「待つ」

受験勉強をしたシニア世代なら『赤尾の豆単』を知っているだろう。知っているだけでなく、使っていたかもしれない。赤尾とは編著者で当時旺文社社長だった赤尾好夫、豆は小さなサイズの象徴、単は単語のこと。アルファベット順に英単語を並べている点で普通の辞書と何ら変わらないが、受験単語をいつでもどこでも丸暗記できるというのが工夫だった。

英語の何たるかもよく知らず、単語さえ覚えれば何とかなるという一途な思いから、ぼくもご多分に漏れず“a”で始まる単語から覚え始めた。他の単語はいざ知らず、出現頻度の低い“abandon”を「捨てる、放棄する」と覚えたのは、何度も挫折して何度も”a“からやり直したからである。文章や文脈から切り離された単語を万の数ほど覚えてもどうにもならないということを知ったのは二十歳を過ぎてからのこと。

単語一つを小ばかにしているわけではない。むしろ一つの単語について思い巡らす効用を認めている。たとえば、何も書かれていない紙を前にしてめったに連想などできるものではない。その白い紙に一つの単語を書いてみる。すると、その一語がきっかけになってイメージが広がる。深く広く考えたいなら、命題型の一文がいい。命題は是非の考察の引き金になってくれるからだ。ぼくの経験上、あることについて漫然と考えるよりも、是か非かと突き詰めるほうが見晴らしがよくなる。

人のいない椅子

椅子が並んでいる。人は不在である。椅子は12脚配置されていて、時計の文字盤を想起させる。さて、この椅子のどこかに人を座らせてみる。人が登場すると、イメージの働きが一変する。意味を見出そうとするからだ。意味はないのかもしれない。しかし、意味を探ろうとする過程で必ず経験や知識が動き始める。それはちょうど一つの単語を辞書で調べるのに似ていて、椅子と一人の人間の位置取りから、経験と知識のデータベースを参照している働きである。


先日、急な雨に遭い、喫茶店で雨宿りしていた。手帳を取り出して、駄文でも書こうかと思った矢先、雨が上がるのを待っている自分に気づく。もし雨というものが止まないのなら、喫茶店になんか入らなかっただろう。雨は止むものだとぼくは思っている。そして雨雲が去るのを待っている。「待つ」という、わかりやすいことばを手帳の一ページに書き込み、次のような文章を連ね始めた。

「待つ」。わかりやすい単語である。待つのは「何か」である。電車を待つ。人を待つ。わかりやすい。しかし、事態の変化を待つとか結果を待つというのはよくわからない。たとえば、病院で順番待ちしているとしよう。ぼくは順番を待っているのではない。待っているのは診察や検査である。いや、待った挙句、自分の順番が来て診察や検査を受ける――ただそれだけのために待っているのではなさそうだ。疲れるほど長い時間待っているのは、診察や検査の向こうにある、さらなる「何か」だ。

「期待」ということばに「待つ」という漢字があり意味もあるから、好ましい何かを待っているのかと言えば、必ずしもそうでもない。死刑執行も待つだろうし、試験の通知を待つにしても、合格のみならず不合格をも待つことになる。待っているのだが待っていないこともあり、待っていないのだが待っていることもありそうだ。注文して十数秒後にコーヒーが出てきたらがっかりする。もう少し待ちたかったのに、待たせてくれなかった。レストランでは待たされ過ぎて、待ったことの意味が失われることがある。待ちたい、しかしほどよく待ちたいわけで、待ち過ぎたくもないし、場合によっては、待っている何かが現れないことすら期待していたりする。

サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を思い出す。残念ながら、これまで舞台を観る機会はなかった。若い頃に戯曲を読んだだけだ。舞台は一本の木、田舎の一本道。二人のホームレスが「ゴドー」を待つ。ゴドーは誰かわからない。しかし、二人は待っている。ゴドーの使いと称する少年がやって来て、今日は来ないけれども明日は来るという伝言を残す……。次の日も二人はゴドーを待つ。

「待つ」という単語一つから始まった想像でえらく神妙になってしまった。雨が止むのを待つのとゴドーを待つのとは同じではない。だが、雨が止むことと待つことが切り離される瞬間がある。はっきりと何かを待つ一方で、ぼくたちは案外、ゴドーらしきものを待つ日々を送っているのではないか。対象が何かよくわかっていないし、別に来なくてもいいのかもしれないが、待っている。もしかすると、ただ待つことを愉しんだり悲しんだりするために。目的語を必要としない、待つことの独立性……。

投稿者:

アバター画像

proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です