何かを分かるための手っ取り早い方法、それは「分ける」ことです。「分ける」と「分かる」はおそらく同じ由来だったのでしょう。大きくて掴みどころがない対象を分かるためには、要素に分けたり属性を抽出したりするものです。たとえば「木とは何か」と考えるとき、まず木を構成している要素を列挙します。根、幹、枝、葉、花や実……という具合に。物事のわかりやすさには分けるという作業が伴います。ここに「概念カテゴリー」という考え方が生まれます。
一年は12ヵ月に分節されています。1月から12月までのカテゴリーがあるわけです。古くからわが国ではさらに二十四節気に分けていて、今も季節の移ろいを語る際には立春だの穀雨だの冬至だのと使います。ネコもイヌも大きな概念でくくればどちらもネコ目。しかし、次位の概念カテゴリーではネコ科とイヌ科に分岐します。ふだんぼくたちは両者を分別していて、イヌをペットにしている人が「ネコ目の動物を飼っている」とは言いません。ちなみに、ハイエナもネコ目。どちらかと言うと犬顔なのでイヌ科かと思いきや、独自のハイエナ科を形成しています。
「英会話力」(A)に必要な要素として、たとえば藤原晃司は、「イディオムの知識、単語量、挨拶ができる、音を聞き分ける力、正しいアクセントの把握、口語表現力、英作文力、正しく発音できる、英文構造認識力」(B)を挙げています(『「わかりやすい表現」の技術』)。Aの要素がBの諸々であるならば、Bを学習すればAが手に入るということになります。実際にそうなるかどうかは不明です。要素が過不足ないと証明するすべはなく、あくまでも概念上の想定にすぎないからです。なお、「Bの9要素を内包したものがAの英会話力」であることを即座に理解しにくい場合は、外延と内包の中間にわかりやすい概念カテゴリーを置くことがあります。一つの試案を示すと、B1{イディオムの知識、単語量}、B2{挨拶ができる、口語表現力、英作文力、正しく発音できる}、B3{音を聞き分ける力、正しいアクセントの把握、英文構造認識力}というようなくくりです。B1は語彙力、B2は発話力、B3は理解力と言えるでしょう。
似た概念を大きな概念カテゴリーにまとめる一方で、一つ一つの概念に独自の属性を見つけるということがあります。動植物や事物が他の何かから区別されるのは、属性が同じではないからです。キリンの属性は他の哺乳類の属性と異なり、東京の属性は他都市の属性と異なっています。属性はいくらでも挙げるというわけにはいかないでしょうが、少なくとも三つ四つの属性を比較すれば違いが見えてきます。飲み物と言ってしまえば茶もコーヒーも同じカテゴリーになりますが、属性差異にこだわって両者の関係を対比させると、際立った属性が浮き彫りになってきます。
『新明解国語辞典』で飲み物を調べてみたら、「嗜好品として飲む液体」と書かれています。さらに具体的な飲み物をチェックしたところ、ワインは「ぶどう酒」、コーヒーは「コーヒーの木の種を煎って粉にしたもの。また、それを、熱湯を通して濾すなどした飲料。特有の香気と苦味がある」、ココアは「カカオの種を煎った、独特の香りと苦みのある粉(……)」、茶は「嗜好品の一つ。茶の木の若葉から作った飲み物」とありました。これらの語釈から違いを感じ取るのはさほど容易ではありません。コーヒーの「特有の香気と苦味」とココアの「独特の香りと苦み」はほとんど同じことを言っていて、文章上は同じ概念カテゴリーでいいのではないかと思ってしまいます。両者を対比させてみれば、表現の差異が際立っていないことがわかります。
岡倉天心の属性を見極めて概念化する感覚の前では辞書の定義はかすんでしまいそうです。明治時代、岡倉天心はワインとコーヒーとココアのコンセプトを煮詰め、茶の概念との差異化を次のように試みました(『茶の本』)。
ワイン:奢りたかぶり
コーヒー:過剰な自意識
ココア:作り笑いした無邪気さ
茶:想像力を掻き立てる繊細さ
もちろん異論はあるでしょう。飲み物自体の特徴には触れずに、五感を通じての概念的な解釈なのですから。しかし、「最もそれらしい属性」に着目して、同一カテゴリー内の他のものとの関係性を踏まえた上で概念を言語にするのは個別的な試みであり、個別ゆえに、ある人たちにとっては強引に見えることがあります。ともあれ、たった一つの正しい概念カテゴリーがあるはずもなく、また、たった一つの正しい属性表現があるはずもないのです。
《続く》