今回は「表象から表現へ」というテーマを取り上げます。ぼんやりと浮かんでいる思いやイメージをことばとして現わすということです。手始めに電話でのやりとりを想定しましょう。電話の相手が「鉛筆とファイルを買ってきて」と言いました。「えんぴつとふぁいる」という音が耳に入った瞬間、意識にもののイメージが浮かびます。これが表象です。音に見合ったものが参照されるはずです。
外部にある事物で、いま目の前に実物がないものを認識するときは、この表象を手掛かりにします。そして、表象が仮に同じであっても、それを表わすことばを共有していなければ二者間で通じ合うことはできません。なにしろ実物がないわけですから、ものをことばで表現して伝えるしかないのです。鉛筆を知っていても、たとえばフランス人に「えんぴつ」と言っても通じません。通じるためには、言語文化的な壁を越えなければなりません。
ものがあってその呼び名があれば、名辞の単独レベルでは理解し合えます。では、ものなのかどうかわからない、しかも初めて耳にする音。こんな未知の概念にぼくたちはどう対処しているのでしょうか。相手が「かんかくてきちょっかん」と言ったとします。初耳なので、それが「感覚的直観」だと即座に理解できないかもしれない。しかも、鉛筆やファイルのように具体的なイメージが浮かび上がりそうもありません。もっと身近な「しごとのひんかく」という例でも、事物のようには鮮明に見えてきません。以上を整理すると、音がわからなければ表象が浮かばない、音がわかってもイメージの湧く事物ではない、音とことばがわかっても感覚的直観や仕事の品格などの意味が話し手と聞き手で一致するとはかぎらない……。表現したことが伝わり理解されるのは簡単なことではありません。しかし、ことばで打開するしかすべはないのです。
メルロ=ポンティの「思考がことばを操るのではなく、ことばが思考を実現する。(……)ことばはことば自身について語ることができる」という主張は、イメージとことばとの関係についても言えそうです。頭に浮かぶ鉛筆やファイルのイメージがことばを随え操っているのではなく、ことばがイメージを実現している。テーマである「表象から表現へ」の背後に、ことばによる表現あってはじめてイメージの象りが可能になるという前提がありそうです。思考を思考で示すことはできないし、イメージをイメージで現わすことはできません。いや、できるかもしれないけれど、堂々巡りに陥ります。しかし、ことばはことば自身について語ることができ、意味を膨らませたり絞り込んだりしながら、イメージの輪郭を描き出すことができます。
ムンクの「あの絵」に言及したいとき、あの絵では伝わらないから『ムンクの叫び』と言います。いったん「叫び」だと知ってしまえば、頬に両手をあてがい白目をむいて口を縦に大きく開けるあの表情は、叫んでいるとしか見えません。タイトルが絵の実体を語り、恐怖と不安が漂っています。しかし、あの絵はもともと漫画用のイラストが下地だったこと、両手は叫びを増幅させる所作ではなく、もしかすると耳を塞いでいるのかもしれない……などという情報を言語的に知ってしまうと、これまで鑑賞していた名画の表象的意味が一変するでしょう。
かつてブルグマンシア(別名キダチチョウセンアサガオ)と呼ばれていた花は、それがどう呼ばれようが実体は同じです。しかし、ブルグマンシア時代にさほど売れなかった花が「エンゼルトランペット」とリネームされて売れ出したと知り合いの花屋さんは言っていました。ことばが、表現が実体を変えたわけではありません。実体の表象が、その意味と価値を変容させたのです。再びメルロ=ポンティを引くなら、「ことばはひとつの完結した事象を鏡のように映し出すものではない」のです。