雑談を学ぶ? そんなバカな!

雑

雑〉にはおおむね二つの意味がある。

一つは、粗野に近い意味で、細かい注意が行き届かないさまを表わす。「仕事が雑だな」と指摘されたら、マメさが足りないとか出来が悪いと言われているのに等しい。もう一つは、ある尺度に基づくと分類しづらく、仮に分類できるにしても取るに足らないという判断から「その他」や「基準外」の扱いを受けるもの。このようにカテゴリーに収まらないのが普通だが、時にはカテゴリーをまたぐこともあり、その点では異種混淆の趣を感じさせる。

明確な帰属先を持たない、二つ目の意味の〈雑〉に並々ならぬ愛着がある。雑学、雑感、雑食、雑書、雑文などのまとまりの無さはレアで原始的で野性的であり、はっきりと定義され分類された学問、思考、食事、書物、文章などよりも創発の可能性を湛えている。とりわけ、ぼくは雑談にことのほか熱心である。議論の精度や明快性を重んじるディベートの学びと指導に力を入れてきたが、何を隠そう、実は、不定形で摑みどころのない雑談こそがぼくの本場所と思っている。雑談なのだから、目的も意味もない。しかし、そこに想定外の談論風発が巻き起こることがある。

さて、その雑談だ。雑談に悩む人が多いという話を聞いた。ふと読んだ新聞記事でも、雑談が人材育成や研修の対象になっていると知って、腰を抜かすほど驚いた。新聞記事にも書いてあったが、そもそも雑談とは「中身のない」話である。これが言い過ぎなら、「中身にこだわらない」と言い換えよう。雑談に目論見などない。意識しなくても、勝手に雑談になるのである。ちょうど雑草と同じ。手を加えなくても、雑草はたくましく生え成長する。


新聞記事には雑談力研修を受けた受講生のことばが載っていた。

「何を話せばよいか不安だったが天気の話でいいと分かり楽になった」。

何という感想! 話すことが特になければ、無理にではなく、自然に天気の話をするものだ。雑談入門として天気の話でいいんだよと励まされてほっとするとは嘆かわしい。雑談に方法やテーマを持ち込んだ瞬間、それはもはや雑談ではなくなっている。それを対話とか議論と言うのである。雑談が雑談として値打ちがあるのは、そこに意識が働かず、気がついたらそうなっているからなのだ。

何でも研修できるわけではない。科学やシステムを持ち込むのは、雑談が一般化できると錯覚し、なおかつ仕事に役立つなどという不純な動機を前提にしているからである。好き嫌いを問わず、仕事上のプレゼンテーションや会議はやらざるをえない。こういう類いのものには一般化できそうな技術がいくらかはある。雑談は中身ではなく「場と他人との波長」なのだ。相手が気に入らなければ雑談は成立しないし、たわいもない話題に興味を示せないなら、無理して場に座することもないのである。

〈雑〉をもう一度噛みしめることにしよう。誰も意識して雑事に手を染めようとしない。気がついたら、とりとめのない用事が重なり、それをこなしている。雑学にしても、それを究めようとすること自体が不自然だ。雑学など最初から存在しない。気の向くまま学んだ結果、既存の体系の足跡を認めることができなかったが、後日または後年、雑学が身についていたことがわかる。何を雑談するか、どうすれば相手との距離が縮まって人間関係がよくなるかを学んでいる人間から仕掛けられる雑談、そこに和気藹藹と談論風発が起こることはありえないのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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