誤植と校正の思い出

本を買うスピードに読むスピードが追いつかない。つまり、未読本がどんどん増えていく。図書館じゃあるまいし、どうするつもりなのか!? と自分を詰問してもしかたがない。どうすればいいか分かっているからだ。新たに買わずに、所蔵本から未読のものを読めばいいだけの話だろう。ところが、ところてんの原理によく似ていて、すでに「そこにある本」を読むには新しく買い求める本で「天突き」しなければならないのである。

誤植読本

この一週間で五冊買い求め、そのうち一冊は申し訳程度に通読したが、残りはまだページすら捲っていない。しかし、一昨日の夜に天突き効果が出た。書棚から偶然取り出した一冊を寝床に持ち込んで読み始めたのである。奥付に2013610日発行とある。三年前に買った記憶などすでにないが、とにかくおもしろいので、今もコーヒーを飲みながら読み、読みながら文章を書いている。

誤植・校正には少なからぬ縁がある。長らく英文広報誌の執筆・編集に携わっていたので、文を書いた後には編集者に早変わりして事実関係のチェックや文字の校正作業をするのが常だった。日本人二人とネイティブライター二人に加えて発行人の企業の担当者も校正する。英語に精通していない印刷関係者も原稿と付き合わせてアルファベットの文字面もじづらをチェックする。以上の作業を数回繰り返す。これほどの「厳重体制」を敷いていても、入稿直前に誤植が見つかることがあったし、残念ながら、印刷され配布された後に見つかったこともある。


英文広報ではいくつかの基本的な約束事がある。たとえば、見出しはゴシックでもいいが、長文の本文には日本語の明朝に相当するセリフ付きの書体(ローマン体など)が望ましいというのがその一つ。文字の線の太さが均一になるゴシック――たとえばヘルベチカという書体――では、l(エル)とi(アイ)とj(ジェイ)、t(ティー)とf(エフ)などが判読しにくくなる。ゴシック体で長文を読まされると目も疲れる。つまり、校正の際にも見誤りが生じやすい。セリフや明朝の書体のほうが可読性が高く、パターン認識しやすいことがわかっている。

先の『誤植読本』には作家や編集者ら53人の誤植・校正にまつわる体験エッセイが収められている。諸々の失敗談にぼくの体験が重なる。某家電メーカーの海外販促部長には、まだ校正段階だと言うのに、誤植をいくつか指摘されて怒鳴られたことがあった。もっとも、聖書に誤植が見つかると校正者が処刑された国がかつてあったそうだから、怒鳴られるくらい何ということはない。万全を期して校正したはずなのに、雑誌や本が刷り上がった瞬間、誤植が見つかる。不思議なくらいその確率が高い。校正作業が何かの法則に支配されているとしか思えない。

ぼくが今書いているような千数百字の文中の一文字と、わずか十七音の俳句の一文字では校正の重みが違う。拙文で咎められないミスが俳句では命取りになる。俳人の富安風生の話に共感する。著者は言う、「(……)一句の意味が通らなくなってくれるとまだいい。いけないのは誤植が誤植で、別の意味に通るときである」。そうなのである。誤字・脱字によって意味が滅茶苦茶になってくれるほうが、書き手は下手な言い訳をせずに済む。ところが、別の意味が形成されてしまうと作意と異なる作品が出来上がってしまう。「あれは誤植でして……」と関係者や読者に説明するのは見苦しい。と、ここまで書いたら夜も10時を回った。まだまだ書き足らないがここで終わる。読み返していないし、もちろん校正もしていない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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