ほんの少し春を惜しむ


4月と5月を振り返ってみると、わが居住地ではちょうどよい気温が続き、おおむね快適に過ごした日が多かった。一昨日も昨日も、近年の五月とは違って、微かに記憶に残る昔の春の感じだった。今朝も清々しい空気の中を156分歩いて事務所にやって来たが、部屋に入るとちょっと気配が違う。少なくとも昨日とは違う。もしかして、春との決別の日が近づいているのか……。

東に向いて歩く朝、眩しい陽射しに春を惜しむ。
「今日はアイスコーヒー」と呟いて春を惜しむ。
窓際のガジュマルの剪定をしながら春を惜しむ。

惜春と言ってはみたものの、寂寥感にさいなまれるほど惜しんでいるわけではない。去り行くものすべてに覚えるいくばくかの物思い程度にすぎない。ともあれ、春の名残はなくなり余韻も消えて、まもなく五月が終わろうとしている。五月が終わって六月になっても、ハンカチがフェースタオルに変わる以外、日々のルーチンは大きくは変わらない。

五月が終わる頃、井上陽水の『五月の別れ』の歌詞を思い出す。

風の言葉に諭されながら 別れゆくふたりが五月を歩く
木々の若葉は強がりだから 風の行く流れに逆らうばかり
鐘が鳴り花束が目の前で咲きほこり
残された青空が夢をひとつだけあなたに叶えてくれる

風の言葉に諭されてみたいと思うし、諦め上手にならずに、時には強がりな若葉を見習ってみたい。この少し後に「星の降る暗がりでレタスの芽がめばえて」という一節があり、芽がめばえるなら暗がりもまんざら悪くないと思ったりする。ちなみに、レタス炒飯よりも挽肉のレタス包みのほうが好きだ。

惜春は五月の特権である。四月に春を惜しむのは早すぎる。ところで、四月の歌と言えば? 若い頃によく聴いた英語の“April Love”(四月の恋)が一番に浮かぶ。パット・ブーンのあの透明感のある甘い声が懐かしい。てっきり亡くなっていると思っていたが、ご存命で次の61日に90歳になられる。

古来人々が春を惜しんだのは、梅雨の季節にわくわくしなかったからだろうか。初夏や六月にも風物詩の魅力があるはずなので、待ち遠しくなるような風物詩を発見するか発明したいものである。

〈なつ〉と〈しごと〉

🌤 6月になったばかりなのに、ギラギラと太陽が照りつける炎天のイメージが先行する。〈なつ〉に長期休暇があるのは〈なつ〉が〈しごと〉や勉学に向かない証。年に3ヵ月も続く暑さは苦難である。しかし、苦難を試練と見なせば何とか我慢してみようという気になる。

🌤 「さんさん」という擬態語は英語の“sun”とは関係ない。「さんさん」は漢字で「燦燦」。おもしろいことに「火へん」である。「ギラギラ」という擬態語も英語とは関係ない。と言いたいところだが、英語の“gl”(グㇽ)という音は紛れもなくギラギラを現している。また、glareグレアはまぶしい光であり、glassグラースは反射して光るし、glowグロゥは白熱や赤熱の光を輝かせる。他の言語でも“gl”を調べたことがあるが、その音のギラギラ感は人類共通のように思える。

🌤 梅雨入りが早い年は、挨拶も「梅雨入りしたらしいね」になる。

「梅雨入りが半月早くなり、おまけに梅雨明けも半月遅くなったりするとどうなると思う?」
「さあ……。鬱陶うっとおしくなる?」
「雨の日が多くなるんだ」

🌤 〈なつ〉になると〈しごと〉のスタミナが続かなくなる。勢い、直線的に取り掛かって効率的に済ませようとする。しかし、経験上これは間違っている。暑い季節の〈しごと〉は、ダメもとの精神で、だらだらと寄り道したり本題から離れて脱線したりするのがいい。

🌤 今年の〈なつ〉もどこか遠くへ出掛ける予定はない。〈しごと〉の後の一杯をささやかに楽しむつもり。ビールはチェコやベルギーの小瓶。つまみはフィッシュアンドチップスか豚のスペアリブの炙り。ワインは主に白の泡。春先からカバをいろいろ試してきた。つまみには惣菜パン。一口サイズにカットしてタパスに見立てる。ウイスキーならキーンと冷えたバーボンのハイボール。小エビかイカのフリットにレモン汁をたらしてつまむ。