スマートフォンどころか、インターネットも十分に普及していなかった頃の話。地図で現在地を知り、経路探索が簡単にできる今に比べると隔世の感を禁じ得ない。当時も勉強会をよく主宰しており、初参加者から電話の問い合わせがあった。加えて、仕事柄英文コピーライターを不定期に採用していたので、外国人がよく面接にやってきたものだ。
日本人からの問い合わせに対して、当社の場所を案内する場合の標準的な手順は次の通り。
「今はどちらにおられますか?」
「H駅です」
「そこから地下鉄T線に乗ってY駅またはF駅方面の電車に乗り、二つ目のT駅で下車してください。改札を出て地上の4番出口へ。目の前に広い通りがありますので、南方面へ歩いてください。一つ目の角を右へ曲がれば角のビルを含めて三つ目の建物がDビルです。当社はそのビルの5階です」
このように書いてみると、さほど難しくないが、なにしろ電話での案内だ。メモも取らずに覚えるには少々複雑なので、二人に一人は公衆電話からもう一度連絡してきたものである。
あくまでもぼくの経験に限るが、一般的に日本人は目立った建物を頼りにして案内することが多い。「この道をまっすぐ200メートルほど行くと右手に○○病院があります。その病院を越して二つ目の角を左折してしばらく歩くとコンビニがあって……」という具合。もっとも尋ねられた案内人に土地勘がなければ、ここまで具体的には説明できない。東西南北という方角を使うか、それとも左右で示すかも悩ましい。初めての場所では方角はピンとこない。正しい方向に歩けているとすれば、右折や左折のほうがわかりやすい。
「南方向へ大通り沿いに」などと言っても、東西南北がチンプンカンプンだと、行き先の反対方向に歩いてしまう人がいる。道で聞かれる場合は指があるから指し示せる。電話ではそうはいかない。「4番出口を出ると二車線の大通りが走っています。車の進行方向に沿って」などと伝えると正確になる。英語では、決まり文句がある。“Walk along the traffic”(車の走る流れに沿って)。逆なら“Walk against the traffic”(車の走る流れの逆に)である。
英米人のほうがこういう発想に慣れているような気がする。彼らに目ぼしい建物の固有名詞を知らせるのはあまり効果的ではない。病院や郵便局などと具体的な点の位置を教えても、文字が読めなければ意味がない。だから、道程を伝えるほうが理解されやすい。彼らは建物群の一区画を表現する「ブロック」になじんでいるので、何メートルなどと言わなくてもよい。
A地点でBに行きたいと尋ねられるとする。まず、進行方向を指で示して「2ブロック進む」と伝える(青い点線)。この時、角にどんな建物があろうと、その情報を説明に紛れ込ませない。次の道が広いなら、ここで道を渡るように指示する。つまり、「2ブロック進み、道を渡る」。続いて「左折してさらに2ブロック進んで道を渡る」と伝える(黄色い点線)。ここで、「その角がB」と言うのだが、この時点でそのビルの1階が花屋であるかレストランであるかを伝えれば親切だ。
対面している時は以上の要領でいいが、電話での案内になると東西南北は必須になる。地図の助けなしに方角を示すのはかなり煩わしいから、その場合はA地点近くの目ぼしい建物や店を本人に尋ねて立ち位置を確認し、進行方向を示すことになる。決して容易なコミュニケーションではないが、案内者がそこまで詳しくなければ手も足も出ない。「誰かに聞いてください」と説明を放棄したスタッフもいた。
スマートフォンの地図もナビゲーションも便利この上ない。しかし、頭の中で地図を思い浮かべ、必死に適語をまさぐって行き先をピンポイントで伝えるような努力も機会もなくなった今、確実にぼくたちのある種のコミュニケーションは劣化した。具体的な集合場所など伝えずに、「駅に着いたら電話ちょうだい」で済んでしまうのは、はたして喜ぶべき現象なのだろうか。