「我思う、ゆえに我あり」はデカルトの『方法序説』に出てくるあまりにも有名な命題。なるほどそうかもしれないと思う反面、証明に十分納得できないまま今日に到っている。「我あり」が自己満足であってはならないだろう。他者が認知してくれる我の存在でなければならない。また「思う」と言っても、その思いが他者に伝わらなければ、我の喜怒哀楽も快さも痛みも知ってもらえない。他者は少しは想いを汲んでくれるが、なかなか実感まではしてくれないものである。だから、我は語らねばならない。語れば、他者は我の思いに耳を傾け、我がそこにあるのを見て取ってくれる可能性はある。ただ黙って思ってぼんやりとそこに佇んでいるよりは認知の度合も高まるはず。と言うわけで、我語らねば我思うこともなく存在もしづらいのではないかと考える。
「我思う、ゆえに我あり」という命題に関心のあるぼくだ。書店で『我思う、故に我間違う』という書名の本を見つけたら、手に取らずにはいられない。実際、手に取った。ジャン=ピエール・ランタンという人の著書で、「錯誤と創造性」という副題がついている。ページを繰り、「科学の歴史は試行錯誤、いや誤謬の歴史であった」という一文を立ち読みし、「ふ~ん。科学のみならず、誤謬こそがあらゆる分野の進歩にとって不可欠もしくは必然なんだろうなあ」などとしばし黙考した後、手に取った本を元に戻し、買うのを見送ってその場を立ち去った。
確実に買いそうな本なのに、時には見送る。買ったまま読まないのではないかという予感が芽生える時にそうする。そればかりではなく、書かれていることにある程度見当がついてしまう時も見送る。知らないことが書かれているというのはぼくにとって重要ではない。知らないことだらけだし、知らないから知りたいと思って本を買って読んでいたらキリがない。「この本にはこれこれの話や意見が書いてあるのではないか」と想像してしまう本を見送るのである。その想像が当たっているか外れているかは別問題。
今年に入って三度古本屋に通い、20冊ほど買っている。自宅の書斎の収納はそろそろ限度に近づいているので、こんなペースでは早晩破綻する。厳選して買っているつもりなので、ほとんど処分しない。置き場に困ればオフィスに運び込む。オフィスの書棚は、立てずに積むだけでいいなら、あと千冊や二千冊は大丈夫だ。
読んでみようと思う本を買うのはもちろんのこと、読む確証がないもののちょっと気になる本も買う。小遣いに余裕がない頃にできなかったことが、ある程度できるようになったせいもある。新刊書であれ古本であれ、ついついニーズ以上に買い求めてしまうのが習い性になっている。ところが、買う冊数は読む冊数よりもつねに多いから、未読書は増える一方。そして、買ったまま読まずにおいておくと「事件」が起こる。いや、大した事件ではない。余計な出費になる重複買いのことだ。これまで約二十冊の本を二度買っている。これには昔読んだが処分して今手元にない本の買い求めは含まれていない。すでに所有しているのに、そのことを忘れて買ってしまった本である。
総じて苦手な日本史だが、幕末から明治維新にかけての時代考察はまんざらでもない。奥付の出版年月を調べずに岩波新書の『幕末から維新へ』という本を最近買った。自宅に帰ってハッと気づいた。ちょっと待てよ、この本、数年前に読んだ本ではないか。書棚を探したら、案の定……がっくり。と思いきや、読んでいた本は『幕末・維新』だった。同じ装丁でよく似た書名だが、重複買いではなかった。しかし、紛らわしい。ちなみに、書名は似ていても、内容も切り口もだいぶ違っている。
読書傾向は変遷する。同じ著者の書物をしつこく読む時期もあり、たまたま見つけるとつい買ってしまう。また、当面関心のあるジャンルの本も、迷った挙句買うことが多い(迷ったら見送るという場合もあるが、何を見送り何を買うかは直感と言うしかない)。
哲学者中村雄二郎の本は十数冊読んでいて、書名も内容もよく覚えている。しかし、買ったまま読んでいないのも二、三冊ある。先週、古本屋で中村雄二郎の『知の変貌』を見つけた。目次を読みページを繰った。激安の二百円だったこともあり、迷わずに買った。内容は新鮮だが、やけに書名に親近感があるので不思議な気分になってきた。中村雄二郎の本を並べてある書棚を見たら、すでに『知の変貌』が収まっていたのである。ずいぶん以前に買って未読のままだった。本の選び方、買い方、読み方……あまり変わるものではないようである。