セレンディピティを味方につける

セレンディップの三人の王子たち

『セレンディップの三人の王子たち』という物語がある。セレンディップは今のスリランカ。かいつまめば、次のようなあらすじである。

セレンディップ王国は偉大な王が支配していたが、凶暴なドラゴンに悩まされていた。そこで、王は自慢の三人の王子にドラゴンを退治する巻物を探して持ち帰るように命じた。机上の学習だけでなく、武者修業に出して実践的な判断力を身につけさせようという意図であった。長い旅を通じて王子たちは旅先で会う人々の話に耳を傾け、小さな事柄にも気をつけ、困っている人々を救った。結局、巻物は手に入らなかったが、王子たちは偶然を味方につけ、賢明さ、慈悲深さ、勇敢さによる問題解決力、知識を上回る実践的応用力を修得したのである。

重要なのは傍線部。ここに、未知の力を発揮するヒントがある。さて、この物語から「偶然」について一つの考察が始まった。そして、王国の名前セレンディップから〈セレンディピティ〉ということばも生まれた。セレンディピティとは偶然に察知するという概念で、「偶察力」と訳されることが多い。しかし、この一言で片付くと思えないのは、目指して身に付くようなものではないからである。偶然と環境と変化と異種と無自覚……様々な要因が重なる必要がある。


物語が示唆していると思われるセレンディピティとはこうだ。

もともと目指したものは獲得できなかったが、それとは別の、それ以上の成果に恵まれる……本人はそのことに気付いておらず、暗黙知のようなもので動かされている……常識や規範の桎梏しっこくから逃れているため、偶然を生かし感性による気づきが芽生えやすい……前例がないし自らも経験がないから難しいという感情を起こさない……。

同じ環境に身を置いて同じことを繰り返す日々にセレンディピティは生まれにくい。もっと言えば、何をするにしても目的が必要な人、満たさねばならない条件が多い人、規定やルールの縛りを受けるほうが物事に取り組みやすい人……こういう人たちは、持ち合わせているスキルのみを用い、環境の枠組みの中で現実のみを見るから、サプライズが生じる余地がないのである。セレンディピティはサプライズ、つまり、想定外の贈物にほかならない。

他の分析可能なスキルと違って、偶察力を高めるための理詰めの学びがあるわけではない。むしろ、日常の習慣や環境をセレンディピティが生きてくるように見直すのが先決だ。『偶然からモノを見つけだす能力――「セレンディピティ」の活かし方』(澤泉重一著)には、セレンディピティ活用の基本ステップの例が挙げられている。

感動→観察→記録→ネーミング→課題の認識→連想→ファイリング→情報交換→行動範囲の拡大→仮説→検証→発見→創造

あくまでも便宜上のステップであって、こんなふうにセレンディピティが規則正しく生かされるわけではない。むしろ、これら13の要素がセレンディピティ醸成のための環境要因になると考えればいい。最後に、ぼくなりに補足しておく。

感動の前提に好奇心があり、愉快がる性格がある。
観察とは「お節介」だ。対象へ強引に個性が介入することである。
記録は書くこと。書くことが新しい発想や思考を誘発する。
ネーミング、すなわち概念や物事を一言で命名する作業は、要素や本質を見つけることにつながる。
課題の認識は明文化を通じておこなわれる。わかったつもりでは認識に到らない。
連想とは知と知を結ぶこと。こじつけてもいいから点情報どうしをつなぐ。既知と既知のつながりから未知が明らかになる。
ファイリングの基本は分類。分類作業はカテゴリーを生み、大なる概念を小さな概念にブレークダウンする。
情報交換の主眼は異種情報の交換(ひいては統合)である。
行動範囲の拡大は、知的探検と読み替えればいい。一か所にとどまるよりも動いたり旅したりするほうがいい。ウンベルト・エーコは言う、「異なる文化のところにセレンディピティが育ちやすい」と。
仮説検証はワンセットだ。仮説は演繹的であり、検証は帰納的である。一般概念と具体的概念のいずれにも偏らず、行き来することが重要だ。
発見創造もワンセット。知識や試行錯誤経験などが累積した結果、あぶり出されてくる新しさへの気づきであり、他人と違う意識や想像に裏打ちされるものである。

本と本棚と、時々読書

「無用の用」――つまり、「無用とされるものでも役立つこと」――を否定してしまうと、日々の暮らしやおこないの何もかもが無用に見えてきて空しくなる。だから、一見無用だけれど何がしかの役に立っていると自分を慰めて生きていく。仮に役に立つとまで言えなくても、無用の自浄作用に期待しておく。

本と付き合っていると、この無用感に苛まれながらも、いやいや、本こそ無用の用なのであると思い直す。読書行為において無用と用がせめぎ合う。しかし、無用を無駄だと決めつけていたらこれまで本など読まなかっただろう。少なくとも読書の時間は単純な無駄でなかったことは明らかである。

自宅の何千冊もの本をデジタル化して一台のPC内で所蔵するとしよう。あのことが書いてあったのはどの本だったかと本棚から本棚をさすらうことはなくなる。キーワードを入力して検索すれば、即座にいくつかの候補が見つかる。本を探す時間とエネルギーは省かれる。そして、何よりもありがたいのは、本に支配されている空間が解放されることだ。


だが、よくよく考えてみたら、そのキーワードが頻出語であったりすると、何十冊、何百箇所もの候補がヒットするだろう。おびただしい候補のリストから見当をつける労力は並大抵ではない。もし候補を減らしたければ、キーワードをかなり絞り込む必要がある。キーワードの絞り込みとは詳細に修飾語をトッピングすることだ。それができるためには、検索時点で明確に対象が意識されていなければならない。いずれにせよ、キーワードで抽出された書名や本の一節を見つけ出すのも一苦労なのだ。既読の本であれば、記憶を辿りながら実物の本を探すのと手間暇は変わらないような気がする。

私の本棚

最近『私の本棚』という本を読んだ。二十数名の文筆家らが本と本棚と読書について書いたエッセイ集。本のジャンルに読み手の個性が出るように、本棚そのものも読者のアイデンティティを反映する。おもしろいことに、読書家たちは、本を選び買う以上に、また読書すること以上に、蔵書のやりくりや本棚をどうするかという苦労を背負う。蔵書家でもある読書人にとっては、本棚の問題が解決しないかぎり、読書どころではないのである。

本棚に割り当てる空間は壁さえあればよく、奥行20センチか30センチだけの話である。しかし、本を取り出して読むことを前提にしているのだから、背表紙が見えなくてはならない。背表紙が見え、出し入れするにはさらに数十センチの余裕が必要になる。こうして、たとえばぼくの書斎の場合、三つの壁面に本棚が聳え、居場所を圧迫している。

何とかしなければならないという危急の思いと、デジタルデータではなく現物の本でなければならないというこだわりが葛藤し、結局は実物の本棚に本が埋まり、収まり切れない本が行き場を失っている。それでもなお、本棚の前で右往左往しながら、どの本のどこに何が書いてあったかと、バカにならない時間を費やして渉猟する日々。一発検索の魅力に劣らない望外の発見に恵まれるからである。読書さえできればそれでいい、というわけにはいかないのはもはやさがだろう。本があって、本棚があってこそ、時々読書が可能になるのである。

誤植と校正の思い出

本を買うスピードに読むスピードが追いつかない。つまり、未読本がどんどん増えていく。図書館じゃあるまいし、どうするつもりなのか!? と自分を詰問してもしかたがない。どうすればいいか分かっているからだ。新たに買わずに、所蔵本から未読のものを読めばいいだけの話だろう。ところが、ところてんの原理によく似ていて、すでに「そこにある本」を読むには新しく買い求める本で「天突き」しなければならないのである。

誤植読本

この一週間で五冊買い求め、そのうち一冊は申し訳程度に通読したが、残りはまだページすら捲っていない。しかし、一昨日の夜に天突き効果が出た。書棚から偶然取り出した一冊を寝床に持ち込んで読み始めたのである。奥付に2013610日発行とある。三年前に買った記憶などすでにないが、とにかくおもしろいので、今もコーヒーを飲みながら読み、読みながら文章を書いている。

誤植・校正には少なからぬ縁がある。長らく英文広報誌の執筆・編集に携わっていたので、文を書いた後には編集者に早変わりして事実関係のチェックや文字の校正作業をするのが常だった。日本人二人とネイティブライター二人に加えて発行人の企業の担当者も校正する。英語に精通していない印刷関係者も原稿と付き合わせてアルファベットの文字面もじづらをチェックする。以上の作業を数回繰り返す。これほどの「厳重体制」を敷いていても、入稿直前に誤植が見つかることがあったし、残念ながら、印刷され配布された後に見つかったこともある。


英文広報ではいくつかの基本的な約束事がある。たとえば、見出しはゴシックでもいいが、長文の本文には日本語の明朝に相当するセリフ付きの書体(ローマン体など)が望ましいというのがその一つ。文字の線の太さが均一になるゴシック――たとえばヘルベチカという書体――では、l(エル)とi(アイ)とj(ジェイ)、t(ティー)とf(エフ)などが判読しにくくなる。ゴシック体で長文を読まされると目も疲れる。つまり、校正の際にも見誤りが生じやすい。セリフや明朝の書体のほうが可読性が高く、パターン認識しやすいことがわかっている。

先の『誤植読本』には作家や編集者ら53人の誤植・校正にまつわる体験エッセイが収められている。諸々の失敗談にぼくの体験が重なる。某家電メーカーの海外販促部長には、まだ校正段階だと言うのに、誤植をいくつか指摘されて怒鳴られたことがあった。もっとも、聖書に誤植が見つかると校正者が処刑された国がかつてあったそうだから、怒鳴られるくらい何ということはない。万全を期して校正したはずなのに、雑誌や本が刷り上がった瞬間、誤植が見つかる。不思議なくらいその確率が高い。校正作業が何かの法則に支配されているとしか思えない。

ぼくが今書いているような千数百字の文中の一文字と、わずか十七音の俳句の一文字では校正の重みが違う。拙文で咎められないミスが俳句では命取りになる。俳人の富安風生の話に共感する。著者は言う、「(……)一句の意味が通らなくなってくれるとまだいい。いけないのは誤植が誤植で、別の意味に通るときである」。そうなのである。誤字・脱字によって意味が滅茶苦茶になってくれるほうが、書き手は下手な言い訳をせずに済む。ところが、別の意味が形成されてしまうと作意と異なる作品が出来上がってしまう。「あれは誤植でして……」と関係者や読者に説明するのは見苦しい。と、ここまで書いたら夜も10時を回った。まだまだ書き足らないがここで終わる。読み返していないし、もちろん校正もしていない。

「学問の本趣意は読書のみに非ず」

読書

〈書評輪講カフェ〉と命名した読書会を不定期に主宰している。会合開催の前週や当該週になると操られたように読書について一考する。もう何年もこんな状態が続いている。

ところで、最近あまり本を読んでいない。今年に入って50冊ほど買っているはずだが、本気で読んだのは片手にも満たない。大半の本の取り扱いは、ページを適当に繰って拾い読みするか、目次をざっと走査して狙いすました章だけを読む程度である。冬から春にかけてのこの時期だからというわけではない。読書離れは突然予告なしに起こり、そしてしばらく続く。やがて、ダイエットの後にリバウンドが待ち構えているように、再び読書にのめり込む周期に入る。

「本を読むというのは、私たちの代わりに他の誰かが考えてくれるということだ。一日中おびただしい分量を猛スピードで読んでいる人は、自分で考える力がだんだんに失われてしまう。」

こう言ったのはショーペンハウエルだ。自分以外の誰かがすでに考えたことを無思考的になぞるのが読書行為であるとはやや極論かもしれない。だが、そうではないとも言い切れぬ。本の内容を素材にして考えるほうが、本を手にしないで考えるよりも負担は少ない。もっとも、本を読んでも思考力が衰えるのなら、本を読まないとバカはさらに加速するだろう。ショーペンハウエルの言は、「考える力のある人は読書に依存しない」と読み替えてみるのが妥当である。そう解釈しても、では、考える力の乏しい人がどのように読書に付き合えばいいのかという答えは出てこない。


何にでも関心を示して精進するわけにはいかない。教養はあるほうがいいし、ものは知らないよりも知っているほうがいいだろう。しかし、どれだけ頑張っても、知っていることは知らないことに比べたらつねに一握りにすぎない。「えっ、読書家なのに、あの小説はお読みになっていない? 絶対読まないといけませんよ」と年下の知人に忠告されたと仮定しよう。「先生ともあろう人が……」と追い討ちもかけられ、これは聞き捨てならぬと、ぼくのお説教が始まる。

「あいにくぼくはその作家に関心がない。ペンネームの漢字の読み方すら間違って覚えていたくらいだ。ベストセラーか評判の作品かどうか知らないが、なぜ右にならえのように読まねばならないのか。一億総同本読みか。では、聞くけどね、きみはガルシア・マルケスの『百年の孤独』を読んだかい? ほら、読んでいない。ノーベル賞作家だ。村上春樹がまだ受賞していないあの賞。『百年の孤独』でも他の本でもいいが、ぼくはきみに一度でも絶対読まないといけないと言ったことがあるかね? 断じてない! 本というのは人それぞれ何を読んだっていいんだ。いや、何も読まなくってもいい。世の中に読まねばならぬ本はなく、他人から勧められて半ば強制されるように読むべき本もない。ただ読んでみたい本があるのみ。きみとぼくの読む本の大半が重なるなんて、こんなおもしろくない話はない。重ならないからこそ、ぼくはきみの読んだ本の印象を聞いてみたいと思うのじゃないか……」

説教は、おそらく収まらない。さて、福沢諭吉の『学問のすゝめ』に読書に言及する一編がある。学問ということばを小難しく考えることはない。初歩的な意味は「学び習うこと」にほかならない。つまり、学習。一般的には教師や書物から新しい知識を授かることである。このことを承知した上で、同書の十二編を読んでみる。

学問はただ読書の一科に非ずとのことは、既に人の知るところなれば今これを論弁するに及ばず。学問の要は活用に在るのみ。活用なき学問は無学に等し。(……)学問の本趣意は読書のみに非ずして精神の働きに在り(……)

読書は学問の出発点でもなければ本質でもないということだ。読書によって何かを学んで習っても、インプットだけでは無学と変わらない。学習で重要なのは、活用だ、精神の働きだと言うのである。ショーペンハウエルが指摘したのもたぶんこれだ。本を読むな! と言ったのではなく、書かれていることを覚えるだけでは考えないだろう、生かさないだろう、精神が面目躍如として生き生きとしないだろう……というようなメッセージとして読み取れるのではないか。

読んだら書けばいい。自分の思考の拠り所を基礎として書評をしたためればいい。したためた書評を誰かとシェアすればいい。書評を読み返し思考と精神を時折り更新すればなおいい。このような繰り返しが日々の生き方・仕事の仕方に反映されてくる。机上の読書が現実に降りてくるのである。

コロケーション考

「コロケーション」はれっきとした英語表現である(“collocation”)。念のために書くが、新しいタイプのコロッケのことではない。コロッケ(croquette)はフランス語源で、コロケーションとはまったく別物だ。ただ、おもしろいことに、コロケーションにはコロッケの本質と似たところがある。ポテトやミンチ肉を包むパン粉の衣が絶妙にマッチして上質なコロッケができるように、コロケーションも語と語のこなれた結び付きによって文の味わいを豊かにしてくれる。

英語には慣用句が多い。慣用句は変化を許さないコロケーションだから、意味を共有しやすい。別の見方をすると、英語という言語は誰が喋っても書いても、あることを伝える時の表現が同じになりやすい。だから、十代、二十代で英語を独習していた頃は、ペーパーバックの小説を読んでは慣用的な表現を熱心にノートに取り、それにこなれた日本語を付ける練習をしたものだ。ネイティブスピーカーが慣用的に使っている表現を覚えるのが英語学習のコツである。勝手に英語を発明してはいけない。

日本語にも慣用表現はいくらでもある。一例として、「手」と結び付く動詞を調べてみたら、60近くもあった。語につく助詞(が、に、も、と、を)によって動詞が変わる。手が足りない、手が届く。手に汗を握る、手に掛ける。手も足も出ない。手と身になる。手を染める、手をこまねく、等々。なかなか使いこなせていないし、慣用的な連語ということに横着でもある。実感と来れば「実感が湧く」か「実感がこもる」なのだが、「実感がある」とか「実感する」と言ってけろりとしている。片鱗は「示す」ものだが、「片鱗がある」で済ます。もっと言えば、「ある」とか「する」とか「なる」を名詞と助詞の後にくっつければ、コロケーションのことなど意識しなくても、たいていのことは言い表わせてしまう。語感や妙味は今ひとつだが、コミュニケーションに支障は来さない。名詞と動詞の豊富な慣用的表現に恵まれながらも、日本語の融通性に甘えて安易な文を綴ってしまうのが常である。


英語のコロケーション辞典や活用辞典は二十代の頃から何冊も手垢で染めてきた。それに比べて母語である日本語の語の結び付きには意を注いでこなかった。日本語のコロケーション辞典を初めて手にしたのはほんの十数年前である。オフィスでは2006年発行の『知っておきたい 日本語コロケーション辞典』を置いていて、たまに読んだり参照したりしている。どんな時に辞典を活用するかと言うと、語をフォローする動詞がしっくりこない時だ。文才に長けた書き手は動詞上手である。本来動詞が文章のトリを務めることが多い日本語なのに、「ある」や「する」や「なる」ばかりで終わっていてはつまらない。

コロケーションは「名詞+助詞+動詞」の慣用的な連語・結合である。定番になっているから、語呂がいい。あるいは、使い勝手と使い心地がよく、快く響くから生き残ってきたとも言える。快く響けば、文章が品格を漂わせる。「(品格のある日本語とは)しかるべきことばがしかるべき場所でしかるべき用法に従って使われている日本語」(別宮貞徳)という言は、適語が適所に配置されていることにほかならない。たとえば、「後釜にする」と書いた。しかし、何か物足りない。これは語彙の少なさのせいではなく、コロケーションに精通していないのが原因である。辞書を引けばいい。後釜に続くこなれた動詞は「据える」か「座る」であることがわかる。

コロケーションの構造

「流れ」という語のコロケーション構造を図示してみた。助詞を「に」と「を」に限れば、ぴったりくる動詞はおおむね三つ。もちろん、「流れに沿う」もありだし「流れが向いてきた」もありだろう。創意工夫の余地がないわけではない。これぞという新しいコロケーションが人口に膾炙すれば慣用化されることになる。ことばはそのようにして生き残り定番となってきた。但し、先に書いたように、語呂の良さとこなれは重要な条件である。

コロケーションなどという外来語を使って説明したわけではないが、丸谷才一は『文章読本』の中で次のように説いた。

文章の秘訣は孤立した語の選び方にあるのではなく(……)、語と語の関係にあると答へればそれですむ。言葉と言葉との組合せ方が趣味がよく、気品が高ければ、(……)品格の高い、優れた文章が出来るし、逆に、組合せ方の趣味が悪く、品がなければ、高尚で上品な言葉ばかり、雅語づくめで書いたとて、あまりぞっとしない文章になる。

言語の主役は動詞だと思っている。日本語であれ外国語であれ、動詞が機能しなければ文は体を成さない。人の語学力は動詞にありと言っても過言ではない。日記や小説では動詞に脈を打たせることはできるが、この拙文のように意見を開示したり説明を試みようとすれば動詞を生かすのに難儀する。丸谷才一の言うように、語と語の組み合わせ――とりわけ名詞と動詞の組み合わせ――が文章の秘訣であることを頭では重々承知しているが、ここまで書いてきた拙文を読み返して文末の仕上げに工夫の余地を感じる。追々推敲を重ねることにしよう。

見送る本と買ってしまう本

「我思う、ゆえに我あり」はデカルトの『方法序説』に出てくるあまりにも有名な命題。なるほどそうかもしれないと思う反面、証明に十分納得できないまま今日に到っている。「我あり」が自己満足であってはならないだろう。他者が認知してくれる我の存在でなければならない。また「思う」と言っても、その思いが他者に伝わらなければ、我の喜怒哀楽も快さも痛みも知ってもらえない。他者は少しは想いを汲んでくれるが、なかなか実感まではしてくれないものである。だから、我は語らねばならない。語れば、他者は我の思いに耳を傾け、我がそこにあるのを見て取ってくれる可能性はある。ただ黙って思ってぼんやりとそこに佇んでいるよりは認知の度合も高まるはず。と言うわけで、我語らねば我思うこともなく存在もしづらいのではないかと考える。

「我思う、ゆえに我あり」という命題に関心のあるぼくだ。書店で『我思う、故に我間違う』という書名の本を見つけたら、手に取らずにはいられない。実際、手に取った。ジャン=ピエール・ランタンという人の著書で、「錯誤と創造性」という副題がついている。ページを繰り、「科学の歴史は試行錯誤、いや誤謬の歴史であった」という一文を立ち読みし、「ふ~ん。科学のみならず、誤謬こそがあらゆる分野の進歩にとって不可欠もしくは必然なんだろうなあ」などとしばし黙考した後、手に取った本を元に戻し、買うのを見送ってその場を立ち去った。

確実に買いそうな本なのに、時には見送る。買ったまま読まないのではないかという予感が芽生える時にそうする。そればかりではなく、書かれていることにある程度見当がついてしまう時も見送る。知らないことが書かれているというのはぼくにとって重要ではない。知らないことだらけだし、知らないから知りたいと思って本を買って読んでいたらキリがない。「この本にはこれこれの話や意見が書いてあるのではないか」と想像してしまう本を見送るのである。その想像が当たっているか外れているかは別問題。


今年に入って三度古本屋に通い、20冊ほど買っている。自宅の書斎の収納はそろそろ限度に近づいているので、こんなペースでは早晩破綻する。厳選して買っているつもりなので、ほとんど処分しない。置き場に困ればオフィスに運び込む。オフィスの書棚は、立てずに積むだけでいいなら、あと千冊や二千冊は大丈夫だ。

読んでみようと思う本を買うのはもちろんのこと、読む確証がないもののちょっと気になる本も買う。小遣いに余裕がない頃にできなかったことが、ある程度できるようになったせいもある。新刊書であれ古本であれ、ついついニーズ以上に買い求めてしまうのが習い性になっている。ところが、買う冊数は読む冊数よりもつねに多いから、未読書は増える一方。そして、買ったまま読まずにおいておくと「事件」が起こる。いや、大した事件ではない。余計な出費になる重複買いのことだ。これまで約二十冊の本を二度買っている。これには昔読んだが処分して今手元にない本の買い求めは含まれていない。すでに所有しているのに、そのことを忘れて買ってしまった本である。

幕末~維新、岩波新書2冊

総じて苦手な日本史だが、幕末から明治維新にかけての時代考察はまんざらでもない。奥付の出版年月を調べずに岩波新書の『幕末から維新へ』という本を最近買った。自宅に帰ってハッと気づいた。ちょっと待てよ、この本、数年前に読んだ本ではないか。書棚を探したら、案の定……がっくり。と思いきや、読んでいた本は『幕末・維新』だった。同じ装丁でよく似た書名だが、重複買いではなかった。しかし、紛らわしい。ちなみに、書名は似ていても、内容も切り口もだいぶ違っている。

読書傾向は変遷する。同じ著者の書物をしつこく読む時期もあり、たまたま見つけるとつい買ってしまう。また、当面関心のあるジャンルの本も、迷った挙句買うことが多い(迷ったら見送るという場合もあるが、何を見送り何を買うかは直感と言うしかない)。

哲学者中村雄二郎の本は十数冊読んでいて、書名も内容もよく覚えている。しかし、買ったまま読んでいないのも二、三冊ある。先週、古本屋で中村雄二郎の『知の変貌』を見つけた。目次を読みページを繰った。激安の二百円だったこともあり、迷わずに買った。内容は新鮮だが、やけに書名に親近感があるので不思議な気分になってきた。中村雄二郎の本を並べてある書棚を見たら、すでに『知の変貌』が収まっていたのである。ずいぶん以前に買って未読のままだった。本の選び方、買い方、読み方……あまり変わるものではないようである。

取るが我等が得もの

京都の知人は、手元に金がある時は安い居酒屋で飲み食いして現金払いする。「いつもニコニコ現金払い」ができるのは持ち合わせがあるからだ。しかし、金の融通がきかない時にふいのお客さんの接待ということになると、なじみの高級割烹とお茶屋に連れて行く。掛け買いができるからである。縁のない世界なので詳しいことは知らない。知人によると、請求は年に一回のみ。十二月に一年分をまとめて支払うそうだ。何百万という金額になることも珍しくないらしい。

今もこのような掛け売り・掛け買いという商習慣が一部で生きている。かつてのように、掛金取り立てのために駈けずりまわって集金しているのだろうか。もしそうなら、隠れたり言い訳で逃れたりという輩がいても不思議ではない。貸し手と借り手の駆け引きにあって、昔は「取るが我等がとくもの」と豪語する人物に出番があった。ずばり「取り立て上手」のことである。こういう情景をイメージすると、師走を特に慌ただしく感じてしまうのもうなずける。


☑井原西鶴終焉の地

自宅からオフィスまで1.3キロメートル。その途中に井原西鶴(1642-1693)の終焉の地の碑がある。交通量の多い谷町筋の道路を背にしている。西鶴は道路向かいの鎗屋町やりやまちに住んでいたという。元禄期に書かれた『世間せけん胸算用むねさんよう』は、まさに師走の掛金を巡る貸し手と借り手――主として中下層の町人ら――の喜怒哀楽を描いた作品だ。「大晦日おおつごもりは一日千金」という副題が示すように、二十章のすべてが大晦日の一日に起こった物語として綴られている。久々に気まぐれに本を繰ってみた。

(……)この帳面見給みたまへ、二十六軒取済とりすまして、ここばかりとらでは帰らぬ所。この銀済まぬうちは、内普請うちぶしんなされた材木はこちのもの。さらば取って帰らん。

この引用の冒頭に「取るが我等が得もの」という大見得が切られている。取り立ての男が、「この帳面を見てごらんなさい。ここまで26軒まわって回収してきて、お宅から取らずには帰れません。支払いをしていただけないなら、リフォームにお使いになった木材を回収します。さあ、持って帰らせてもらいましょう」とプレッシャーをかけている。それにしても、見事な回収率である。

元禄時代、現金による当座買いのほうが珍しく、商売の主流は帳面による掛け売りと掛け買いが主流だった。この仕組みがすっかり姿を消したわけではないが、当世、大晦日が一年の最後にして最大の収支決算日ではなくなった。ところで、11月末に一回6,000円ほどするストレッチの回数カードを3回分買った。一括払いすると割引特典があるからだ。買ったのはいいが、2回利用した後、仕事の都合で期限までに3回目を消化できなかった。特典に目がくらんで損をした。何事もできるかぎり現金払いがよく、現金で受け取るのがいいと思う年の瀬である。

辞書、辞典、事典、百科……

ある人に聞かれたことがある。「どのジャンルの本が一番多いですか?」 「それはもう間違いなくジョークと雑学の本ですよ。続いて言語と語学。その次に文化・芸術関係や思想・哲学でしょうね」。

年末になると書棚の整理をする。今年もぼちぼち始めているが、食の本やギリシア・ローマ、ヨーロッパ関係の本も少なくない。ひとつ見落としているジャンルがあった。辞書の類である。常用するものは手の届く範囲に置いている。出番の少ないものはあちこちの書棚にばらけている。オフィスに所蔵しているものもかなりある。

ブリタニカ百科事典

辞書、辞典、事典、百科などは目を通したり参照したりするページに比べて「開かずのページ」のほうが圧倒的に多い。読みもしないページがあるからと言って、いらないページを破り取るわけにはいかない。調べものをすることが目的であり、調べる必要はいつ何に対して起こるかわからないから、活用の度合いにかかわらず常備しておかねばならない。つまり、書籍としては効率が悪い。

やはり辞書は電子書籍が便利なのだろうか。いや、それが必ずしもそうではない。電子書籍を活用したことがないので断言できないが、ウェブで用語を調べるかぎり、当該用語の意味を知れば検索は終わる。しかし、紙の辞書の場合は、前後の見出し語にも目移りする。つまり、目的から寄り道することになる。それでも、その寄り道こそが紙の辞書を繰る副産物にほかならない。気が付けば、調べものを忘れて両隣の字義を読むのに没頭していることがある。こういう「ついでの知識」というのが案外ためになるからおもしろい。


「一日一言」や「~集」の類、それに図鑑や図録を除いて、辞書、辞典、事典、百科だけに絞ってどれほどあるのか数えてみた。90冊弱あった。その一覧を見て呆れかえっている。備えあれば憂いなしのつもりで買い集めたものの、手に取りすらしたことのないのを目の当たりにして憂いあるのみである。「あいうえお順」に辞書を並べてみた。

【あ】
アメリカの雑誌を読むための辞書
アメリカ俗語辞典
悪の引用句辞典
悪魔の辞典

【い】
いろはカルタ辞典
イタリア語動詞辞典
伊和辞典

【う】
うらよみ演劇用語辞典

【え】
英語情報辞典
英文を書くための辞書
英和翻訳表現辞典

【お】
オックスフォード現代英英辞典
思いちがい辞典
音楽用語辞典

【か】
がくがく辞典
カタカナ新語辞典
科学のことば雑学事典
科学技術大辞典
架空地名大事典
漢字表記辞典
漢和辞典

【き】
機械用語辞典
気のきいた言葉の事典
季語辞典
擬音語・擬態語辞典
逆引き辞典

【け】
経済用語辞典
建築学用語辞典
建築人間工学辞典
現代思想を読む事典
現代無用物事典

【こ】
ことわざ悪魔の辞典
ことわざ成句使い方辞典
こんなものいらない事典
コーパス辞典
言葉の違いがわかる事典
古語辞典
故事成語辞典
五體字類
広辞苑
広報事典
国語辞典
国際金融用語辞典

【し】
ジョーク雑学大百科
思考の用語辞典
実存主義辞典
昭和古語辞典
笑死小辞典
新大字典
新明解国語辞典

【せ】
世界の故事名言ことわざ事典
世界名言格言辞典
西洋哲学小事典
西和辞典

【そ】
ソシュール小事典

【て】
ディベート用語辞典
哲学事典

【と】
当世悪魔の辞典
独和辞典

【に】
日英口語辞典
日英比較ことわざ辞典
日米表現辞典
日本語をみがく小辞典〈名詞篇〉
日本語コロケーション辞典
日本語誤用・慣用小辞典
日本語使いさばき辞典
日本語大シソーラス
日本史小辞典
日本人の英語欠陥辞典

【ね】
ネーミング辞典

【ひ】
ビジュアル大辞典
比喩表現辞典

【ふ】
ブリタニカ大百科事典
仏教語小辞典
仏和辞典

【み】
民俗学辞典

【よ】
四字熟語辞典

【ら】
ランダム英和大辞典

【る】
類義語辞典
類語新辞典

【わ】
和伊辞典
和英辞典
和西辞典
和独辞典
和仏辞典

魂と脳に響くことば

ある程度時代に同期しないと困る仕事だから、新しい話題にも一応の目配りをしている。自力で目配りできないことも多々あり、時事や流行に強い若い人たちの話に耳を傾けて不足を補う。しかし、二十歳過ぎの人と六十年以上生きてきたぼくとでは、リアルタイムの最前線情報の比重は同じではなく、したがって受け止め方が違う。受け止め方の比重には年齢に応じて20分の160分の1程度の開きがある。分子と分母を上下に分かつ括線の下では歳相応の経験と知識が集積している。中身の質を度外視すれば、分母の量は最前線情報の分子の比ではない。

最近よく70年代~80年代のノートやカードを振り返る。ナルシズムに浸るためではなく、その時々の時代をどう生きてきたかを振り返るためである。記憶だけでなく記録に痕跡を求めようというわけだ。当時書いたものを読んで気づくのは、文の論理以前に直観や感覚によって対象に心が動く様子を表現しようとしていることである。現在の文章に比べると、二十代、三十代の時のほうがよく対象を見て心的作用を描写できているような気がする。

今は筋を追いかけて、前文と当該文と次の文をつなぐよう――そこに展開する考えが一貫するよう――書くことを意識する。線で概念を綴ろうとしている。その代償として、個々の点としての対象の摑み、その対象について生起する感覚がおろそかになる。描写や比喩から「執念」が消えている。感じる瞬間の昂ぶりを極力押さえているから、理性がまさって概念に傾く。とは言え、大局的に物事を眺望できているとしても熟成味が増したことにはならないだろう。要するに、叙述することに不熱心になり、他者を意識した理屈っぽい説法が多くなったにすぎない。普遍を求めて情趣を失しているとすれば、まだまだ拙い証拠である。


新書の帯のことば

書店で手に取った新書の帯のキャッチフレーズに「魂がふるえる言葉がここにある。」とあった。これはぼくへの示唆か。なるほど、二十代、三十代はそんなことばによく出合い、テンションが上がったものである。今は脳にも響くことばでなければ残らない。もっとも、経験を積むにしたがって感じることから分かることへ変移するのは当然だ。経験が少ないからこそ断片的なことばに感じ入る。しかし、経験が上乗せされるにつれ、ことばそのものについて考え、ことばで考えようとしなければならない。魂がふるえるだけでは物足りないのだ。脳にも響かなければ感覚も理性も次なる上の閾値に向かわない。

ずいぶん前に抜き書きして、時々読み返す文章がある。金田一京助の『片言をいうまで』である。樺太アイヌ語を採集していく実際の場面が鮮やかに描かれている。単語を覚えてアイヌの住人に披歴したある日のこと……。

私と全舞台との間をさえぎっていた幕がいっぺんに切って落とされたのである。さしも越え難かった禁園の垣根が、はたと私の前に開けたのである。ことばこそ堅くとざした、心の城府へ通う唯一の小道であった。きょ成って水到る。ここに至って、私は何物をもためらわず、すべてを捨てて、まっしぐらにこの小道を進んだのは、ほとんど狂熱的だった。(傍線岡野)

傍線部の表現は魂を揺さぶるに余りあり、そして文脈を視界に入れて再読すれば脳にも響く。ともすれば面倒くさそうにコミュニケーションで済まそうとする姿勢への戒めになってくれる。

もう一例を挙げる。「人間は考える葦である」は『パンセ』の中でパスカルが紡いだ有名なことばだ。この格言だけをぽつんと切り離し、さも魂を揺さぶられたかのように満足している人がいる。そして、文脈を読み取ることなく、この格言だけを斟酌して何となく「人間は弱い存在」だと感じている。そんなことを言うために、パスカルは人間を葦にたとえたのではない。この名文句が登場するくだりをそのまま読んで脳に響かせてみればいい。

人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱い存在である。だが、それは考える葦である。人を押し潰すために宇宙全体は武装するには及ばない。蒸気でも一滴の水でも人を抹殺するのに十分である。だが、たとえ宇宙が人を押し潰しても、人は人を抹殺する存在よりも尊い。なぜなら、人は自分が死ぬことを知っており、宇宙が自分よりも優位であることを知っているからである。宇宙は何も知らない。
だから、われわれの尊厳のすべては、考えることにある。われわれは、われわれが満たすことのできない空間や時間からではなく、考えるということから立ち上がらなければならないのである。よく考えることに努めよう。ここに道徳の原理がある。
(傍線岡野)

魂が揺さぶられても一過性で終わりかねないことは誰もが経験している。これぞということばは、記憶し思い出してこそおこないの糧になる。もう一度繰り返す。ことばそのものについて考え、ことばで考えようとしなければならないのである。

読書と書評

読書を一般論として語ることはできない。第一にジャンルに応じた読み方があり、第二に目的に応じた読み方があるからだ。いろいろな読み方があるが、ここではぼくが語りうる読み方しか語りえない。第一のジャンル。気に入りそうなものは普段ジャンルを問わずに何でも読むが、文学とハウツーものは読書論から除外する。文学は好きに任せて、ハウツーはそれぞれの事情で読めばいいからである。第二の目的。目的が至近で一つに絞れるような読み方をしないので、仕事に役立つ読み方とか調べもののための読み方を語る資格はない。と言うわけで、生きていく上での教養を長い目で培ってくれるジャンルの本を、考えるヒントや体験の肉付けになるように愉しみながら読むにはどうすればいいかがぼくの関心事になっている。

本を読むとは、著者が書いたことを読者の脳内に移植することではない。そんな意味のないことをするくらいなら、読んだ本をいつも手元に置いて時折りページ繰ればいい。『広辞苑』を丸暗記してもことば上手にならないように、本の内容を覚えても生きた教養にはならない。読書とは、読者固有の「経験・知識」と「書物」との照合作用である。何を読むか以上にたいせつなのは、誰が読むかなのである。つまり、その本を読むのは他の誰かではなく、自分自身なのだから、世間一般のその本の読み方に倣うことはない。いかにやさしい本であっても、あなたが読むのとぼくが読むのとでは理解や読み込み箇所が違うのだ。経験と知識の質が違うからである。

読書感想文を書いたことがあるはずだ。課題図書を指定されて読み、読後に思うところを書いて先生に提出する。課題もなく先生もいないが、自ら本を選んで読み感想を書くのを習わしとする読書家もいる。ぼくも若い頃にはよく読書ノートに記録したものだ。読書感想文の利点を一つ挙げれば、二度読みせざるをえないことである。一度読むだけではそう易々と感想を文にできるものではない。傍線や付箋、ページの折り目を追い掛けながら再読し、ここぞというくだりを抜き書きして自分の考えをしたためる。二度読んで書くから、覚えようとしなくても、自分の経験や知識の中に必然取り込まれていく。もっといい方法は、誰かに読んでもらうことを想定して「書評」してしまうことである。


書評を眼目とした読書会を数年前から主宰し、およそ20回開いてきた。書評だから評さないといけない。要約しても必ずしも書評にはならない。本のさわりや著者の本気のメッセージに着目して引用し、そのくだりに呼応して書評者が経験を踏まえた――あるいは想像を逞しくした――知見を呈示する。著者が誰で、その著者の何かについての本を誰が読んだのかが重要なのである。著者と読者がやりとりする過程に書評の妙味がある。普段の自分が気づかぬこと――気づいていても一面的であること――に、著者がヒントを授けてくれているという感覚で読む。著者の書いていることを自分の経験と対比させてみる。すると、共感もするけれど、そうではなくて自分はこう思うという批評も生まれる。だから賛否を明快にして評すればいい。かく解釈せねばならないという強迫観念に縛られることはない。その本を選んだ時点で何がしかの関心があって敬意を表しているのだから、自分流に書評すればいいのである。

書評

月に数冊から十数冊の本に目を通すが、抜き書きしておく本はわずか二割程度である。書評に到っては対象となる本は年に四、五冊に満たない。直近では、池波正太郎『男の作法』を3,500字で、小林秀雄『真贋』を1,400字で書いた。プロの書評家は本を推薦するために書評を書く。新聞や雑誌の書評は本の概要や要所を知る上で役立つが、同時にそれは一つの評論でもあるから、評者の考えを知ることにもなる。ほとんどの場合、その書評を読んでいる人はまだ本を読んでいない。読みもしていない本の書評が分かるかどうか微妙だが、そこを分からせるのが腕の見せ所なのだろう。アマチュアはそこまで考えなくてもいい。

書評が一つの評論であるならば、書評を読むだけで肝心の本を読まなくてもいい場合があると思う。実際、数千円もするような本に飛びついたのはいいが、読まずに放置する惨めに苛まれる。それなら、その本の書評に目を通して、いくらか読んだことにしておくのも悪くないだろう。そういう本の存在を知るだけでも値打ちがある。本についての評者の視点と知見とあいまみえて垣間見るだけでも十分に読みごたえがある書評があり、大いに学び鼓舞されることもあるのだ。まとめるだけでは不十分である。評者は自らの体験キャンバス上でその本を料理して自分を語ってほしい。

本を読めても本は誰でも書けるわけではない。しかし、誰かが書いた書評は読めるし、その気になれば自分でも気軽に書評を書けるのである。『随想録』でフランシス・ベーコンは次のように語っている。

反論し論破するために読むな。信じて丸呑みするためにも読むな。話題や論題を見つけるためにも読むな。しかし、熟考し熟慮するために読むがいい。

これは本の読み方について書かれているが、書評の読み方にもそのまま当てはまる。自分の体験と知識に照らし合わせて考えるきっかけにするのがよい読書である。そのコツを摑みたいなら、他人の書評を読み自らも書評をしたためて仲間内で発表するのがいい。