本を読んでわかる、あるいは読んだ本を自分の記憶として再利用する――知はそんなふうに活発になったり膨張したりするわけではない。ものの見方の風通しを良くしてこその知だ。知識は放っておくと澱んでしまう。つねにメンテナンスよろしく攪拌する必要がある。対話もそうだが、主に読書がその攪拌の役割を担う。言うまでもなく、攪拌とは秩序ではなく、混沌である。
テクストがある。テクストを学んでいるのではない。テクストを読むとは、テクストの話と自分を重ね合わせることである。誰が読んでも同じテクストなど存在しない。読み手の知識・経験がテクストと葛藤し入り混じる。このようにテクストと向き合うことが知の実践そのものであり、テクストそのものを生きることにほかならない。書かれたものを学んでいつか役に立てよう――そんなタイムラグのあるやり方は知の形成には都合が悪いのである。
テクストは開かれた世界であり、解釈をする者は無限の相互関係を発見することができる。
言語は、そこに既にあるものとしての、唯一の意味を捉えることはできない。
ウンベルト・エーコの『エーコの読みと深読み』の一節。原題を直訳すると「解釈と過剰解釈」。古書店で出合ったこの本を読んでいたさる2月、エーコの訃報に接した。享年84歳。数万冊を超える読書経験に裏打ちされたエーコのテクスト論は難解だが、ぼくの能力不足のせいばかりではないだろう。実に読み解きづらい翻訳がいっそう小難しくしてしまっている。この翻訳が、まさにエーコが言うように、「言語は思考の不適切性を映し出す」ことを証明しているかのようである。
読者はテクストの意味を固定させたがる。意味は本来無限のはずなのに。エーコはテキストが一義的幻想から無限の認識へと変容すべきだと訴える。そして、テクストの一行一行が秘密の意味を別に隠しているのではないかと疑ってかかることを読者に求める。これがテクストの意味だったのかと安堵するのもつかのま、いやいや、それは本当の意味ではないと疑い始める。終わりなき解釈? かもしれない。エーコは言う。
本当の意味ははるかかなたにある――この繰り返し。(……)敗者たちとは、この過程を打ち切って「分かった」と言ってのける者たちのことである。
テクストの秘密とは、それが空虚なことである――これを理解する者こそ「本当の読者」である。
なかなかテクストを理解できない読者への慰めか、あるいは、もしかするとリスペクトかもしれない。わからない……混沌として空しくなる……それでもテクストに向かおうとすること……これでいいと言っているのではないか。誤読ですら許されそうだから、読者の解釈に自在性が生まれるような気がしてくる。
深い読みがあり、浅い読みがあり、テクストの作者の意図通りの読みがあり、意図と異なる読みがある。テクストの意図の深読みほどつまらないものはない。それでいいのなら、誰か一人が読んで大勢にリレーするかシェアすればいい。実際、ウェブの世界ではテクストをそのように読むようになってしまったかのようだ。自在性を失ったテキストを救済できるのは賢明な読者を除いて他にない。