もう一つの読書体験

読書体験なのだから、本を読むのは当たり前。しかし、読むことだけが体験になるわけではない。読書体験には未読の本を既読に変える以外のものがある。紙を何百枚も綴じた立体物としての本を買ったままで放置しておくと、後ろめたさが物量的に圧のし掛かってくる。新たに次の本を買えば、さらにプレッシャーが増す。電子書籍の場合、姿かたちが見えないからこんな気持ちにはならない。買って読まなくても平気でいられる。

二冊の本

古書店に行く時点では狙いすました本などない。棚を眺めてみないと何を買って帰るかわからないし、何も買わないこともよくある。先日、『ガウディを〈読む〉』と『生きものの建築学』の二冊を買った。置かれていた場所は別々で、書架はだいぶ離れていた。

数年前にバルセロナを訪れて以来、ぼくのガウディへの関心は高まるばかり。だから、前者を手に取ったことに不思議はない。手にしたまま古書店内をしばらく渉猟しているうちに、後者の本を見つけた。タイトルに魅かれたわけではない。表紙にサグラダファミリアのスケッチが描かれていることに心がざわめいたのだ。

『生きものの建築学』は「動物の建築と人間の巣」と題されて専門誌に連載された記事を収録している。著者があとがきで次のように書いている。

(……)たとえばこの本の場合、ガウディの壮大な建築を突拍子もないことに、白蟻(マクロターム)の驚くべき「建築」の上にモンタージュしてみることができるのではないか、とふと考えついた時、私はすでに足手まといな故郷や家族のことを忘れて、知らない土地を歩く旅を楽しみはじめていたに違いない。


ガウディ建築の断片が白蟻の巣の上に重なるように再構築されるとはおもしろいではないか。何も建築に限った話ではない。モンタージュでもブリコラージュでもいい、異種どうしが結び付くことに好奇心が掻き立てられる。生きものとガウディが著者の内で重なり合ったように、古書店の違う棚で別々の本が共鳴していた。偶然のこんな発見が、ある種の知的サスペンスを誘発することがある。

仕事で何日も出張することはあっても、まとまった日にちを取って旅に出掛けることが少なくなった。書物は旅から遠ざかっている自分の中に生じる「穴」を埋めてくれる。強い印象を受けたり大いに啓発されたりする一冊がある。しかし、旅に似た楽しみは、むしろ複数の書物どうしが即興的に編み出すエピソードのほうだ。つまり、どの一冊を買うかよりも、どれとどれを買うかのほうに意味を見い出す。

二冊の本をクロスオーバーしながら深読みすれば、随所にモンタージュを見つけたり、つながりを連想したり、相互参照したりするのだろう。この二冊はタイトルに共通項があるからきっとそうなる。しかし、適当に買ってきたジャンル違いの本なのに、パズルのピースのようにぴったり填まる時もある。まったく予期していない分、驚きは増幅する。リンカーン大統領にケネディという秘書官がいたのを知った後、ついでにケネディ大統領の秘書官を調べてみたらリンカーンという秘書官がいたのを発見した――これに似た知的サスペンスは併読に固有の体験である。

英国の印象

イギリス国旗

良きにつけ悪しきにつけ、英国が旬である。喉元を過ぎると旬が終わりそうなので、今が書き頃だ。ぼくの英国と英国人との、きわめて希薄な関わりを体験的に、なんと了見の狭い見方だ! と指摘されるのを覚悟して、綴ってみることにする。

なお、ヨーロッパには7回旅しているが、英国の地には足を踏み入れたことはない。せめてロンドンでもと思い、パリから特急で小旅行を企てたこともあったが、今なお実現していない。もう実現しないかもしれない。

英国での実体験がなく、英国人との接点もたかが知れている。ぼくが一番最初に会った英国人は大学教授だった。「きみは夏に何をしたか?」と聞くから、“I went to the sea this summer.”(今年の夏は海に行きました)というような返事をしたら、彼は“I see.”(なるほど)とうなずいた。言うまでもなく、“sea”と“see”のダジャレである。おもしろくなかったし興ざめしかけたが、当の本人は平気だった。

次に縁のあった英国人とは、国際広報の仕事で数年間一緒に働いた。いい人だったが、プライドが強く、またアマノジャクだった。という次第で、ぼくの英国と英国人の印象はほとんど紙に書かれた知識に依る。しかし、文字媒体経由であっても、それもまた体験の変種だと言えるだろう。

『世界ビジネスジョーク集』(おおばともみつ著)は第一章が「EU各国」。「EU参加国の横顔」が最初の見出し。今では28ヵ国が参加しているが、これは2003年頃の話で、当時は15ヵ国だった。ブリュッセルで売られていた絵葉書には各国の国民性を書き添えてあったという。

アイルランド人のように、いつもシラフで、
イギリス人のように料理が上手で、
フランス人のように、いつも謙虚で、
イタリア人のように、秩序正しく、
ドイツ人のように、ユーモアを解し、
オランダ人のように、気前良く、
ベルギー人のように、勤勉で、
デンマーク人のように、思慮深く、
スウェーデン人のように、柔軟で、
フィンランド人のように、おしゃべりで、
スペイン人のように、地味で、
ポルトガル人のように、技術に強く、
オーストリア人のように、忍耐強く、
ルクセンブルク人のように、有名で、
ギリシア人のように、組織化されている。

以上、いろんな顔を持つ統合体、それがEUというわけだが、自虐的な逆説がおもしろい。イギリス人は「料理が上手!」というおふざけだが、今回の包丁さばきはどうだったのか。


独習で使っていた中級の英語読本で“An Englishman’s house is his castle.”(イギリス人にとって家は城塞である)という諺を覚えた。堅固な城塞に引きこもっていたほうがよかったのか。今回の一件に関して、元々加盟したのが間違いだったという論評もある。同じ教本にはコーヒーハウスの話も載っていた。英国と言えばティーではないのかと不思議に思ったのを覚えている。先日古本屋で『コーヒー・ハウス』という、18世紀ロンドンの都市生活史をテーマにした本を見つけた。ハウスでの談論は政治、経済、文化に影響を与えたという。本と出合った翌日、EU離脱のニュースが伝わってきた。コーヒーをよく味わい熟慮して判断した結果だったのか。

英国人と英国社会についてG・ミケシュが書いた『没落のすすめ――「英国病」讃歌』を興味深く読んだのが1978年。ずいぶん啓発されたが、それでもなお、イギリスはよく分からない存在だった。なにしろ、イギリス、英国、UK、ブリテン、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド……と、何がどうなっているのか、なぜ呼び名がいろいろあるのかなど、基本のところで不可解なものがこびり付いていた。英国はぼくの仕切りではヨーロッパに入っていない。ヨーロッパに関する本は数え切れないほど読んだが、英国については上記のミケシュも含めて数冊。他には、ローワン・アトキンソンの『ミスタービーン』と独り舞台のDVDを何度か観た程度……。親近感があると思っていたのは錯覚で、実は、ずっと遠い存在だったというのが偽らざる体験的印象なのである。

野球部に入部するには丸坊主にしないといけないのに、一人だけ長髪のまま部活動をしていた。監督もコーチも気を遣っていた。バントの指示が出ても無視して打ったり、打てのサインなのに見送ったり……。そして、ついに退部届を提出した。丸坊主になるのを恐れたからではない。たぶん、元々野球が好きではなかったのだろう。

アクセルと学習の関係

先月『日本人はどこから来たのか?』(海部陽介著)を興味深く読んだ。題名になっているテーマに関心があったのは当然だが、6万年か7万年か前のホモサピエンスの出アフリカから世界への拡散の経緯に以前から好奇心をくすぐられていた。後期石器時代や縄文時代のことですら諸説多々あり、断定できるような確証は不十分である。つまり、素人にも自在な推理が許されるから、人類の起源と進化について自由に想像を膨らませることができる。

かれこれ一年くらいになるだろうか。NHKの『生命大躍進』という番組を観た。簡単なメモ書きを元に思い起こせば、おおよそ次のような話であった。

動物には二種の遺伝子――アクセル遺伝子とブレーキ遺伝子――があり、人類以外の動物では同時に生まれ「相殺」される。つまり、脳の進化も緩やかになる。ところが、人類の場合、ブレーキ遺伝子が故障することがある。故障中にアクセル遺伝子のほうが大量に生まれ、創造力につながる大脳新皮質を誕生させた。言語にはFOXP2という遺伝子が関わっている。40万字もあるDNAのうち、たった一文字だけが書き換えられ、それが言語の高度化を促した……「賢い人間」という意味のホモサピエンスである……。

アクセル遺伝子は新しいことへの好奇心と深く関わっているようだ。ホモサピエンスに先立つこと30数万年、ネアンデルタール人の手掛けた石器はほとんど進化しなかった。他方、ホモサピエンスは創意工夫して石器を進化させた。両者には言語能力とコミュニケーションにも格段の違いがあったというのが通説だ。ちなみに、まだ読みかけだが、ノーム・チョムスキーの近著『言語の科学――ことば・心・人間本性』では、言語獲得の突然変異説が唱えられている。出アフリカの頃、ホモサピエンスの脳の回路が配線し直されるような突然変異があり、それが言語能力をもたらしたというのである。人間だから言語を手にしたのではなく、言語を手にしたから人間が人間になったということだ。


以上のような話は今を生きることとは一見関係なさそうだが、アクセルとブレーキのせめぎ合いは、その後進化を遂げた人間の学習構造に色濃く残っていると思われる。ぼくの企画研修で「習熟の方程式」に関するひとコマがある。新しいことに向けての学習意欲と、それを阻む不利係数の関係について持論を説く。

インプットと不利係数

インプットをアクセル、不利係数をブレーキ、そして、アウトプットを創造性とする。インプットが10のとき、不利係数1という、ブレーキが強くかからない状態ならば、10/1だからインプットしたものがそのままアウトプットという成果を生む。ブレーキが利かない状態はリスクが高いとも言える。ぼくたちが生きていく上で、何でもかんでも新しいことに挑むわけにはいかないからだ。安全や保守への指向性も必要だ。同時に、安全や保守は成長にとって手かせ足かせになるのも事実。たとえば10のインプットに対して10の不利係数が働けば、アウトプットは1しか得られない。いくら学んでも成果が上がらないというのは、この不利係数のせいである。

では、いったい不利係数というブレーキの正体は何なのか。それは三つの要素からできているというのがぼくの見方だ。一つは、抗しがたい外的環境要因。もう一つは集団的な規範やルール。そして三つめに個人的な要因がある。つまり、学びながら自分で自分の可能性を閉ざしている。実は、これが一番大きなブレーキ要因で、一言で言えば固定観念である。アクセルを踏んでアウトプットを増大させたい、自己変革したいというのがタテマエで、ブレーキをかけて今の自分を肯定したいというのがホンネなのだろう。何万年も前に遺伝子が誤動作して獲得したせっかくのアクセルである。ホモサピエンスの末裔としては、勇気をもってアクセルを踏むことも忘れてはならない。

セレンディピティを味方につける

セレンディップの三人の王子たち

『セレンディップの三人の王子たち』という物語がある。セレンディップは今のスリランカ。かいつまめば、次のようなあらすじである。

セレンディップ王国は偉大な王が支配していたが、凶暴なドラゴンに悩まされていた。そこで、王は自慢の三人の王子にドラゴンを退治する巻物を探して持ち帰るように命じた。机上の学習だけでなく、武者修業に出して実践的な判断力を身につけさせようという意図であった。長い旅を通じて王子たちは旅先で会う人々の話に耳を傾け、小さな事柄にも気をつけ、困っている人々を救った。結局、巻物は手に入らなかったが、王子たちは偶然を味方につけ、賢明さ、慈悲深さ、勇敢さによる問題解決力、知識を上回る実践的応用力を修得したのである。

重要なのは傍線部。ここに、未知の力を発揮するヒントがある。さて、この物語から「偶然」について一つの考察が始まった。そして、王国の名前セレンディップから〈セレンディピティ〉ということばも生まれた。セレンディピティとは偶然に察知するという概念で、「偶察力」と訳されることが多い。しかし、この一言で片付くと思えないのは、目指して身に付くようなものではないからである。偶然と環境と変化と異種と無自覚……様々な要因が重なる必要がある。


物語が示唆していると思われるセレンディピティとはこうだ。

もともと目指したものは獲得できなかったが、それとは別の、それ以上の成果に恵まれる……本人はそのことに気付いておらず、暗黙知のようなもので動かされている……常識や規範の桎梏しっこくから逃れているため、偶然を生かし感性による気づきが芽生えやすい……前例がないし自らも経験がないから難しいという感情を起こさない……。

同じ環境に身を置いて同じことを繰り返す日々にセレンディピティは生まれにくい。もっと言えば、何をするにしても目的が必要な人、満たさねばならない条件が多い人、規定やルールの縛りを受けるほうが物事に取り組みやすい人……こういう人たちは、持ち合わせているスキルのみを用い、環境の枠組みの中で現実のみを見るから、サプライズが生じる余地がないのである。セレンディピティはサプライズ、つまり、想定外の贈物にほかならない。

他の分析可能なスキルと違って、偶察力を高めるための理詰めの学びがあるわけではない。むしろ、日常の習慣や環境をセレンディピティが生きてくるように見直すのが先決だ。『偶然からモノを見つけだす能力――「セレンディピティ」の活かし方』(澤泉重一著)には、セレンディピティ活用の基本ステップの例が挙げられている。

感動→観察→記録→ネーミング→課題の認識→連想→ファイリング→情報交換→行動範囲の拡大→仮説→検証→発見→創造

あくまでも便宜上のステップであって、こんなふうにセレンディピティが規則正しく生かされるわけではない。むしろ、これら13の要素がセレンディピティ醸成のための環境要因になると考えればいい。最後に、ぼくなりに補足しておく。

感動の前提に好奇心があり、愉快がる性格がある。
観察とは「お節介」だ。対象へ強引に個性が介入することである。
記録は書くこと。書くことが新しい発想や思考を誘発する。
ネーミング、すなわち概念や物事を一言で命名する作業は、要素や本質を見つけることにつながる。
課題の認識は明文化を通じておこなわれる。わかったつもりでは認識に到らない。
連想とは知と知を結ぶこと。こじつけてもいいから点情報どうしをつなぐ。既知と既知のつながりから未知が明らかになる。
ファイリングの基本は分類。分類作業はカテゴリーを生み、大なる概念を小さな概念にブレークダウンする。
情報交換の主眼は異種情報の交換(ひいては統合)である。
行動範囲の拡大は、知的探検と読み替えればいい。一か所にとどまるよりも動いたり旅したりするほうがいい。ウンベルト・エーコは言う、「異なる文化のところにセレンディピティが育ちやすい」と。
仮説と検証はワンセットだ。仮説は演繹的であり、検証は帰納的である。一般概念と具体的概念のいずれにも偏らず、行き来することが重要だ。
発見と創造もワンセット。知識や試行錯誤経験などが累積した結果、あぶり出されてくる新しさへの気づきであり、他人と違う意識や想像に裏打ちされるものである。

本と本棚と、時々読書

「無用の用」――つまり、「無用とされるものでも役立つこと」――を否定してしまうと、日々の暮らしやおこないの何もかもが無用に見えてきて空しくなる。だから、一見無用だけれど何がしかの役に立っていると自分を慰めて生きていく。仮に役に立つとまで言えなくても、無用の自浄作用に期待しておく。

本と付き合っていると、この無用感に苛まれながらも、いやいや、本こそ無用の用なのであると思い直す。読書行為において無用と用がせめぎ合う。しかし、無用を無駄だと決めつけていたらこれまで本など読まなかっただろう。少なくとも読書の時間は単純な無駄でなかったことは明らかである。

自宅の何千冊もの本をデジタル化して一台のPC内で所蔵するとしよう。あのことが書いてあったのはどの本だったかと本棚から本棚をさすらうことはなくなる。キーワードを入力して検索すれば、即座にいくつかの候補が見つかる。本を探す時間とエネルギーは省かれる。そして、何よりもありがたいのは、本に支配されている空間が解放されることだ。


だが、よくよく考えてみたら、そのキーワードが頻出語であったりすると、何十冊、何百箇所もの候補がヒットするだろう。おびただしい候補のリストから見当をつける労力は並大抵ではない。もし候補を減らしたければ、キーワードをかなり絞り込む必要がある。キーワードの絞り込みとは詳細に修飾語をトッピングすることだ。それができるためには、検索時点で明確に対象が意識されていなければならない。いずれにせよ、キーワードで抽出された書名や本の一節を見つけ出すのも一苦労なのだ。既読の本であれば、記憶を辿りながら実物の本を探すのと手間暇は変わらないような気がする。

私の本棚

最近『私の本棚』という本を読んだ。二十数名の文筆家らが本と本棚と読書について書いたエッセイ集。本のジャンルに読み手の個性が出るように、本棚そのものも読者のアイデンティティを反映する。おもしろいことに、読書家たちは、本を選び買う以上に、また読書すること以上に、蔵書のやりくりや本棚をどうするかという苦労を背負う。蔵書家でもある読書人にとっては、本棚の問題が解決しないかぎり、読書どころではないのである。

本棚に割り当てる空間は壁さえあればよく、奥行20センチか30センチだけの話である。しかし、本を取り出して読むことを前提にしているのだから、背表紙が見えなくてはならない。背表紙が見え、出し入れするにはさらに数十センチの余裕が必要になる。こうして、たとえばぼくの書斎の場合、三つの壁面に本棚が聳え、居場所を圧迫している。

何とかしなければならないという危急の思いと、デジタルデータではなく現物の本でなければならないというこだわりが葛藤し、結局は実物の本棚に本が埋まり、収まり切れない本が行き場を失っている。それでもなお、本棚の前で右往左往しながら、どの本のどこに何が書いてあったかと、バカにならない時間を費やして渉猟する日々。一発検索の魅力に劣らない望外の発見に恵まれるからである。読書さえできればそれでいい、というわけにはいかないのはもはや性さがだろう。本があって、本棚があってこそ、時々読書が可能になるのである。

誤植と校正の思い出

本を買うスピードに読むスピードが追いつかない。つまり、未読本がどんどん増えていく。図書館じゃあるまいし、どうするつもりなのか!? と自分を詰問してもしかたがない。どうすればいいか分かっているからだ。新たに買わずに、所蔵本から未読のものを読めばいいだけの話だろう。ところが、ところてんの原理によく似ていて、すでに「そこにある本」を読むには新しく買い求める本で「天突き」しなければならないのである。

誤植読本

この一週間で五冊買い求め、そのうち一冊は申し訳程度に通読したが、残りはまだページすら捲っていない。しかし、一昨日の夜に天突き効果が出た。書棚から偶然取り出した一冊を寝床に持ち込んで読み始めたのである。奥付に2013年6月10日発行とある。三年前に買った記憶などすでにないが、とにかくおもしろいので、今もコーヒーを飲みながら読み、読みながら文章を書いている。

誤植・校正には少なからぬ縁がある。長らく英文広報誌の執筆・編集に携わっていたので、文を書いた後には編集者に早変わりして事実関係のチェックや文字の校正作業をするのが常だった。日本人二人とネイティブライター二人に加えて発行人の企業の担当者も校正する。英語に精通していない印刷関係者も原稿と付き合わせてアルファベットの文字面もじづらをチェックする。以上の作業を数回繰り返す。これほどの「厳重体制」を敷いていても、入稿直前に誤植が見つかることがあったし、残念ながら、印刷され配布された後に見つかったこともある。


英文広報ではいくつかの基本的な約束事がある。たとえば、見出しはゴシックでもいいが、長文の本文には日本語の明朝に相当するセリフ付きの書体(ローマン体など)が望ましいというのがその一つ。文字の線の太さが均一になるゴシック――たとえばヘルベチカという書体――では、l(エル)とi(アイ)とj(ジェイ)、t(ティー)とf(エフ)などが判読しにくくなる。ゴシック体で長文を読まされると目も疲れる。つまり、校正の際にも見誤りが生じやすい。セリフや明朝の書体のほうが可読性が高く、パターン認識しやすいことがわかっている。

先の『誤植読本』には作家や編集者ら53人の誤植・校正にまつわる体験エッセイが収められている。諸々の失敗談にぼくの体験が重なる。某家電メーカーの海外販促部長には、まだ校正段階だと言うのに、誤植をいくつか指摘されて怒鳴られたことがあった。もっとも、聖書に誤植が見つかると校正者が処刑された国がかつてあったそうだから、怒鳴られるくらい何ということはない。万全を期して校正したはずなのに、雑誌や本が刷り上がった瞬間、誤植が見つかる。不思議なくらいその確率が高い。校正作業が何かの法則に支配されているとしか思えない。

ぼくが今書いているような千数百字の文中の一文字と、わずか十七音の俳句の一文字では校正の重みが違う。拙文で咎められないミスが俳句では命取りになる。俳人の富安風生の話に共感する。著者は言う、「(……)一句の意味が通らなくなってくれるとまだいい。いけないのは誤植が誤植で、別の意味に通るときである」。そうなのである。誤字・脱字によって意味が滅茶苦茶になってくれるほうが、書き手は下手な言い訳をせずに済む。ところが、別の意味が形成されてしまうと作意と異なる作品が出来上がってしまう。「あれは誤植でして……」と関係者や読者に説明するのは見苦しい。と、ここまで書いたら夜も10時を回った。まだまだ書き足らないがここで終わる。読み返していないし、もちろん校正もしていない。

「学問の本趣意は読書のみに非ず」

読書

〈書評輪講カフェ〉と命名した読書会を不定期に主宰している。会合開催の前週や当該週になると操られたように読書について一考する。もう何年もこんな状態が続いている。

ところで、最近あまり本を読んでいない。今年に入って50冊ほど買っているはずだが、本気で読んだのは片手にも満たない。大半の本の取り扱いは、ページを適当に繰って拾い読みするか、目次をざっと走査して狙いすました章だけを読む程度である。冬から春にかけてのこの時期だからというわけではない。読書離れは突然予告なしに起こり、そしてしばらく続く。やがて、ダイエットの後にリバウンドが待ち構えているように、再び読書にのめり込む周期に入る。

「本を読むというのは、私たちの代わりに他の誰かが考えてくれるということだ。一日中おびただしい分量を猛スピードで読んでいる人は、自分で考える力がだんだんに失われてしまう。」

こう言ったのはショーペンハウエルだ。自分以外の誰かがすでに考えたことを無思考的になぞるのが読書行為であるとはやや極論かもしれない。だが、そうではないとも言い切れぬ。本の内容を素材にして考えるほうが、本を手にしないで考えるよりも負担は少ない。もっとも、本を読んでも思考力が衰えるのなら、本を読まないとバカはさらに加速するだろう。ショーペンハウエルの言は、「考える力のある人は読書に依存しない」と読み替えてみるのが妥当である。そう解釈しても、では、考える力の乏しい人がどのように読書に付き合えばいいのかという答えは出てこない。


何にでも関心を示して精進するわけにはいかない。教養はあるほうがいいし、ものは知らないよりも知っているほうがいいだろう。しかし、どれだけ頑張っても、知っていることは知らないことに比べたらつねに一握りにすぎない。「えっ、読書家なのに、あの小説はお読みになっていない? 絶対読まないといけませんよ」と年下の知人に忠告されたと仮定しよう。「先生ともあろう人が……」と追い討ちもかけられ、これは聞き捨てならぬと、ぼくのお説教が始まる。

「あいにくぼくはその作家に関心がない。ペンネームの漢字の読み方すら間違って覚えていたくらいだ。ベストセラーか評判の作品かどうか知らないが、なぜ右にならえのように読まねばならないのか。一億総同本読みか。では、聞くけどね、きみはガルシア・マルケスの『百年の孤独』を読んだかい? ほら、読んでいない。ノーベル賞作家だ。村上春樹がまだ受賞していないあの賞。『百年の孤独』でも他の本でもいいが、ぼくはきみに一度でも絶対読まないといけないと言ったことがあるかね? 断じてない! 本というのは人それぞれ何を読んだっていいんだ。いや、何も読まなくってもいい。世の中に読まねばならぬ本はなく、他人から勧められて半ば強制されるように読むべき本もない。ただ読んでみたい本があるのみ。きみとぼくの読む本の大半が重なるなんて、こんなおもしろくない話はない。重ならないからこそ、ぼくはきみの読んだ本の印象を聞いてみたいと思うのじゃないか……」

説教は、おそらく収まらない。さて、福沢諭吉の『学問のすゝめ』に読書に言及する一編がある。学問ということばを小難しく考えることはない。初歩的な意味は「学び習うこと」にほかならない。つまり、学習。一般的には教師や書物から新しい知識を授かることである。このことを承知した上で、同書の十二編を読んでみる。

学問はただ読書の一科に非ずとのことは、既に人の知るところなれば今これを論弁するに及ばず。学問の要は活用に在るのみ。活用なき学問は無学に等し。(……)学問の本趣意は読書のみに非ずして精神の働きに在り(……)

読書は学問の出発点でもなければ本質でもないということだ。読書によって何かを学んで習っても、インプットだけでは無学と変わらない。学習で重要なのは、活用だ、精神の働きだと言うのである。ショーペンハウエルが指摘したのもたぶんこれだ。本を読むな! と言ったのではなく、書かれていることを覚えるだけでは考えないだろう、生かさないだろう、精神が面目躍如として生き生きとしないだろう……というようなメッセージとして読み取れるのではないか。

読んだら書けばいい。自分の思考の拠り所を基礎として書評をしたためればいい。したためた書評を誰かとシェアすればいい。書評を読み返し思考と精神を時折り更新すればなおいい。このような繰り返しが日々の生き方・仕事の仕方に反映されてくる。机上の読書が現実に降りてくるのである。

コロケーション考

「コロケーション」はれっきとした英語表現である(“collocation”)。念のために書くが、新しいタイプのコロッケのことではない。コロッケ(croquette)はフランス語源で、コロケーションとはまったく別物だ。ただ、おもしろいことに、コロケーションにはコロッケの本質と似たところがある。ポテトやミンチ肉を包むパン粉の衣が絶妙にマッチして上質なコロッケができるように、コロケーションも語と語のこなれた結び付きによって文の味わいを豊かにしてくれる。

英語には慣用句が多い。慣用句は変化を許さないコロケーションだから、意味を共有しやすい。別の見方をすると、英語という言語は誰が喋っても書いても、あることを伝える時の表現が同じになりやすい。だから、十代、二十代で英語を独習していた頃は、ペーパーバックの小説を読んでは慣用的な表現を熱心にノートに取り、それにこなれた日本語を付ける練習をしたものだ。ネイティブスピーカーが慣用的に使っている表現を覚えるのが英語学習のコツである。勝手に英語を発明してはいけない。

日本語にも慣用表現はいくらでもある。一例として、「手」と結び付く動詞を調べてみたら、60近くもあった。語につく助詞(が、に、も、と、を)によって動詞が変わる。手が足りない、手が届く。手に汗を握る、手に掛ける。手も足も出ない。手と身になる。手を染める、手をこまねく、等々。なかなか使いこなせていないし、慣用的な連語ということに横着でもある。実感と来れば「実感が湧く」か「実感がこもる」なのだが、「実感がある」とか「実感する」と言ってけろりとしている。片鱗は「示す」ものだが、「片鱗がある」で済ます。もっと言えば、「ある」とか「する」とか「なる」を名詞と助詞の後にくっつければ、コロケーションのことなど意識しなくても、たいていのことは言い表わせてしまう。語感や妙味は今ひとつだが、コミュニケーションに支障は来さない。名詞と動詞の豊富な慣用的表現に恵まれながらも、日本語の融通性に甘えて安易な文を綴ってしまうのが常である。


英語のコロケーション辞典や活用辞典は二十代の頃から何冊も手垢で染めてきた。それに比べて母語である日本語の語の結び付きには意を注いでこなかった。日本語のコロケーション辞典を初めて手にしたのはほんの十数年前である。オフィスでは2006年発行の『知っておきたい 日本語コロケーション辞典』を置いていて、たまに読んだり参照したりしている。どんな時に辞典を活用するかと言うと、語をフォローする動詞がしっくりこない時だ。文才に長けた書き手は動詞上手である。本来動詞が文章のトリを務めることが多い日本語なのに、「ある」や「する」や「なる」ばかりで終わっていてはつまらない。

コロケーションは「名詞+助詞+動詞」の慣用的な連語・結合である。定番になっているから、語呂がいい。あるいは、使い勝手と使い心地がよく、快く響くから生き残ってきたとも言える。快く響けば、文章が品格を漂わせる。「(品格のある日本語とは)しかるべきことばがしかるべき場所でしかるべき用法に従って使われている日本語」(別宮貞徳)という言は、適語が適所に配置されていることにほかならない。たとえば、「後釜にする」と書いた。しかし、何か物足りない。これは語彙の少なさのせいではなく、コロケーションに精通していないのが原因である。辞書を引けばいい。後釜に続くこなれた動詞は「据える」か「座る」であることがわかる。

コロケーションの構造

「流れ」という語のコロケーション構造を図示してみた。助詞を「に」と「を」に限れば、ぴったりくる動詞はおおむね三つ。もちろん、「流れに沿う」もありだし「流れが向いてきた」もありだろう。創意工夫の余地がないわけではない。これぞという新しいコロケーションが人口に膾炙すれば慣用化されることになる。ことばはそのようにして生き残り定番となってきた。但し、先に書いたように、語呂の良さとこなれは重要な条件である。

コロケーションなどという外来語を使って説明したわけではないが、丸谷才一は『文章読本』の中で次のように説いた。

文章の秘訣は孤立した語の選び方にあるのではなく(……)、語と語の関係にあると答へればそれですむ。言葉と言葉との組合せ方が趣味がよく、気品が高ければ、(……)品格の高い、優れた文章が出来るし、逆に、組合せ方の趣味が悪く、品がなければ、高尚で上品な言葉ばかり、雅語づくめで書いたとて、あまりぞっとしない文章になる。

言語の主役は動詞だと思っている。日本語であれ外国語であれ、動詞が機能しなければ文は体を成さない。人の語学力は動詞にありと言っても過言ではない。日記や小説では動詞に脈を打たせることはできるが、この拙文のように意見を開示したり説明を試みようとすれば動詞を生かすのに難儀する。丸谷才一の言うように、語と語の組み合わせ――とりわけ名詞と動詞の組み合わせ――が文章の秘訣であることを頭では重々承知しているが、ここまで書いてきた拙文を読み返して文末の仕上げに工夫の余地を感じる。追々推敲を重ねることにしよう。

見送る本と買ってしまう本

「我思う、ゆえに我あり」はデカルトの『方法序説』に出てくるあまりにも有名な命題。なるほどそうかもしれないと思う反面、証明に十分納得できないまま今日に到っている。「我あり」が自己満足であってはならないだろう。他者が認知してくれる我の存在でなければならない。また「思う」と言っても、その思いが他者に伝わらなければ、我の喜怒哀楽も快さも痛みも知ってもらえない。他者は少しは想いを汲んでくれるが、なかなか実感まではしてくれないものである。だから、我は語らねばならない。語れば、他者は我の思いに耳を傾け、我がそこにあるのを見て取ってくれる可能性はある。ただ黙って思ってぼんやりとそこに佇んでいるよりは認知の度合も高まるはず。と言うわけで、我語らねば我思うこともなく存在もしづらいのではないかと考える。

「我思う、ゆえに我あり」という命題に関心のあるぼくだ。書店で『我思う、故に我間違う』という書名の本を見つけたら、手に取らずにはいられない。実際、手に取った。ジャン=ピエール・ランタンという人の著書で、「錯誤と創造性」という副題がついている。ページを繰り、「科学の歴史は試行錯誤、いや誤謬の歴史であった」という一文を立ち読みし、「ふ~ん。科学のみならず、誤謬こそがあらゆる分野の進歩にとって不可欠もしくは必然なんだろうなあ」などとしばし黙考した後、手に取った本を元に戻し、買うのを見送ってその場を立ち去った。

確実に買いそうな本なのに、時には見送る。買ったまま読まないのではないかという予感が芽生える時にそうする。そればかりではなく、書かれていることにある程度見当がついてしまう時も見送る。知らないことが書かれているというのはぼくにとって重要ではない。知らないことだらけだし、知らないから知りたいと思って本を買って読んでいたらキリがない。「この本にはこれこれの話や意見が書いてあるのではないか」と想像してしまう本を見送るのである。その想像が当たっているか外れているかは別問題。


今年に入って三度古本屋に通い、20冊ほど買っている。自宅の書斎の収納はそろそろ限度に近づいているので、こんなペースでは早晩破綻する。厳選して買っているつもりなので、ほとんど処分しない。置き場に困ればオフィスに運び込む。オフィスの書棚は、立てずに積むだけでいいなら、あと千冊や二千冊は大丈夫だ。

読んでみようと思う本を買うのはもちろんのこと、読む確証がないもののちょっと気になる本も買う。小遣いに余裕がない頃にできなかったことが、ある程度できるようになったせいもある。新刊書であれ古本であれ、ついついニーズ以上に買い求めてしまうのが習い性になっている。ところが、買う冊数は読む冊数よりもつねに多いから、未読書は増える一方。そして、買ったまま読まずにおいておくと「事件」が起こる。いや、大した事件ではない。余計な出費になる重複買いのことだ。これまで約二十冊の本を二度買っている。これには昔読んだが処分して今手元にない本の買い求めは含まれていない。すでに所有しているのに、そのことを忘れて買ってしまった本である。

幕末~維新、岩波新書2冊

総じて苦手な日本史だが、幕末から明治維新にかけての時代考察はまんざらでもない。奥付の出版年月を調べずに岩波新書の『幕末から維新へ』という本を最近買った。自宅に帰ってハッと気づいた。ちょっと待てよ、この本、数年前に読んだ本ではないか。書棚を探したら、案の定……がっくり。と思いきや、読んでいた本は『幕末・維新』だった。同じ装丁でよく似た書名だが、重複買いではなかった。しかし、紛らわしい。ちなみに、書名は似ていても、内容も切り口もだいぶ違っている。

読書傾向は変遷する。同じ著者の書物をしつこく読む時期もあり、たまたま見つけるとつい買ってしまう。また、当面関心のあるジャンルの本も、迷った挙句買うことが多い(迷ったら見送るという場合もあるが、何を見送り何を買うかは直感と言うしかない)。

哲学者中村雄二郎の本は十数冊読んでいて、書名も内容もよく覚えている。しかし、買ったまま読んでいないのも二、三冊ある。先週、古本屋で中村雄二郎の『知の変貌』を見つけた。目次を読みページを繰った。激安の二百円だったこともあり、迷わずに買った。内容は新鮮だが、やけに書名に親近感があるので不思議な気分になってきた。中村雄二郎の本を並べてある書棚を見たら、すでに『知の変貌』が収まっていたのである。ずいぶん以前に買って未読のままだった。本の選び方、買い方、読み方……あまり変わるものではないようである。

取るが我等が得もの

京都の知人は、手元に金がある時は安い居酒屋で飲み食いして現金払いする。「いつもニコニコ現金払い」ができるのは持ち合わせがあるからだ。しかし、金の融通がきかない時にふいのお客さんの接待ということになると、なじみの高級割烹とお茶屋に連れて行く。掛け買いができるからである。縁のない世界なので詳しいことは知らない。知人によると、請求は年に一回のみ。十二月に一年分をまとめて支払うそうだ。何百万という金額になることも珍しくないらしい。

今もこのような掛け売り・掛け買いという商習慣が一部で生きている。かつてのように、掛金取り立てのために駈けずりまわって集金しているのだろうか。もしそうなら、隠れたり言い訳で逃れたりという輩がいても不思議ではない。貸し手と借り手の駆け引きにあって、昔は「取るが我等が得とくもの」と豪語する人物に出番があった。ずばり「取り立て上手」のことである。こういう情景をイメージすると、師走を特に慌ただしく感じてしまうのもうなずける。


☑井原西鶴終焉の地

自宅からオフィスまで1.3キロメートル。その途中に井原西鶴(1642-1693)の終焉の地の碑がある。交通量の多い谷町筋の道路を背にしている。西鶴は道路向かいの鎗屋町やりやまちに住んでいたという。元禄期に書かれた『世間せけん胸算用むねさんよう』は、まさに師走の掛金を巡る貸し手と借り手――主として中下層の町人ら――の喜怒哀楽を描いた作品だ。「大晦日おおつごもりは一日千金」という副題が示すように、二十章のすべてが大晦日の一日に起こった物語として綴られている。久々に気まぐれに本を繰ってみた。

(……)この帳面見給みたまへ、二十六軒取済とりすまして、ここばかりとらでは帰らぬ所。この銀済まぬうちは、内普請うちぶしんなされた材木はこちのもの。さらば取って帰らん。

この引用の冒頭に「取るが我等が得もの」という大見得が切られている。取り立ての男が、「この帳面を見てごらんなさい。ここまで26軒まわって回収してきて、お宅から取らずには帰れません。支払いをしていただけないなら、リフォームにお使いになった木材を回収します。さあ、持って帰らせてもらいましょう」とプレッシャーをかけている。それにしても、見事な回収率である。

元禄時代、現金による当座買いのほうが珍しく、商売の主流は帳面による掛け売りと掛け買いが主流だった。この仕組みがすっかり姿を消したわけではないが、当世、大晦日が一年の最後にして最大の収支決算日ではなくなった。ところで、11月末に一回6,000円ほどするストレッチの回数カードを3回分買った。一括払いすると割引特典があるからだ。買ったのはいいが、2回利用した後、仕事の都合で期限までに3回目を消化できなかった。特典に目がくらんで損をした。何事もできるかぎり現金払いがよく、現金で受け取るのがいいと思う年の瀬である。