迂回的に学ぶ

岐路

いつの時代も当面必要なことだけを最短距離で学ぼうとする人たちがいる。ぼくもかつてその一人だったし、今も、やむをえずそういう手っ取り早い学びに時間を割いてしまうことがある。「今すぐ使えるフランス語」などはその類いだ。しかし、原則として間に合わせのハウツーに飛びつくなと自分に言い聞かせ、学びの岐路に立って二つの選択肢があれば、近道よりも遠回りのほうを意識的に選ぶようにしている。迂回的な学びのほうが先々の成果が大きいことを経験的に知っているからである。

二十歳前後から独学本位、しかも雑学好みできたから、学びの過程では寄り道や脱線が多かった。これでいいのだろうかと懐疑したことは一度や二度ではない。しかし、いい歳していつまでも他力を借り、しかも促成的な学びを目的としているのはさもしくて賤しいと思うのである。

『哲学な日々』で野矢茂樹が書いている。理系の学生に哲学を教えているのだが、まじめな学生ほどテーマと直接関係なさそうな話に興味を示さない。彼らはすぐに使えるものを学びたい。役に立つことを学び、それらを積み上げるように知識を脳に入力したいのである。野矢は言う、「分かっていることよりも分かっていないことの方が多いんだ。答えは本の中に書いてあるんじゃない。問いすらも、これから自分でひとつひとつ見つけていかなくちゃいけない」と。

不肖ぼくの企画研修を受けても、企画のハウツーは一部で、ほとんどの時間、受講生は自ら考えなければならないように仕組んでいる。うまく考えられず、実習で成果が出ないと学んだ気にならないだろう。しかし、それでいいのだ。安易に答えに飛びつかず、じっくりと考えた時間が将来実を結ぶのである。

「一生学び続けます」と悟ったようなことを言う人たちがいる。しかし、そう言いながら、自力で学んでなどいない。誰かに誘われて、誰かと一緒に集団で学んでいるにすぎない。学びが、自分で考えないという都合のいい方便になってしまっている。誰かから授けられた目先のハウツーを自分に移植してどうなるものでもないではないか。ハウツーは早々に陳腐化する。所詮、最後には自分で問いを立て、勇気を出して答えを捻り出し、検証しなければならない場面に遭遇する。これが考えるということだ。ハウツーほどの瞬発的威力はないが、長きにわたって様々な効能を発揮する。


学びに際して、足を踏み下ろしている現実を見、これまでの知識と経験を踏まえ、生活の諸々の場面を振り返ってみる。今生きている主体者としての自分の肉体や五感を強く意識する。学びの対象から現実の自分を切り離さない。言い換えれば、学びを自分に肉化させるということだ。自分で学びの対象を決め、ひとまず独学してみる。なぜ「肉化」などという表現を使ったかと言うと、学びが食べるという行為に類比できるからだ。食べ物が自分自身になっていく過程、カロリーに支えられて身体のエネルギーが漲る様子にとてもよく似ている。

昨日のブログ『学問の本趣意は読書のみに非ず』に続いて福沢諭吉の『学問のすゝめ』の十二編を引く。

(精神の)働きを活用して実地に施すには様々の工夫なかるべからず。「ヲブセルウェーション」とは事物を視察することなり。「リーゾニング」とは事物の道理を推究して自分の説をつくることなり。この二箇条にてはもとより未だ学問の方便を尽したりと言うべからず。なおこのほかに書を読まざるべからず、人と談話せざるべからず、人に向かって言を述べざるべからず、この諸件の術を用い尽して初めて学問を勉強する人と言うべし。

「ヲブセルウェーション」は“observation”のこと、「リーゾニング」は“reasoning”のこと。観察と類推である。他に、本を読んで知見を身につけなさい、対話をしてその知見を交えなさい、書いたり話したりして知見を広め生かしなさいというようなことを言っている。直截的に言えば、知見を活用してこその学問(学習)というわけである。学ぶことは簡単ではない。手間暇がかかる。インスタントな手法では学習対象のうわべを撫ぜるばかりで、知見構築には決して到らない。ましてや、その知見を活用することなどは望むべくもない。学びは、真正であればあるほど、迂回的にならざるをえないのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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