問題を解くということ

答えを見つけることができるのは、答えが存在するから。そもそも答えのある問いだったから、答えが見つかったわけだ。そういう答え探しのほとんどは学校時代に終わった。社会に出ると、答えは見つける対象ではなく、思考され創案される対象になる。どこにもない答えを捻り出すことが重要であって、どこかに潜んでいる答えを見つけようなどと意気込んではいけない。調べて見つかるような答えを手にしても、問題解決には何の役にも立たないのだ。何とか検定に受かろうとするのは、基本、学校時代の答え探しの魂胆に同じ。

幸いにして答えを生み出せたとしても、そこで立ち止まっていてはいけない。留まっていると、すでに存在していた答えを見つけたのと同じ結果になる。問い詰めて、そして答えを編み出す――これはゴールではなく、問題解決前のささやかな一つの段階にすぎない。答えは、手に入れた後に「動かす」ことに意味がある。答えによって現状を変えなければならないのである。机上の答えを創造するまでは得意顔してできる人は多い。しかし、答えを現場で動かそうとする人はなかなか出て来ない。

話がややこしくなった。遅まきながら、答えを「方法」に言い換えることにする。方法自体は何も動かさないし何も変化させない。たとえば「問題解決の方法」という記述では、主眼は「問題が解ける」という点であり、決して方法ではない。方法を手にして人は安堵するばかりで、方法を実行することに向かわない。大組織では、実行者である機関車は数えるほどで、編み出した方法を誰かが実行するのを待つ客車が五万とある。客車は自動の力を持たない。


人間には「生得的な欲求がある」と、わざわざマズローの説を持ち出すまでもない。当たり前である。しかし、生得的な欲求が「問題を解決したい」という欲求になるとはかぎらない。人はそれぞれの経験を通じて芽生えてくる欲求のほうに敏感になるものだ。これが「習得的な欲求」である。習得的な欲求の強さこそが問題解決の原動力になる。ぼくたちは自分で選択した環境と用意された環境とが複合する世界に生きている。他の動物同様に、その環境世界の中で生き残り、適合して機能していくために努力する。では、生き残ってうまく機能していくためには何をするべきか。環境から情報を入手しなければならないのである。習得的欲求がこれを下支えする。

問題を解く

環境から情報を入手するのは言うほど簡単ではない。まず、ありとあらゆる情報を集めることはできないし、そんな欲求もないだろう。人は「ある種の情報」だけを求める。しかし、自分が持ち合わせている知識と入手しようとしている情報がまったく同じなら、求める必要性がない。図の[A]のように自分の知識と環境の情報が異なっているからこそ、手に入れる意味がある。ところが、完全に異なっている場合、よほどの強い好奇心や関心がなければ、見向きもしないということが起こりうる。若ければ新しい環境に適応する流動性も持ち合わせているが、加齢とともに衰えてくるのである。こうして知的閉塞が生じる。

保有している知識内に外部情報が取り込まれるためには「大同小異」の関係が前提になる。たとえば[B]のように重なっている状態。自分の知識が環境の情報を「同化」するとともに、情報のほうが知識の一部を「修正」する。知識はこのようにして再構築され、時々の環境で生き残るために役立ってくれる。経験を積むにつれて、人は強い自我で体系を作ろうとするが、それだけでは不十分である。時には自分の知の体系を崩してでも、環境からの情報に「順応」することが絶対になる。経験して獲得した知識をリセットしてはいけない。また、その圏内で止まっていてもいけない。

問題解決とは、以上のような、生き残るための「知と環境の同化・修正による調整作用」にほかならない。そして、それはそのつどの臨機応変が条件であることを意味している。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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