比喩と言えば隠喩や直喩を思い出すが、言論的には〈類比〉が代表格である。類比や類推はことばの表意性に関わるが、元を辿れば数学の比例や比率のことだった。〈A:B=C:D〉はその最たるもの。この公式では「A×D=B×C」が成立する(たとえば、1:5=3:15)。
数字を概念に置き換えてみると、「弘法大師:筆の誤り=サル:木から落ちる」という類比が出来上がる。「木登り得意のサルだってたまには木から落ちるんだ。書の達人である弘法大師も稀には書き間違いをするだろう」と具合である。「発展途上国にやみくもに経済支援をするのは、がん患者にモルヒネを投与し続けるようなものだ」は、「発展途上国:経済支援=がん患者:モルヒネ」で表わすことができ、そのこころは「当面の痛みを抑えることができても、抜本的治癒になるとはかぎらない」ということになる。
類比は、決まれば説得効果抜群である。しかし、どんな比喩にも少なからず強引さがあり反駁リスクを伴う。上記の例で言えば、「空海とサルを、経済と命を、一緒くたにするのか!?」と皮肉を込めて反発されるかもしれない。二つの概念の類比はあくまでも類比であって、まったくイコールではない。推論法則がそのまま当てはまるとはかぎらないのである。推論の境界線を大胆に乗り越えて果敢に類比に挑む際には、限界と盲点も心得ておくべきだ。
かつてのブッシュ前大統領のことばを思い出す。「すべての国家はテロ側につくか平和への道を歩むかの岐路に立っている」という表現は、「テロ側」と「平和への道」を「悪:善」で対比させたわけだが、何のことはない、「テロ側:アメリカ側」という魂胆が見え隠れしていた。
料理店に二人で入り、一人が「君は何?」と注文したいものを尋ね、もう一人が「ぼくは海鮮丼」と答える。明らかに人間だろうから、「ぼく=海鮮丼」は滑稽であるが、このやりとりに誰も非難を浴びせない。文章から何かを引くと、主述関係がおかしくなるが、置かれている状況や文脈をお互いに踏まえているから意味は通じ合える。言論にはこのような語法上の曖昧さがつきまとう。しかし、これも一つの比喩であって、詭弁や虚偽とは性質を異にする。
雑学系の軽い本に書いてあった話。人の頭髪は平均25万本だそうである。さて、その頭髪を一本ずつ抜いていけば、いつから「ハゲ」と呼べる状態になるのか。あるいは、完全なハゲに一本ずつ毛を埋めていけば、いつからハゲではないと認知されるのか。簡単ではない。ハゲの定義が定まらないかぎり、ジレンマは免れないだろう。
結局、言論は定義の問題も取り扱うことになる。そして、定義とは、他のことばを借りてきて概念を明らかにする作業であるから、比喩の出番も多くなる。髪の毛の本数は25万本から0本のグラデーションを構成する。表現のあやにもグラデーション効果があり、これがユーモアの隠し味になる。
比喩やユーモアは文化的な共通感覚上で作用する。共通感覚の下地がなければ理解に時間を要するし、さっぱり意味が伝わってこない。聞き手が即座に知覚し感応してこその比喩やユーモアである。この感覚の受け皿にはクオリアのように身体と精神が合流する。要するに、ツボに嵌まらなければならない。それまで隠されていたものが、あるいは腑に落ちなかったことが、比喩によって顕わになりユーモアによって謎解きの快感がもたらされる。わからないと不快だが、わかれば気持ちがよくなる。「無知から知への転換の喜び」とアリストテレスも言っている。
ロゴスに依存しないパトス的反論もある。雄弁家デモステネスは慎重な人で、決して即興の演説をしなかったらしい。弁論の内容を練りに練って演壇に上がるのを常とした。この用意周到さを弁論家ビュテアスが辛口に皮肉った。「あなたの議論には灯油の匂いがする。夜遅くまで草稿を練る鈍才だ」。この嫌味に対してデモステネスは瞬時に切り返した。「なるほど、あなたと私とではランプの用途が違うからね。あなたの場合は女と戯れるためだから」。デモステネスのこの即興の切り返しはパトス的反論であり、ロゴスやエトスとは違う効果を出している。
感情に訴えるパトスは意識に影響をもたらす。「意識が対象を変える」と言ったのはヘーゲルだが、同じ対象でも「愛しているか憎んでいるか」によって異なるものに感じる。では、「憎んでいるか怒っているか」という意識ではどんなふうに対象は変わるか。憎しみと怒りのパトスは似ているようだが、微妙に異なる。誰かに怒りをぶつけられたら辛いが、やがて辛さは静まり、逆に、怒っている相手を憐れむようになることさえある。他方、憎まれるのは禍や害悪に近いものを感じる。怒りは醒めても憎しみは根深い。時が過ぎても、自分を憎んでいる相手に憐憫の情などまったく湧いてこない。パトスは感情、意識、そして言論のニュアンスをつかさどることがわかるだろう。
《全9回 完》