣れている人ならわかると思うが、ケーキやクッキーと相性のよい通常のレギュラーコーヒーとは違って、エスプレッソを飲む時は原則茶菓子は不要だ。せいぜい小さなチョコレートひとかけらである。エスプレッソのダブル、約60㎖を注文して三口ほどで飲み干す。仮に「店内でたいやきの持ち込みオーケー」と言われても無理だ。ここから自宅まで徒歩20分弱。苦味を口内に残しながら帰ってきた。

3時のおやつ」にちょうどよい頃に、日本茶を淹れ、オーブントースターでたいやきを焼き直して食べるつもりだった。しかし、エスプレッソの余韻がまだ残っていて一向にその気にならない。店の前に続いて二度目のパス。たいやきの存在を思い出したのは、その日の夜ではなく、なんと翌日の夕方になってからだった。焼き上がり直後の味を知らないが、おそらくうまさは半減していたに違いない。

飲食の組み合わせや順序はデリケートにして、かつ、大げさに言えば、深淵である。たいやきにはお茶でなければならない。実際、くだんのたいやき店の店内には、自由にどうぞとお茶を置いてあった。「エスプレッソとたいやきセット」という異端を思いつく店は現れないだろう。以前、某コーヒー会社が「和食の後のコーヒー」というスローガンを掲げたことがあるが、和食の献立次第である。鍋をつついて雑炊でしめた直後のホットコーヒーはどうなんだろう。エスプレッソも料理を選ぶ。肉料理とワインの食事だからこそ絶妙の仕上げになる。

なお、イタリアの朝のバールでは、小さなパンもつままずに、空きっ腹に砂糖たっぷりのエスプレッソを一気に注ぐのはありふれた光景だ。エスプレッソびいきのぼくもあの真似はできない。旅先では必ず小さな甘いパンをつまんでいた。しかし、パンと一緒ならエスプレッソでなく、普通のコーヒーのほうがいい。冷めたたいやき、朝のレギュラーコーヒーには合うかもしれない。あんぱん感覚で食べればいい。

軽めの断章

古いノートに走り書きした断章。軽めの茶話をいくつか紹介する。

「四方八方、東西南北からやって来るのがニュースだね。英語で北は……そう、North。東は……East。西は……West、そして南は、はい、South。頭文字を並べたら、NEWS……これがニュースの語源だよ」。

知る人ぞ知る作り話のジョークなのにえらく感心されてしまった。種明かしをしづらい雰囲気になったので、そのままにしておいた。

日本では、日本人が道に迷っても、見た目明らかに日本人でない通行人に道をたずねることはない。しかし、人種のるつぼのような街では相手を選ばずに道案内を求めてくる。

パリに滞在していた時の話。もちろん、ぼくは観光客。朝、あてもなく手ぶらでアパート近くを歩いていた。男性が近づいてきてフランス語で「郵便局はどこか?」とたずねる。よりによってこのぼくにたずねたものである。「観光客なので、このあたりのことはよく知らない。誰かに聞いてください」ととっさに反応するほどフランス語に堪能ではない。なので、郵便局がありそうな方角に見当をつけ、そっちを指差して“Voilà!”(あっち)と返した。男性は“Merci”と言ってその方向へ歩いて行った。歩き続ければ、きっとどこかで郵便局が見つかるだろう。

「仕事でマッチングできるかも」ということで、友人がA氏を紹介してくれた。アポの日、友人は都合がつかなかったので、A氏が一人でオフィスに訪ねてきた。A氏は東大卒だと友人に聞かされていた。

名刺を交換し自己紹介の流れで雑談になり、A氏が大阪出身だとわかった。知らない振りして「大学も関西ですか?」と聞いてみた。「いいえ。東京のほうです」とA氏。東京には百数十もの大学がある。とぼけて「○○大学とか……」と二流大学の名前を言ってみた。「あ、違います」。

「東京のほう……あっ、そうか、『ほう』は法律の法なんですね……東京の法、へぇ、東大法学部?」「ええ」。東京大学法学部を出ていても、なかなか胸を張って言いづらいのだなあと同情したものである。

釈迦に説法。ある日、釈迦に説法しようとした大胆な男がいた。傍にいた友人がたしなめた。釈迦が友人を遮って男に懇願した。「ぜひ説法を聞かせていただきたい」。

馬の耳に念仏。馬の手入れをしていた厩務員、「毎日、こうしていろいろと話し掛けるけど、お前の耳には一切入らないんだよなあ」とつぶやいた。馬が言った、「ぜひ念仏を唱えていただきたい」。

とうの昔に消えたはずの歌手のリサイタル広告を見た。「リサイクル」と読んだのはぼくの非ではない。

日常の周辺

物持ちがいい男がいた。仕事上の書類であれ、どこかでたまたま手にした物であれ、何でも残していた。本来、物持ちとは長く大事に使うこと。しかし、彼は使いもせずに取って置くことのほうが多かった。ある時、習慣的に物を残しておく執着心がよくないと気づいた。執着心を消そうと一念発起し、所有するものを一つずつ順に捨てていくとスペースと余裕が生まれ、ほっとしたようだった。ほっとする? ほんとうにそうだったのだろうか。何が何でも捨てるのだという頑固な決意と物が減っていく現象とは裏腹に、化け物のような残滓ざんしの幻影が見え隠れした。


これがいいあれがいいという選択肢狭まる日々に必然を見る / 岡野勝志


ぼくの散歩道に公園はある。しかし、広場がない。ヨーロッパの都市にはそこかしこに大小様々の広場があり、教会や塔が建っている。遠目にランドマーク頼りに広場に足を踏み入れることもあれば、敷石の細い舗道を曲がると忽然と広場が現れることがある。人々が三々五々集まり、そぞろ歩きして通り過ぎ、佇んで談論するような広場は、残念ながらぼくの街にはない。公園はあるが、広場のような主役の座にはない。広場は街の中心であり象徴なのだ。そこに住まうことを決意した拠り所の一つとして存在し続ける。


「この仕事は宝くじと同じで、当たるか当たらないかわからない」と誰かが言った。正しいアナロジーではない。宝くじを比喩として持ち出すのなら、こう言うべきである。「この仕事は宝くじと同じで、当たらない」。


Xには手間暇がかかる。明けても暮れても画策しなければならない。なぜこんな面倒なことをするのか。Xは人心の疲弊を招く。人生にXをしている余裕などない。単純明快に事をおこなうのに精一杯だ。X相反する二つのシナリオを求める。シナリオは一つのほうがわかりやすい。Xには、偽善、嫉妬、保身、計略、儀礼などが代入できる。


かれこれ30年近くいろいろな勉強会を主宰してきた。勉強会後の懇親会によさそうな店を見つけるのが癖になっている。わざわざ探しに行くわけではないが、近場で通りすがりにリーフレットやショップカードをもらってくる。

パーティー・歓送迎会の予約承ってマス

「マス」などと書いてある店を予約しない。店にも入らない。これは店探しのキャリアに裏付けされた直感の成せる業である。

写真からの連想

目まぐるしく過ぎたこの一週間。しかし、隙間の時間はあるものだ。ちょっとした隙間にメモしたり写真を撮ったりしている。なぜこれを書いたのか。記憶を再生できないメモはあるが、写真には記憶がくっついていることが多い。記憶がよみがえり、それだけで終わらずあれこれと連想することがある。


衝動で買って手元にあるのだから、これが何かはわかっている。わかっているが、今こうして見てもすでに知ってしまったその名前となかなか一致しない。以前誰かにもらってまだ封を開けていないヒノキのチップにそっくり。風呂に入れたら大変なことになる。これはキャラメル味のココナツである。見た目以上に美味だ。小皿にいくつか置いて「お一つどうぞ」以外に何も言わずに差し出してみよう。いったい何割の人が一粒つまんで口に放り込むだろうか。キャラメルコーンを食べるのに勇気はいらない。キャラメルココナツには、いる。


パワーポイントのクリップアート素材を漁っていたらカジュアルな読書人の写真に出合った。いや、これは読書ではなくて朗読しているのではないかと思い直す。そうだ、書評会で朗読をしてもらおうとひらめいた。不定期で主宰している書評会では一冊の本を読んでまとめることになっている。読めなかったら発表はできない。しかし、朗読ならできるだろう。本の気に入った一節、1ページだけ選んで読めばいいのだから。見開き2ページなら3分もかからない。聴く方も飽きない。たとえば森鴎外の短編『牛鍋』の歯切れのいい冒頭だけなら30秒で朗読できる。但し、噛んでばかりで流暢さを欠いては台無しである。

鍋はぐつぐつ煮える。
牛肉のくれないは男のすばしこい箸でかえされる。白くなった方が上になる。 斜に薄く切られた、ざくと云う名の葱は、白い処が段々に黄いろくなって、褐色の汁の中へ沈む。 箸のすばしこい男は、三十前後であろう。晴着らしい印半纏しるしばんてんを着ている。そば折鞄おりかばんが置いてある。 酒を飲んでは肉を反す。肉を反しては酒を飲む。


ディベートの試合の審査では「バロットシート」なるものを使う。議論の内容の要点をメモし、争点の攻防をわかりやすくフローの形で再現する。何週間も準備をして試合に臨んでいる人たちのことを思うと、安易な聞き方はできない。全身を耳にして傾聴する。話すスピードは書くスピードよりも速いのが常であるから、書き味のよい筆記具を選ぶ。

ディベート大会では数種類の万年筆と水性ボールペンを用意する。その日の調子と気分に応じてこの一本を選ぶ。これと決めれば一筆入魂である。一昨日の大会では左から二本目のブルーブラックインクのボールペンで書き込んだ。


久々に行きつけの古書店を覗いた。全集のうちの一冊『文体』が新品かつ格安だったので、なまくらにページをめくっただけでさっさと買って帰った。文体というのはすでに比喩された術語である。なにしろ「文の身体」なのだから。自分の姿勢、身体つきを知らないわけではないが、後日講演している写真を見て、奇怪な立居に驚くことがある。文体になると紙に書かれたものと自覚との間にはかなりの落差があるに違いない。自分の文体を意識したことはほとんどなく、またテーマによってスタイルが変わるのを承知しているから、自分流の文体などあるはずがないと思っている。

しかし、ぼくの拙い文章をよく読んでくれている人は、テーマに関係なく、文体があると言う。喜ぶべきかどうか悩む。他人様の文章を読んでいて、退屈するのは文体にではない。明けても暮れても同じような話にうんざりするのである。文体が織り成す文章の中身がマンネリズムに陥らないように気をつけておきたいと思う。