揺蕩いと沈み

上田敏の訳詩集『海潮音』の復刻版を読み返している。原版は明治3810月の発行(使われているのは「發行」の文字)。六十篇弱の訳詩が収められいて、すべての詩で漢字にルビが振られている。

過剰なルビは目障りだ。全漢字フリガナ付きの文章だとなめらかに行を追いづらい。かと言って、もしルビが振られていなかったら、教養が足りないからもっとひどい判読渋滞に巻き込まれる。たとえば、詩集の一篇、ルコント・ド・リールの「大飢餓」の始まり四行からルビを取り払ったら、音読不能に陥るのは間違いない。

上田敏『海潮音』

古風な響きの「揺蕩たゆたい」が一行目で出てくる。最近ではほとんど見たり聞いたりすることはなく、絶滅危惧表現の一つに数えてもいい。揺蕩うは、今では「ゆらゆらと漂う」や「不安定に動く」という言い回しに置き換わることが多い。

ところが、死語として葬るわけにもいかない。「たゆたえども沈まず」という成句があり、これは他の表現で代替えしづらいのだ。パリ市の紋章に描かれている帆船の下にラテン語で添えられているのがこの一文である。

Fluctuat nec mergitur. 

パリ市の紋章 

波に揺らぐとも沈まないのは帆船であるけれども、これはパリという街の比喩である。街は変わる、パリの街も変わる、様相はあんなふうにこんなふうに変わる、しかし、パリの本質は変わらない……という主張である。もちろん、これは人の比喩として転用される。人はさまようし定まらない。信念はぶれるし、拠り所も考えも変わる。度を過ぎた揺蕩いの反動によどみが現れるかもしれない。しかし、こんなネガティブな姿勢であっても、完全に沈没してしまわないかぎり救われている。希望は未来へと繋がれる。

たゆたえども沈まず。このことばを聞いて、「そうか、漂いさまよってもいいんだ。あっちこっちとふらふらしてもいいんだ。沈みさえしなければ……」と励まされる人がいる。だが、そんな甘いものではない。たゆたっているつもりが、すでに沈んでしまっていたりするのが人生だ。揺蕩いと沈みの間に引かれる一線は、見づらく摑みづらいが、きわめて厳格なのである。

「可能性」について考えてみた

〈可能性〉という表現は悩ましい。誰かが「可能性がある」と言っても、どの程度なのかがわからない。降水確率のように数値化できるものでもない(いや、降水確率のパーセンテージにしても、たとえば30%40%の違いを感知しているわけでもない)。『新明解』は可能性を次のように解説している。

未知の事柄の実現について、(絶対不可能だと判断するだけの根拠を欠き)ある程度(十分に)可能だと予測される状態にあるととらえられること。

悩んだ痕跡が窺える定義だ。「不可能」が基準になっている点に注目したい。絶対不可能と言い切れないなら可能と言える、というわけである。可能は、「できる!」と胸を張れるような状態ではなく、むしろ「できそうもないが、絶対できないとは言い切れない」というニュアンスに近い。不可能は可能から派生したはずだが、可能の度合をはかるにあたってひとまず不可能を持ち出さねばならない。

やまとことばに可能ということばはなかった。明治以降に生まれた和製漢語だ。可能は“possible”で、不可能は“impossible”。対義語の関係にある。ところで、『アリス・イン・ワンダーランド――時間の旅』の一場面で、チェシャ猫が“unpossible”という表現を使った。辞書には載っていない。字幕では「非可能」と訳されていた。

可能性

絶望的に可能でないことを不可能(impossible)とするなら、非可能(unpossible)はどんな意味になるのか。人間らしいが“human”で、冷酷で非人間的なのが“inhuman”、しかし、“unhuman”は人間らしくない、つまり、“human”とは関係のない、という意味だ。幸せな(happy)の対義語は“unhappy”だが、これは絶望的な不幸ではない。「ハッピーな気分じゃない」というほどの意味だろう。以上のことから、非可能(unpossible)は、可能でもなく不可能でもなく、もっと言えば、可能性云々とは無関係な状態と考えられる。


閑話休題。「可能性がある」とは、ほとんどの場合、一縷の望みがあるという程度の状態なのである。そうあって欲しいという願いに近いかもしれない。英語では可能性を“possibility”(<possible)という。しかし、もう一つ、英語学習者があまり使わない“probability”(<probable)という似た表現がある。これも可能性のことだが、区別するために〈蓋然性がいぜんせい〉と訳す。もし、「できる確率の大きさ」を期待したいのなら、こちらのほうを使うのが妥当である。起こる確率は“probable”のほうが“possible”よりも大きい。

“Sure, it is possible, but how probable is it?”という表現を大学生の頃に覚えた。「なるほど、それは理屈上は可能。しかし、はたして実際にできる確率はどうなんでしょう?」という意味。「度合もわからない漠然とした可能」に対して、“probable”は「ありそうなこと、できることの確からしさ」を問題にする。だから、できることを前提にした話をする時は、可能性よりも蓋然性のほうが適切なのである。

ダイヤル番号がわからない金庫を開けるのは、一握りの金庫破りにとっては可能(possible)だが、ふつうは不可能(impossible)である。しかし、たとえ鍵がかかっていても木製のドアなら、金庫に比べて開けることができそうである(probable)。理論上の可能性と現実に起こりうる蓋然性の違いである。授業中に“possible”“probable”の違いを説明した夏目漱石のエピソードがある。「吾輩がここで逆立ちをすることは可能(possible)である。しかし、そんなことをするはずもない(not probable)」。切れ味のある説明だ。

今日も酷い暑さである。目の前のペットボトルの水を頭から浴びることはできる(possible)が、そんなことをするはずがない(not probable)。しかし、帰宅した直後にシャワーを浴びるのは大いにありそうである(probable)。可能性の議論や考察よりも、蓋然性のほうに関心を向けたい。口先だけで「できる」とほざいても何事も解決しない。気を紛らわせるだけに終わる。できることの確からしさをしっかりと考えなければならない時代である。

“Yes”に潜む危うさ

議論では”イエス”と”ノー”の両方に出番がある。イエスばかりでは馴れ合いになり、ノーばかりでは衝突してしまう。この国ではイエスの頻度が高く、ノーは毛嫌いされる傾向が強い。ノーと言われて気分がよいはずもなく、またノーと言えば相手も心地よいはずがない……という空気がある。その場をイエスで収めておくのが大人の作法というわけだ。ところが、これは自分が当事者として関与しているからであって、自分と関係のない状況に際してはノーと言う。たとえば、交渉で弱腰になっている政府や言いたいことを言わない友人のことになると、「強くノーと言えばいいんだ」と高飛車に出る。

ホンネがノーならノーと言うべきだ、もっと強く出てしかるべきだという意見がないことはない。かつての『「NO」と言える日本』などはその手の主張であった。もっとも、「ノーと言える可能性」と「ノーを行為として言う蓋然性」は違う。遠吠えでいいのなら、誰だってノーくらいは言える。知己や親しい相手に面と向かってイエスとノーを使い分けてはじめて、意思無きイエスマンから脱却できる。

ノーなのにイエスと言わざるをえない空気は、力学決着という風土ならではだ。長いものに巻かれたり上司の顔を立てたりするのが習慣化すると、鈍感になって何とも思わなくなるのだろう。ノーを押し殺してイエスに魂を売るのが朝飯前という人たちを五万と見てきた。彼らは、悔しさに涙をのむということさえしない。見解の相違だからなあ、時間が解決するはず、まあ何とかなるよという類いもイエスの変種と言えるだろう。吉田兼好は「おぼしきこと言はぬは腹ふくるるわざ」と言った。思っていることを言わないでいると腹が膨れてくるような気になるという意味だが、それが嫌ならはっきり言えばいいのに、それでもめったにノーを言明しない。


YES□ NO☑

相手の質問に対して即座に返答できない時――つまり、イエスかノーに迷った時――ノーと言うのが議論や交渉の原則である。ノーを選択する勇気がなく、イエスでその場をしのいでも、いずれノーと言わねばならない場面がやってくる。その時のノーは一事が万事になりかねない。もっと早くノーと言っておけば事態はそこまで深刻にならなかったはず。

最初に言いたいことを言う、ノーならノーと言っておくのはディベートの教えである。早めのノーが危機を未然に防ぐ。しかも、ノーからイエスへの転換もしやすい。イエスからノーへの変更には一触即発の危うさがある。

日本社会でも、誰もが曖昧な意思決定を良かれと思っているはずがない。しかし、理念はそうであっても、現実はイエスとノーを明言しない。どちらかと言えばイエスに傾く。日本人に頷きが多いのもその表れだろう。頷いているからと言ってイエスとは限らないから、世界から見れば日本人は曲者に映る。英語で“Yes or no?”と迫られて困り果て、おざなりに“or”と答える日本人……というジョークのネタにされてしまう。中間や折衷も好きなのである。

「ノーのすすめ」を何十年も説いてきたが、受けがよくない。身近な批判のことばであるノーが行き詰まりを打開し己を鍛えてくれると言っても、理解してもらうのは難しい。ノーは有益なのだが、それを実感する前に不愉快になるからである。

あまりにも多くの人々が、他人のアイデアを批判しないように、と教えられてきました。それはまったくの誤りです。よいアイデアは批判にも堪えられるものです。また、悪いアイデアの欠点を指摘する人がいなければ、よくなりようがありません。
全員が同じ知識、背景、見解を持つ画一的な集団では、変化が生じたとき、柔軟に対応できないことがわかっています。にもかかわらず、いまだに「ノー!」と言い合えない会社やチームはたくさんあるのです。

『スウェーデン式「アイデア・ブック」』(フレドリック・ヘレーン著)からの引用である。「イエスよりノー!」という一節で、批判はアイデアを磨くという趣旨をわかりやすく書いてくれている。ノーに光を当ててくれていて、ぼくの代弁にぴったりなので紹介した。ノーがたいせつということよりも、ひとまずイエスまみれの危うさを知っておくのがいい。

もたれ合うアイデンティティ

あるもののアイデンティティをそのことだけに関して、その内においてのみ語ることはできない。たとえば、さくらんぼのアイデンティティをさくらんぼそのものだけに限定して説明することは不可能だ。さくらんぼという果実は、その他諸々の果物との対比によってどんなものかが明らかになる。そして、果実群にあって差異化され自己同一的フルーツとなる。

「右」とは何か? もし「左」という概念を用いずに定義しようとすれば、「明という漢字の月が書かれている側」とでもするしかない。実際、『新明解』にはそう書いてある。しかし、これで右が自己同一性を保障されたわけではない。なぜなら、「では、日の書かれたほうは何?」と知りたくなり、それを知らないままでは右がわかった気にならないからである。結局、「日と書かれている側は左である」と補足せざるえない。

右をはっきりさせる上で左は欠かせない。右と左という二項は対峙して、相互依拠しながら意味のありかを照射している。白は黒に、男は女に、父は母に、夢は現実に――それぞれその逆でも――もたれ掛かっている。

知のネットワーク

二項間の差異が明確になってこそ、一項がアイデンティティを持つ。ものや概念やことばは、それ一つだけでは意味を明示できないのである。このことは二項だけに限った話ではない。「池」は他の類似概念との差異によって独自の位置を得ている。たまたま池を中心に据えた〈差異のネットワーク〉を示したが、もしここに田や沼を置けば、川や海を消して「潟」や「砂洲」を加えることになるかもしれない。


日本や日本人について語る場合も同じである。これまで読んだ日本論、日本人論のすべてが、日本と日本人の特性を他国と外国人と対比して描き出していた。日本以外の国、日本人以外の人々との比較をせずに日本と日本人のアイデンティティを語るのはほとんど不可能なのだ。絶対不可能と書かずに「ほとんど不可能」と書いたのは、日本と日本人を地域的または歴史的に細分化して語ることができるからだ。現代と江戸、現代人と万葉人を相互参照するように。

マックス・ウェーバーの「シーザーを理解するために、シーザーである必要はない」という言にいたく感心したことがあった。よくよく考えてみれば、これはもっともな説で、シーザーが自分自身を他の誰とも対比せずに理解できるはずもない。「シーザーを理解するために、シーザーであってはならない」というほうが的を射ている。

ぼくの嗜好品であるコーヒーは、他の飲物がまったく存在しない時、たぶん意味もないだろうし、アイデンティティに出番もないだろう。水やジュースや紅茶があってこそのコーヒーある。概念は他の概念とネットワークを形成し、その中で意味を持つ。概念を表わすことばもしかり。差異と類似、そして連想やつながりによって機能している。もの、概念、ことばの意味とアイデンティティは、互いにもたれ合っている。だから、何かがある程度理解できたと思えるのは、その何かだけを突き詰めるたからではなく、別の何かとの対比をおこなったからなのである。

「待つ」

受験勉強をしたシニア世代なら『赤尾の豆単』を知っているだろう。知っているだけでなく、使っていたかもしれない。赤尾とは編著者で当時旺文社社長だった赤尾好夫、豆は小さなサイズの象徴、単は単語のこと。アルファベット順に英単語を並べている点で普通の辞書と何ら変わらないが、受験単語をいつでもどこでも丸暗記できるというのが工夫だった。

英語の何たるかもよく知らず、単語さえ覚えれば何とかなるという一途な思いから、ぼくもご多分に漏れず“a”で始まる単語から覚え始めた。他の単語はいざ知らず、出現頻度の低い“abandon”を「捨てる、放棄する」と覚えたのは、何度も挫折して何度も”a“からやり直したからである。文章や文脈から切り離された単語を万の数ほど覚えてもどうにもならないということを知ったのは二十歳を過ぎてからのこと。

単語一つを小ばかにしているわけではない。むしろ一つの単語について思い巡らす効用を認めている。たとえば、何も書かれていない紙を前にしてめったに連想などできるものではない。その白い紙に一つの単語を書いてみる。すると、その一語がきっかけになってイメージが広がる。深く広く考えたいなら、命題型の一文がいい。命題は是非の考察の引き金になってくれるからだ。ぼくの経験上、あることについて漫然と考えるよりも、是か非かと突き詰めるほうが見晴らしがよくなる。

人のいない椅子

椅子が並んでいる。人は不在である。椅子は12脚配置されていて、時計の文字盤を想起させる。さて、この椅子のどこかに人を座らせてみる。人が登場すると、イメージの働きが一変する。意味を見出そうとするからだ。意味はないのかもしれない。しかし、意味を探ろうとする過程で必ず経験や知識が動き始める。それはちょうど一つの単語を辞書で調べるのに似ていて、椅子と一人の人間の位置取りから、経験と知識のデータベースを参照している働きである。


先日、急な雨に遭い、喫茶店で雨宿りしていた。手帳を取り出して、駄文でも書こうかと思った矢先、雨が上がるのを待っている自分に気づく。もし雨というものが止まないのなら、喫茶店になんか入らなかっただろう。雨は止むものだとぼくは思っている。そして雨雲が去るのを待っている。「待つ」という、わかりやすいことばを手帳の一ページに書き込み、次のような文章を連ね始めた。

「待つ」。わかりやすい単語である。待つのは「何か」である。電車を待つ。人を待つ。わかりやすい。しかし、事態の変化を待つとか結果を待つというのはよくわからない。たとえば、病院で順番待ちしているとしよう。ぼくは順番を待っているのではない。待っているのは診察や検査である。いや、待った挙句、自分の順番が来て診察や検査を受ける――ただそれだけのために待っているのではなさそうだ。疲れるほど長い時間待っているのは、診察や検査の向こうにある、さらなる「何か」だ。

「期待」ということばに「待つ」という漢字があり意味もあるから、好ましい何かを待っているのかと言えば、必ずしもそうでもない。死刑執行も待つだろうし、試験の通知を待つにしても、合格のみならず不合格をも待つことになる。待っているのだが待っていないこともあり、待っていないのだが待っていることもありそうだ。注文して十数秒後にコーヒーが出てきたらがっかりする。もう少し待ちたかったのに、待たせてくれなかった。レストランでは待たされ過ぎて、待ったことの意味が失われることがある。待ちたい、しかしほどよく待ちたいわけで、待ち過ぎたくもないし、場合によっては、待っている何かが現れないことすら期待していたりする。

サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を思い出す。残念ながら、これまで舞台を観る機会はなかった。若い頃に戯曲を読んだだけだ。舞台は一本の木、田舎の一本道。二人のホームレスが「ゴドー」を待つ。ゴドーは誰かわからない。しかし、二人は待っている。ゴドーの使いと称する少年がやって来て、今日は来ないけれども明日は来るという伝言を残す……。次の日も二人はゴドーを待つ。

「待つ」という単語一つから始まった想像でえらく神妙になってしまった。雨が止むのを待つのとゴドーを待つのとは同じではない。だが、雨が止むことと待つことが切り離される瞬間がある。はっきりと何かを待つ一方で、ぼくたちは案外、ゴドーらしきものを待つ日々を送っているのではないか。対象が何かよくわかっていないし、別に来なくてもいいのかもしれないが、待っている。もしかすると、ただ待つことを愉しんだり悲しんだりするために。目的語を必要としない、待つことの独立性……。

本と本棚と、時々読書

「無用の用」――つまり、「無用とされるものでも役立つこと」――を否定してしまうと、日々の暮らしやおこないの何もかもが無用に見えてきて空しくなる。だから、一見無用だけれど何がしかの役に立っていると自分を慰めて生きていく。仮に役に立つとまで言えなくても、無用の自浄作用に期待しておく。

本と付き合っていると、この無用感に苛まれながらも、いやいや、本こそ無用の用なのであると思い直す。読書行為において無用と用がせめぎ合う。しかし、無用を無駄だと決めつけていたらこれまで本など読まなかっただろう。少なくとも読書の時間は単純な無駄でなかったことは明らかである。

自宅の何千冊もの本をデジタル化して一台のPC内で所蔵するとしよう。あのことが書いてあったのはどの本だったかと本棚から本棚をさすらうことはなくなる。キーワードを入力して検索すれば、即座にいくつかの候補が見つかる。本を探す時間とエネルギーは省かれる。そして、何よりもありがたいのは、本に支配されている空間が解放されることだ。


だが、よくよく考えてみたら、そのキーワードが頻出語であったりすると、何十冊、何百箇所もの候補がヒットするだろう。おびただしい候補のリストから見当をつける労力は並大抵ではない。もし候補を減らしたければ、キーワードをかなり絞り込む必要がある。キーワードの絞り込みとは詳細に修飾語をトッピングすることだ。それができるためには、検索時点で明確に対象が意識されていなければならない。いずれにせよ、キーワードで抽出された書名や本の一節を見つけ出すのも一苦労なのだ。既読の本であれば、記憶を辿りながら実物の本を探すのと手間暇は変わらないような気がする。

私の本棚

最近『私の本棚』という本を読んだ。二十数名の文筆家らが本と本棚と読書について書いたエッセイ集。本のジャンルに読み手の個性が出るように、本棚そのものも読者のアイデンティティを反映する。おもしろいことに、読書家たちは、本を選び買う以上に、また読書すること以上に、蔵書のやりくりや本棚をどうするかという苦労を背負う。蔵書家でもある読書人にとっては、本棚の問題が解決しないかぎり、読書どころではないのである。

本棚に割り当てる空間は壁さえあればよく、奥行20センチか30センチだけの話である。しかし、本を取り出して読むことを前提にしているのだから、背表紙が見えなくてはならない。背表紙が見え、出し入れするにはさらに数十センチの余裕が必要になる。こうして、たとえばぼくの書斎の場合、三つの壁面に本棚が聳え、居場所を圧迫している。

何とかしなければならないという危急の思いと、デジタルデータではなく現物の本でなければならないというこだわりが葛藤し、結局は実物の本棚に本が埋まり、収まり切れない本が行き場を失っている。それでもなお、本棚の前で右往左往しながら、どの本のどこに何が書いてあったかと、バカにならない時間を費やして渉猟する日々。一発検索の魅力に劣らない望外の発見に恵まれるからである。読書さえできればそれでいい、というわけにはいかないのはもはやさがだろう。本があって、本棚があってこそ、時々読書が可能になるのである。

テクストとウンベルト・エーコ

本を読んでわかる、あるいは読んだ本を自分の記憶として再利用する――知はそんなふうに活発になったり膨張したりするわけではない。ものの見方の風通しを良くしてこその知だ。知識は放っておくと澱んでしまう。つねにメンテナンスよろしく攪拌する必要がある。対話もそうだが、主に読書がその攪拌の役割を担う。言うまでもなく、攪拌とは秩序ではなく、混沌である。

テクストがある。テクストを学んでいるのではない。テクストを読むとは、テクストの話と自分を重ね合わせることである。誰が読んでも同じテクストなど存在しない。読み手の知識・経験がテクストと葛藤し入り混じる。このようにテクストと向き合うことが知の実践そのものであり、テクストそのものを生きることにほかならない。書かれたものを学んでいつか役に立てよう――そんなタイムラグのあるやり方は知の形成には都合が悪いのである。

テクストは開かれた世界であり、解釈をする者は無限の相互関係を発見することができる。
言語は、そこに既にあるものとしての、唯一の意味を捉えることはできない。

エーコの読みと深読み

ウンベルト・エーコの『エーコの読みと深読み』の一節。原題を直訳すると「解釈と過剰解釈」。古書店で出合ったこの本を読んでいたさる2月、エーコの訃報に接した。享年84歳。数万冊を超える読書経験に裏打ちされたエーコのテクスト論は難解だが、ぼくの能力不足のせいばかりではないだろう。実に読み解きづらい翻訳がいっそう小難しくしてしまっている。この翻訳が、まさにエーコが言うように、「言語は思考の不適切性を映し出す」ことを証明しているかのようである。


読者はテクストの意味を固定させたがる。意味は本来無限のはずなのに。エーコはテキストが一義的幻想から無限の認識へと変容すべきだと訴える。そして、テクストの一行一行が秘密の意味を別に隠しているのではないかと疑ってかかることを読者に求める。これがテクストの意味だったのかと安堵するのもつかのま、いやいや、それは本当の意味ではないと疑い始める。終わりなき解釈? かもしれない。エーコは言う。

本当の意味ははるかかなたにある――この繰り返し。(……)敗者たちとは、この過程を打ち切って「分かった」と言ってのける者たちのことである。
テクストの秘密とは、それが空虚なことである――これを理解する者こそ「本当の読者」である。

なかなかテクストを理解できない読者への慰めか、あるいは、もしかするとリスペクトかもしれない。わからない……混沌として空しくなる……それでもテクストに向かおうとすること……これでいいと言っているのではないか。誤読ですら許されそうだから、読者の解釈に自在性が生まれるような気がしてくる。

深い読みがあり、浅い読みがあり、テクストの作者の意図通りの読みがあり、意図と異なる読みがある。テクストの意図の深読みほどつまらないものはない。それでいいのなら、誰か一人が読んで大勢にリレーするかシェアすればいい。実際、ウェブの世界ではテクストをそのように読むようになってしまったかのようだ。自在性を失ったテキストを救済できるのは賢明な読者を除いて他にない。

言論について (9) 類比・ユーモア・パトス

比喩と言えば隠喩や直喩を思い出すが、言論的には〈類比アナロジー〉が代表格である。類比や類推はことばの表意性に関わるが、元を辿れば数学の比例や比率のことだった。〈A:B=C:D〉はその最たるもの。この公式では「A×D=B×C」が成立する(たとえば、1:5=3:15)。

数字を概念に置き換えてみると、「弘法大師:筆の誤り=サル:木から落ちる」という類比が出来上がる。「木登り得意のサルだってたまには木から落ちるんだ。書の達人である弘法大師も稀には書き間違いをするだろう」という具合。「発展途上国にやみくもに経済支援をするのは、がん患者にモルヒネを投与し続けるようなものだ」は、「発展途上国:経済支援=がん患者:モルヒネ」で表わすことができ、そのこころは「当面の痛みを抑えることができても、抜本的治癒になるとはかぎらない」ということになる。

類比は、決まれば説得効果抜群である。しかし、どんな比喩にも少なからず強引さがあり反駁リスクを伴う。上記の例で言えば、「空海とサルを、経済と命を、一緒くたにするのか!?」と皮肉を込めて反発されるかもしれない。二つの概念の類比はあくまでも類比であって、まったくイコールではない。推論法則がそのまま当てはまるとはかぎらない。推論の境界線を大胆に乗り越えて果敢に類比に挑む際には、限界と盲点も心得ておくべきだ。

かつてのブッシュ前大統領のことばを思い出す。「すべての国家はテロ側につくか平和への道を歩むかの岐路に立っている」という表現は、「テロ側」と「平和への道」を「悪:善」で対比させたわけだが、何のことはない、「テロ側:アメリカ側」という魂胆が見え隠れしていた。

料理店に二人で入り、一人が「君は何?」と注文したいものを尋ね、もう一人が「ぼくは海鮮丼」と答える。明らかに人間だろうから、「ぼく=海鮮丼」は滑稽であるが、このやりとりに誰も非難を浴びせない。文章から何かを引くと、主述関係がおかしくなるが、置かれている状況や文脈をお互いに踏まえているから意味は通じ合える。言論にはこのような語法上の曖昧さがつきまとう。しかし、これも一つの比喩であって、詭弁や虚偽とは性質を異にする。


グラデーション

雑学系の軽い本に書いてあった話。人の頭髪は平均25万本だそうである。さて、その頭髪を一本ずつ抜いていけば、いつから「ハゲ」と呼べる状態になるのか。あるいは、完全なハゲに一本ずつ毛を埋めていけば、いつからハゲではないと認知されるのか。簡単ではない。ハゲの定義が定まらないかぎり、ジレンマは免れないだろう。

結局、言論は定義の問題も取り扱うことになる。そして、定義とは、他のことばを借りてきて概念を明らかにする作業であるから、比喩の出番も多くなる。髪の毛の本数は25万本から0本のグラデーションを構成する。表現のあやにもグラデーション効果があり、これがユーモアの隠し味になる。

比喩やユーモアは文化的な共通感覚上で作用する。共通感覚の下地がなければ理解に時間を要するし、さっぱり意味が伝わってこない。聞き手が即座に知覚し感応してこその比喩やユーモアである。この感覚の受け皿にはクオリアのように身体と精神が合流する。要するに、ツボに嵌まらなければならない。それまで隠されていたものが、あるいは腑に落ちなかったことが、比喩によってあらわになりユーモアによって謎解きの快感がもたらされる。わからないと不快だが、わかれば気持ちがよくなる。「無知から知への転換の喜び」とアリストテレスも言っている。

ロゴスに依存しないパトス的反論もある。雄弁家デモステネスは慎重な人で、決して即興の演説をしなかったらしい。弁論の内容を練りに練って演壇に上がるのを常とした。この用意周到さを弁論家ビュテアスが辛口に皮肉った。「あなたの議論には灯油の匂いがする。夜遅くまで草稿を練る鈍才だ」。この嫌味に対してデモステネスは瞬時に切り返した。「なるほど、あなたと私とではランプの用途が違うからね。あなたの場合は女と戯れるためだから」。デモステネスのこの即興の切り返しはパトス的反論であり、ロゴスやエトスとは違う効果を出している。

感情に訴えるパトスは意識に影響をもたらす。「意識が対象を変える」と言ったのはヘーゲルだが、同じ対象でも「愛しているか憎んでいるか」によって異なるものに感じる。では、「憎んでいるか怒っているか」という意識ではどんなふうに対象は変わるか。憎しみと怒りのパトスは似ているようだが、微妙に異なる。誰かに怒りをぶつけられたらつらいが、やがて辛さは静まり、逆に、怒っている相手を憐れむようになることさえある。他方、憎まれるのは禍や害悪に近いものを感じる。怒りは醒めても憎しみは根深い。時が過ぎても、自分を憎んでいる相手に憐憫の情などまったく湧いてこない。パトスは感情、意識、そして言論のニュアンスをつかさどることがわかるだろう。   

《全9回 完》

言論について (8) トポスによる説得

弁論や対話でどんなに巧みにことばを操れたとしても、肝心要はそのことばの背後に「論」があるかどうかである。明快でぶれない視点が言論を形づくる。プレゼントの真価は、包装紙やリボンにはなく、プレゼントを選んだ視点にある。ここで言う視点こそが〈トポス(topos)〉であり、これが事実に即した論旨を一貫させる機能を担う。トポスとは「ありか」のこと。言論の際に論題が位置している場所であり、論述を成り立たせる拠り所を意味する。

ユダヤ格言に「人は意見(主張)で説得されるのではない。理由(論拠)によって説得される」というのがある。強く同意する。至近な話を持ち出すと、気が付いたら買おうと思っていたわけではないモノを買っていたというのは、「この商品はいいですよ」という言に動かされたのではなく、商品を買うべき理由に納得したからである。一般的には、「節度を守ろう!」というスローガンよりも、「放埓ほうらつ三昧は身を滅ぼすから」という論拠のほうがよく響くと言われる。大してすごいことを言っているわけでもないが、ここでは次のようなトポスが使われている。

Xの正反対のYの中に、Xが持っている性質“a”に相反する性質“b”が属していれば証明でき、属さなければその命題を反駁できる。

少々複雑だが、「放埓」の正反対の「節度」の中に、放埓の性質である「自己破壊」と相反する性質「自己形成」があれば、節度の優位性が証明できるということだ。これは「相反」というトポスだが、アリストテレスは説得推論のトポスを28パターン取り上げた。そのうち、相関関係、多少の比較、切り返しターンアラウンド、定義、分割、因果関係、前後関係などは現代議論法でも十分通用する。


トールミンモデル

1960年代、論理学者のトールミンは、〈証拠・確信度・主張・論拠・裏付け・保留〉という6つの要素から成る推論と証明のモデルを提唱した。これを簡略化したものが、〈主張・証拠・論拠〉を要素とした「トールミンの三角モデル」である。この三角形がトポスを強化する。主張だけでは論題は証明できない。また、証拠から推論はできるが、推論の妥当性までは説得できない。ここに「なぜ証拠から主張が導かれるか」という論拠を示すことによって、トポスがあぶり出され、論題が適切に推論され証明されることになる。

何かを主張したら、証拠と論拠について問われる。証拠は調べることができるだろう。しかし、論拠をどこからか探してくることはできない。論拠は捻り出すものである。ある論点でうまく論拠を示せたとしても、別の論点で妥当な論拠が立てられるとはかぎらない。苦し紛れにその場しのぎの説明をすれば、論点間の整合性が乱れる。繰り返すが、証拠から主張を導くだけでは不十分であって、必ず論拠を示さねばならないのである。

対話においては、「論拠探し」は「論拠崩し」と表裏一体となる。相手の論拠反駁を封じ込めることができれば、自分の論拠がすぐれているということになる。こと論拠に関しては、相手の不利は自分の不利、相手の有利は自分の有利でもある。そういう状況でしのぎを削るのがトポスによる説得である。

すべてのトポスがつねに有効なわけではない。対話に相手がいるかぎり、反駁されずに有効と見なされることもあれば、逆に反駁されて無効と見なされることもある。たとえば、「商品ABのいずれを取り扱うかを検討した結果、商品Aを販売することに決めて現在に至っているが、Bのほうがよく売れたのではないかと思う」と誰かが言った。これに対して次のようなトポスで反論可能だろう。

「あなたはBの商品の存在を知っていた。そして、それを選択できることも知っていた。何がしかの不安がある時、人はそれを選ばない。ゆえに、あなたがBではなくAを選んだのは必然で、今さらそんなことを言うべきではない」

一見妥当だが、このトポスには次の再反論が可能かもしれない。

「何が有効で何が優れているかは、実施してしばらくしてはっきりするもので、実施前にはわからない。しかも、ABかという二者択一であったから、同時に取り扱うことはできなかった」

もちろん、主張に決定的なトポスが出てくるまでは、さらなる検証が交わされ続けるだろう。それが議論というものである。

アリストテレスは28種類のトポスとは別の「有効な説得推論」を指摘している。「(説得推論においては)証明を目的とするよりも論駁を目的とするほうが人々の受けがいい」というのがそれ。証明は絶対評価の対象だが、論駁はすでに述べられた主張に相反した議論を併置させる。聴衆にとっては賛否両論を聞くほうがわかりやすく、なおかつ、後でおこなう議論のほうが巧みに聞こえることが多い。

先に言わせてから強く反論する、あるいは問わせてから切り返すように答える……古今東西、このような説得推論をおこなってきた政治家や論争家は数知れない。詭弁すらまっとうに聞こえてしまうから、劇場型論駁に惑わされぬよう聴衆自らもトポスを用意しておかねばならない。

言論について (7) 詭弁と虚偽への反論

「目には目を、歯には歯を」という有名な箴言。「やられたらやり返せ」と解釈されることが多いが、そういう意味ではない。これは元々、度を超したリベンジを戒めるもの。とは言え、この戒めを守ってもなお議論が泥仕合になるのは珍しくない。勝ち負けにこだわるあまり、ギリシアのソフィストたちは詭弁を多用するようになった。アリストテレスでさえ、「中傷してきた相手には中傷で返せ」と言っているが、短絡的に見習うのは賢明ではない。なぜなら、己に正当性があったとしても、悪口・中傷は人物の評判を落としかねないからである。

ソクラテス

毒矢への対処法に関しては、ソクラテスのほうを模範にすべきかもしれない。『ソクラテスの弁明』に見る冷静にして沈着、これ以外にはないというほどの連鎖的な問いと反論は相手と論点をよく踏まえている。ソクラテスは不幸な終末を迎えたが、正義と真理を背負った人間は強い。しかし、そのソクラテスでさえも強く検証反駁した背景には、自分の立場を有利にしようとする思いがあったことは否めない。

相手に反論をするということは自分の正当性を訴えることにほかならない。どんなに度量が大きい人物であっても、じっとして反論され放題のサンドバッグになってはいけないのである。明らかな誤謬なのに詭弁を弄するような相手には、黙殺という手段はもってのほかだ。

反論上手は敵の手のうちをよく読み、言論のセオリーや定跡をそのつどその場で微妙に変化させて応用することができる。極端な場合、その変化応用が180度転回しないともかぎらない。「相反する命題のどちらをも他人に説得することができなければならない」(アリストテレス)のである。この意味では、ソフィストも彼らを批判したソクラテスも例外ではない。〈XYである〉を主張するためには、相反する命題〈XYではない〉にも通じておかねばならない。コインのトスで肯定側になるか否定側になるかが決まるディベートは、この考え方を反映した典型的なゲームである。


自己批判を踏み台にする反論の方法もある。あるいは、ソクラテスのように「どうも鈍いせいか、あなたの仰ることがよく飲込めないのですよ。つまり、これこれの理解でいいのでしょうか?」という、自嘲気味にしてへりくだるような言い回しは、高圧的な論客が相手の場合に有効だ。要するに、反論の基本姿勢に「クールな頭」と「ホットな心」を据えておく。なお、「よし今度こそうまく反論するぞ」と意気込みながらも、気が動転して何も言えなくなる人がいるが、厳密に言うと、これは言論の問題ではなく、その人の共通感覚的な正義感の欠如によるところが大きい。相手が不正な議論をしたり詭弁を弄したりしているのに、遅疑逡巡するばかりで瞬発的な対応ができないのである。理不尽を前に黙してはいけない。

明らかに相手が間違っている。それにもかかわらず、「その理由をことばで説明できないのは、ほんとうはよく分かっていないからである」とソクラテスは戒める。たとえば、相手が「英雄は色を好む。私は色を好む。だから私は英雄なのだ」と言う。直観して不可解な論法である。最初の前提「英雄は色を好む」と二つ目の前提「私は色を好む」には、共通の表現「色を好む」が含まれている。このような、二つの前提をつなぐことばを〈媒概念〉と呼ぶが、色を好む者は英雄よりも私よりも大きな概念であるから、「すべて」とか「つねに」と言えるような周延はできていない。つまり、〈媒概念不周延の虚偽〉という推論になっている。「色を好むのは英雄だけにあらず」、また「あなたはつねに色を好むわけではない」と冷静に検証できなければ、虚偽の筋が通ってしまう。

これとは逆に、「私は弁護士である。私は男である。ゆえに弁護士は男である」というケースでは、一つ目の前提でも二つ目の前提でも「私」が媒概念になっている。私というのは弁護士や男よりも小さな概念であるにもかかわらず、結論部分で弁護士と男という大きな話に広げられている。これを〈小概念不当周延の虚偽〉という。

以上見たような虚偽やジレンマは言論につきものである。命題には主語と述語が含まれる。その主語と述語の集合概念の大小関係をきちんと捉えるのが論理の仕事。それを無意識に誤ったり、虚偽だと承知しながら故意にすり替える。書かれた文章なら誤謬に気づきやすいが、耳から入ってくる主張だとうっかり聞き損じてしまう。

全体について認められることはその一部についても認められ、全体について否認されることはその一部についても否認される。

これは〈全体と皆無の原理〉と呼ばれる。この原理を心得ておくだけで、ほとんどの集合概念上の虚偽を見破ることができる。揚げ足取りの話をしているのではない。論理の話である。論理が成り立つかどうかという視点で他者の意見を検証していれば、自分が論理を組み立てる時の誤謬にも気づくことができるのである。