言論について (6) 対話と知的鍛錬

対話

アリストテレスが〈ディアロゴス(dia-logos)〉と呼んだ対話術は、どんな事柄についても、共通感覚を前提として問答的言論ができる技術であった。相手の主張を論駁するとともに、自分の主張を防御する方法でもある。アリストテレスは、対話の有用性の第一に知的鍛錬を挙げた。これに対して、プラトンの問答術は真理を探究する手段であった。そして、技術と言うよりはむしろ、経験と慣れなどの場数が重要であるとされた。

対話と密接に関わる概念に二項対立があり、弁証法がある。弁証法の論理は、一つの〈テーゼ(定立)〉に対して〈アンチテーゼ(反定立)〉を唱える。アンチテーゼは論理上いくつでも立てることができるが、わかりやすさのために一つのアンチテーゼを見立てると、AというテーゼとBというアンチテーゼが二項対立するような関係が立ち上がる。対立関係のABを綜合すればジンテーゼCが生まれる。次にCが新たなテーゼとなり、これに新たなアンチテーゼDが立てられ、CDが綜合されてEに……という具合に止揚アウフヘーベンが繰り返され真理に近づいていく、というわけである。相容れないはずのABCのもとで、CDEのもとで、それぞれ矛盾を解消する(ということになっている)。

ところが、真理自体を懐疑している者にとっては、こんな面倒なやり方はない。また、真理探究が必要だとしても、綜合だか折衷だか知らないが、わざわざジンテーゼに仕立て上げることもないと考える者もいる。テーゼとアンチテーゼを対立させたまま優劣を判断すればいいというわけだ。肯定側と否定側で妥協なき討論をおこなう教育ディベートはここまでしか想定していないし、裁判も二項対立で決着をつける。長期的な視点でアイデアの創造や融合を目指すならジンテーゼは必要だが、ディベートではそこまで目指さない。キリがないからでもあるが、討論の技術はその時々の命題の是非を論じることに限定される。但し、実社会の対話の場面でいったん決めた立場に終始こだわり続けていては対話すること自体の意味が失われてしまう。


ぼくたちは他人と対話もするけれども、自分とも対話している。対話には必ず〈一問一答〉の形が現れる。これが通常弁論と呼ばれる演説と異なる点だ。自論は他者またはもう一人の自分によって検証される。検証されるなどと言うと、反論されるというイメージがあるが、実は自論が修正・強化されるプロセスにほかならない。問答を経ることによって、知ったかぶりやわかったつもりは容易に暴露される。スピーチなら反論をくぐり抜けることができても、対話では問答をごまかすことはできない。もっとも、ありがたいことに相手が強敵だからそうなるわけで、弱い論敵ばかりを相手にしていると弱点検証されることもないからまったく知的鍛錬にはならない。打たれてこそ対話に値打ちがある。

サルトルに「ことばとは装填されたピストルだ」という言がある。銃弾が物騒ならとげと言い換えてもいい。対話であれ論争であれ、ことばで意見を交わすかぎり棘を刺し棘を刺されるのは免れない。そして、人というのは棘に弱いものである。承認されるよりも批判されるほうが絶対に本人のためになることが自明であっても、批判には耐えられず棘ある一言のことばで表情を曇らせる。しかし、どんなに毒気のある批判も、黙殺やノーコメントの残酷さにはかなわない。沈黙は論争よりも非情な仕打ちなのである。棘や毒があってもことばと対話に望みを託そう。それ以外に知を鍛錬する方法はなかなか見当たらないのだから。

喉元まで言いたいことがこみ上げても、相手の理不尽な詰問や言い分にきちんと応答できなければ、検証もできず意見も持たぬ者として烙印を押される。悔しい思いは恨みとなり、恨みは少々の時間経過では消えないから、同じ場面が再現されると、今度は感情的に爆発するしかない。切羽詰まった激情の言論に相手や周囲が嘲笑する。対話音痴だから、タイミングも外れ言動の振る舞いもうまくいかない。アリストテレスはこのもどかしさを「人間にとって本来的である言論で身を守れないのは、手足で身体を守れない以上に恥ずべきことだ」と言った。

ディベートは対話の一形式である。一つの命題を巡って主張する側と検証する側の立場があらかじめ明確にされている。焦点は命題が成り立つかどうかだ。しかし、現実の対話ではこの固定した立場をどこかで超越して、弁証努力に向かわねばならない。対話者それぞれが持論に基づく独断的な見解を述べるだけでは不十分なのだ。命題に潜む知識やことばを共有しなければならず、また、個人的偏見をも脱しなければならないだろう。つまり、ディベート形式で学んだ平行線の対立の構図を柔軟に変形させる必要がある。〈ディアロゴス〉とは「事柄の真理や真相を分かち合う」という意味だ。真理や真相が明らかになる保障はないが、互いの見解を共通感覚のまな板の上で分かち合わねば、小異に拘るあまり大同に就くことは難しい。

言論について (5) 共通感覚と説得

ロゴスによる説得を試みる際の通念的な拠り所がある。「善>悪」はその最たるもので、他にも「利益>損失」「正>不正」「徳>悪徳」「美>醜」などがある。こうした「大なり不等式」では、左辺が右辺よりも「良きもの」と見なされる。ある事柄が良いか悪いかを価値判断するのはロゴスの役割である。ロゴス的判断は真理に関わることが多い。すなわち、事柄が真か偽かという二律背反で考える。二項だけで語ることになるから摩擦が強くなるのは当然で、軋轢が生じるのも稀ではない。ロゴスに働けば角が立つのである。

行為自体または行為がもたらすものに「好ましいもの」があれば「それは善である」と考える。その反対に、「うとましいもの」があれば「それは悪である」とする。「善か悪か」という考え方は窮屈である。善と悪の中間を認めない。たとえば、チョコレートもバレンタインデーも好ましくもあり疎ましくもある。長短がある。それでも、真理探究は妥協を許さないからどちらかに決めなければならない。

ヴィーコなどは真理そのものに異議を唱えた。感情を含む問題は真理や理性だけで推論しえないと言うのだ。そして、「真理よりも〈真理らしきもの〉のほうが大事である」と唱えた。頭で分からせるならロゴスによる説得でいいかもしれないが、納得して行動変容まで到らせるには心を動かさねばならない。それが「共通感覚に訴える」ということになる。

共通感覚

ふだんよく使う常識ということば。英語では〈コモンセンス(common sense)〉。このコモンセンスの起源を遡ると、やっぱりアリストテレスに辿り着く。当時の術語で「センススコムニス」と呼ばれたもの、それが共通感覚である。共通感覚とは人間の基本的な感受性であり、他者や世界とともに在ることができる生活世界のパスポートのようなものだ。

共通感覚には人間としての五感――触覚、視覚、味覚、聴覚、嗅覚――ICチップのように組み込まれている。

「共通感覚とは実際的な理解力であり、物事を正当な光のなかで見る人々の能力であり、そして健全な判断力である」
(中村雄二郎)


言論は、「人間のすべての意図的な行為は〈良きもの〉を目指す」という前提でおこなわれる。仮にある行為に首を傾げたとしても、その行為がさらに上位の利益や善につながるのであれば説得可能になる。たとえば建築工事。「それは家を建てるためである。家は雨風をしのぐためであり、雨風をしのげば家族にささやかな幸せがもたらされる」という具合に敷衍すれば、良きものを目指す行為だと共感してもらえそうだ。大向こうを唸らせる話でも論法でもないが、一応常識のスパイスが効く。

このように、目的が常識に見合えば異論を差し挟む余地がないように見える。しかし、話はそれほど単純ではない。「行為の目的」だけが議論や説得の対象ではなく、「目的を達成する手段」の善悪や利害への目配りも必要になるからだ。すなわち、不快騒音を伴う建築工事という手段の是非を論議しなければならない。

「正・不正」に関して言うと、正しい行為なら何でもいいというわけにはいかない。アメリカにとってベトナム戦争もイラク介入も正義であった。しかし、目的も手段も共通感覚にアピールしたとは言いづらい。アリストテレスの正義などは比較にならぬほど崇高で、「徳全体が他人に対して働いていること」を規定した。三つの正義が明快に示されている。

1.それぞれの人の価値や能力に応じて配分が成されること(配分的正義)
2.人と人の間に生じる利害得失の不平等を矯正すること(矯正的正義)
3.人と人の間で交換するものは互いに等価であること(交換的正義)

二千数百年前に格差社会の現代を予見して危惧したかのようだ。ちなみに、これらに反する不正行為の原因は、古来変わらず、悪徳と無抑制であることがほとんどである。不正行為が後を絶たないのはなぜか。「発覚しないだろう→仮に発覚しても罰を受けないだろう→仮に罰を受けても、その罰に比べれば得られる利益のほうが大きいだろう」という心理連鎖が起こるからだとアリストテレスは指摘した。

すでに明らかなように、共通感覚は人間に共通の常識と判断力で物事の本質を捉えていく。目先や利己にではなく、普遍や他者に目が向いている。『共通感覚論』での中村雄二郎の次の説明がわかりやすい。

「共通感覚とは、その反省において他のすべての人々のことを〈先験的に〉顧慮する能力なのである。このようなことができるためには、(……)自分自身を他者の立場に置くことが必要である」

共通感覚は人間関係をつかさどっている。人間に世界への通路を用意してくれている。生活場面や仕事で物事の細部のすべてが分からなくても、全体が把握できたり問題が打開できたりするのは、おそらく五感を拠り所とした賢慮良識が働くからだろう。他者や社会を顧慮し、生きることの意味を問いつつ判断し言論する……こうした共通感覚的おこないは本性的である。にもかかわらず、粗末に扱われ軽視されるのは、自分を中心とした利害や数値化された価値のほうがよく理解できるからだろう。

言論について (4) 弁論術と論証

演説とは英語にて「スピイチ」と言い、大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思うところを人に伝うるの法なり。我国には古よりその法あるを聞かず、(……) 西洋諸国にては演説の法最も盛んにして、(……)僅かに十数名の人を会することあれば、必ずその会につき、或いは会したる趣意を述べ、或いは人々平生の持論を吐き、或いは即席の思付おもいつきを説きて、衆客に披露するの風なり。

福沢諭吉『学問のすゝめ』十二編、演説の法を勧むるの説の冒頭である。考えることを他人に伝えるのが演説であり、演説にはルーチンがあると教えている。わが国には存在せず、西洋では常識の弁論術はさぞかし当時は新鮮だったに違いない。これ以来、日本では弁論とはスピーチのこととなった。今もそう捉えられている。正しくは、討論や対話も弁論である。

プラトンとアリストテレス
プラトンとアリストテレス

プラトンは「正しいことを思いなしているのに、それを説明できないのはほんとうに知っていることにならない」と『饗宴』の中で語っている。説明とは説得であり証明である。分かっていることなのに、聴衆にアピールできないほどもどかしいことはない。弁論の最終目的は「自分が分かる」ことではなく、「聴衆が分かる」ことである。聴衆が話を聞いて賛成か反対かを決める。聴衆はどのように弁論者によって説得されるのか。プラトンの弟子アリストテレスは言う、「説得は一種の証明である。人は何かが証明されたと感じるとき、よく説得される」(『弁論術』)。そして、三種類の説得立証を明らかにした。

1.事柄のロゴス、つまり論理的説明に対する納得
2.語り手のエトス、つまり品性・人柄を通じての信用
3.聴衆のパトス、つまり感情を通じての共感と同意

説得立証のうち、下記の例のような、前提から結論を導くものを説得推論と呼ぶ。

前提1(論拠) 「デパートでバーゲンすれば女性客が増える」(真偽不明)
前提2(証拠) 「今日は女性客がいつもと同じ入りである」(一応真としておく)
結論       「ゆえに、今日はバーゲンを実施していない」(真偽不明)

前提があやふやで、結論の蓋然性も定まらないが、この推論は〈PならばQ、だがQではない。ゆえにPではない〉という妥当な推論形式に従っている。変な言い方になるが、真偽のほどは明らかになっていないけれども、この推論は論理的である。そして、論理的であるということは、説得にあたっての基本条件を一つクリアしていることになる。


推論は、一つまたは複数の前提から結論を導き出す。妥当な形式の推論をおこなえば、前提が真ならば必ず結論も真になる。たとえば、「ホッチキスは文房具である(真)。文房具は事務用品である(真)。ゆえにホッチキスは事務用品である(真)」という具合。真である前提からは真である結論が導かれる。こんなことはくどくどと推論しなくても分かる。にもかかわらず、論理的であるためには、わかりきった事実をしつこく積み重ねていかねばならない。無意味な回りくどさや無駄口は避けるべきだが、推論作業で手を抜くことはできない。

〈帰納〉という推理がある。帰納は複数の個別命題から一つの普遍命題を導く。「太郎はよく遅刻する」「太郎は時間にルーズである」「太郎は忘れ物をする」という三つの前提から「太郎は信頼性に乏しい」という一つに括った結論を導くようなケース。ところが、個別命題が三つとも真であっても結論の妥当性は確定しない。個別で小さな情報から普遍で大きな概念に仕立て上げるには膨大な情報が必要で、数例によって推論するのは妥当ではない。したがって、この場合、太郎に貼られたラベルが真である保障はない。但し、討論や実社会の意思決定の常として、妥当性の検証や命題への反証を怠ると、偽であるかもしれない普遍命題が成立してしまう。

弁論において論証力を高めようと思えば、具体的で確かな例証と「真実に近いもの」を示す蓋然命題を豊富に携えることである。いわゆる共通感覚に根ざしたものの見方や教養だ。「他人を妬む人は他人を憎むようになる」や「借りたものは返却すべきである」や「子どもは躾けるべきである」などの命題は、安易な反証・反例をシャットアウトし、したがって相手もおおむね認めざるをえない理屈を備えている。否定できないわけではないが、否定すれば聴衆や世論を敵に回しかねない。

最強の共通感覚になりうるのは究極の最高善である。アリストテレスはそれを「幸福」とした。幸福こそ万人に共通の、蹂躪しがたい善である。なぜなら、たいていのことには「なぜ?」と問えるが、「なぜ幸福が重要なのか?」などと異議申し立てるのは不可能だからである。

言論について (3) ロゴスとレトリック

Logos

ラファエロ作『アテナイの学堂』には名立たる賢人らが描かれている。中央のやや左、一番下の階段に腰を下ろして思索するのはヘラクレイトス。人物モデルはミケランジェロと言われている。ヘラクレイトスは古代ギリシアの哲学者で、万物流転でその名を馳せた。万物流転と言うものの、その万物の中にロゴスは含まれていない。ロゴスだけは変化しないのである。

ロゴスを軽視してはいけない。しかし、決して溺れてもいけない。ロゴスを核として発展してきた西洋哲学も論理学も必ずしも普遍的な知ではなく、ギリシア・ヨーロッパ世界の特殊な知に過ぎない。ロゴス中心主義は西洋の知のドグマだが、ロゴス一辺倒で世界や社会の出来事を論じることはできないだろう。このことをわきまえたうえでロゴスを学ぶのが肝要である。

文明開化、富国強兵、殖産興業などを旗印にして、わが国固有の発想(敢えて「思想」とは言わない)を西洋の特殊な知に総替えしたのが明治時代だ。以来一世紀半、日本人はロゴス的な知にどっぷり浸かってきたかのように見える。しかし、ロゴスは物質的な変革には大いに力を貸したが、精神の骨の髄にまでは浸透しなかった。

日本の文化の争うべからざる傾向は、抽象的・体系的・理性的な言葉の秩序を建設することよりも、具体的・非体系的・感情的な人生の特殊な場面に即して、言葉を用いることにあったようである。

加藤周一が『日本文学史序説』で書いたこの文章は、日本人がロゴスに大きく依存しなかったことを物語っている。今日に到ってもなお、この指摘は的外れではない。一見ロゴスに見える花も、鉢植えの中では「ものづくり、移ろい、こころ」というような土壌に根ざしている。

さほど中身のない話でも、話し手の知名度が高ければ、条件反射的にありがたがるような傾向が今もある。「私の知人が癌で亡くなり……」と講師が絶句したら会場のあちこちですすり泣きが起こる。メッセージを聞くのではなく、空気にほだされている。「何事のおはしますかはしらねどもかたじけなさに涙こぼるる」という西行法師の心情に通じる。ロゴスの尺度からすれば、何のことか分からないことに涙は流さない。正しく判断もせず、また批判も加えずに納得する習性は、仮面のロゴスの下の素顔のペルソナなのである。


ロゴスを顕在させる技術がレトリックであり、これも功罪併せ持つ。和歌に代表される日本文学は比喩、枕詞、擬人法などの修辞が豊かである。これらは「ことばの綾」の技術なので、技巧や飾り立てが過ぎると「巧言令色」のそしりを受けかねない。耳に響きのよい美辞麗句を並べるのがレトリックだと勘違いしてはいけない。本来レトリックは説得立証と言論配列を取り扱うものだ。説得立証とは証拠と論拠を立てる方法であり、言論配列とは序言・陳述・証明・蓋然性・概括など弁論の組み立て方のこと、つまり、説得のための表現技術である。しかし、説得は賢慮良識によって自制しなければならない。なぜなら、説得が常識を外れて度を越すと黒を白と言いくるめる詭弁術に化けるからだ。

裁判が広くおこなわれた古代ギリシアでは、利権や自由を守りたいという民衆のニーズがあった。裁判で勝訴するには裁判官や聴衆を説得しなければならない。そこで、プロの弁論家の出番となる。弁論家の中には詭弁を弄するソフィストに転じる者も少なくなかった。時を下って、モンテーニュはレトリックの専門家たちを「口先一つで(……)われわれの判断力をたぶらかし、物事の本質まで変容させるのが彼らの仕事だ」と批判した。ことばが真摯な説得力を持つか詭弁まみれの空言に堕してしまうかは紙一重なのである。

レトリックは表現のファッションになりかねないし、勝ち負けに拘泥すると牽強付会にもつながりかねない。繰り返しになるが、レトリックは聞こえのよいテクニックではなく、説得のための総合的表現技術なのである。ロゴス成分100パーセントでは知に働き過ぎて角が立つ。感性や想像力や倫理観もほどよく配分しなければならない。これを〈レトリックの知〉と呼ぶことにする。

1.与えられた命題をあらゆる側面から考察できる。
2.その命題をその場でただちに論じ答えることができる。
3.命題にふさわしい論点を適切に選び出し組合せて説得力を高めることができる。

イタリアの哲学者ヴィーコは以上の点を指摘した。共通感覚を背景にしたレトリックの知の理想の働きをよく表わしている。教育ディベートの基本的な目的であると言ってもいい。1.の「あらゆる側面」を簡素化すれば、二つの相反する見方、すなわち命題の肯定側と否定側になる。2.は即興性、即時性。豊かな教養と知見を前提にしてこその能力である。そして、3.は先に述べた説得立証と言論配列にほかならない。

言論について (2) 論理的説得

アリストテレス(紀元前384-322年)が万学の祖という点に異論はないだろう。哲学・倫理学・政治学・自然学においてはもちろんのこと、論理学においても偉業は燦然と輝く。論理学は弁論術と並んで言論の核を成すが、2,200年もの間、アリストテレスの論理学――厳密には「伝統論理学」――は西洋の学問体系の拠り所になっていた。伝統論理学への代案を提起したのはフレーゲ(18481925年)だ。フレーゲは命題論理と述語論理による画期的な記号論理学の基礎を切り開いた。とは言え、アリストテレスの『弁論術』から大いに学んだぼくとしては、伝統論理学の何もかもが色褪せたとは思わない。

『論理学入門』より

論理や弁論の専門家でないかぎり、とことん言論技術を究める必要はない。そんな一般の人たちにとっては、演繹推理や帰納推理などによって論理学をかいつまむだけで必要十分だと思われる。なにしろフレーゲ以降の論理学はなじみにくい。記号論理学や数理論理学は推論の構造をすべて数式化するからだ。十九歳の時に初めて読んだ入門書には閉口した。こういう論理学は必要としていないので、覚えてもすぐに忘れる。ちなみに、記号論理学では文章は次のように記述される。

p⊃q, q⊃r ∴p⊃r
「pがqを含み、qがrを含む。ゆえにpはrを含む」(純粋仮言三段論法)
p∨q, ¬p ∴q
「pまたはqである。しかし、pではない。ゆえにqである」 (選言三段論法)

は「含む」、は「ゆえに」、は「または」、は「かつ」、は「否定」を意味する。「ハンバーグを食べAコーラを注文するB)か、あるいはハンバーグを食べずにポテトを注文するC)」という文章は、(A∧B)∨(¬A∧C)と記述することができる。

あるテーマについて明瞭に意見を述べ、その意見を論証して他人を説得できればすぐれた言論と見なせる。こう言えば簡単だが、テーマに関する知識を備えることはもちろん、意見の表現方法や筋道の立て方に習熟しなければならない。こういう技術は経験量に比例するから訓練を積まねばならない。言論の技術が未熟だと論理的説得は望めないのである。


教育者が教育について、経営者が経営について、建築家が建築についてそれぞれ語るとする。同業者や一般人は知見や業績や人柄や作品に共感し納得してくれることが多い。だからと言って、言論不要と言い切ることはできない。自分の意見を論理的に説得する場面では言論に頼らざるをえない。さらに言うと、専門家は、専門外のテーマについて尋ねられる場面で、いつもノーコメントを決め込むわけにはいかない。自分が専門としない事柄について論じる際には、知識が足りない分を言論の技術で補わねばならないのである。

「言論の技術は、どんな場合でも有効な説得の手段を見つける能力」とアリストテレスは言った。「どんな場合でも」なのだから、専門テーマやそれ以外の一般的なテーマを指す。ぼくが建築理論や構造設計について建築家を説得することはむずかしい。専門知識の量と深さでは太刀打ちできないからだ。しかし、一般論として住居と暮らし方については経験的に語れるだろう。また、住まいが人間にとってどのような意味を持っているかという価値の問題になれば、専門家と議論さえ交わせるはずだ。人間や価値の領域であるならば、どんなに専門性の強い命題でも論じることができる――言語の技術はこのような能力にほかならない。

世界がそうであるように、組織も学際化・業際化が進む。様々な専門と文化を背景にしていろいろな仕事人が集まる。そこでは「それは専門外」だと言って逃げるわけにはいかない。専門的知識があろうがなかろうが、何らかの価値判断をして同僚を、組織の外の人たちを説得して信用を得なければならない。知識だけでは専門家を名乗れない時代になったのである。一般人がテロや少子高齢化について語っているのに、専門家がそういうテーマに対して門外漢だと言って口をつぐんでいいはずがない。

会議と葬儀の寡黙度が似たり寄ったりの日本社会。言論の自由や民主主義が都合よく引き出される割には、言論の実践になまくらで、拙劣な表現やお粗末な論法でその場をしのいでいる。言論は行き詰まった問題解決に新風を吹き込む。異種意見間での弁論にはエスプリとレトリックの更新が欠かせない。つまり、つねに言論努力が求められる。「説得するな、納得させよ」と悟ったようなことを言うのは、言論の限界を見極めるほど十分に鍛錬してからの話である。

言論について (1) プロローグ

『言論の手法』と題してテキストを書き、それを元に塾生に講話したことがある。七年ぶりに読み返す機会があり、また別の人たちからいくつか質問が寄せられたりしたので、その後の考察も踏まえて加筆することにした。9回のシリーズになると思う。


「言論」の話であって「思考」の話ではない。しかし、両者の違いは微妙だ。重なり合う要素が少なくなく、これが言論、あれが思考というふうに線引きしづらい。ただ、言論は思考につながっていることは間違いない。極論を恐れずに、とりあえず〈言論⊇思考〉と捉えておく。なぜなら、思考できているかどうかは言論によってはじめて確認できるからである。たとえば、計画を練ったり企画を立てたりしているとする。話しことばも文字の手掛かりもない沈思黙考という状況にある時、ぼくたちは「いま考えている」と実感し確信することはできない。頭の中をよぎるアイデアや構想や概念は曖昧で漠然としており、鮮明に言語化されることは珍しい。

もっとも、ことばが不在であるとしても、イメージらしきものが浮かんでは消えるので、思考がまったくの停止状態に陥っているとは言えない。しかし、その状態は澄み切った晴天からはほど遠く、どんよりとした曇り空のように朦朧としている。そこで、イメージを手掛かりにして「考えているつもりのこと」を誰かに話してみる。あるいは、手元にあるノートにそれを書いてみる。するとどうだろう、晴れ間が少しずつ広がり光が射し込んできて、イメージがことばに変わってくる。その時はじめて、「あ、こういうことを考えていたのか」と確認できる。ここで言論が立ち上がる。言論という回路を通じて、漠然とした思いが明快に顕在化し意識できるようになるのである。

コミュニケーション

古来、言論は〈命題〉を想定してきた。命題という用語が取っ付きにくいならテーマと言い換えてもいい。ある種の意見や結論をあらかじめ内蔵したテーマ、それが命題。〈弁論レートリケー〉であれ〈弁証・対話ディアレクティケー〉であれ、命題をめぐる言論は聴衆や他者に向けておこなわれる。つまり、コミュニケーション行動だ。したがって、言論の技術は、説得、ひいては説得の要素である立証、論拠、推論、比喩を磨くことを目指す。アリストテレスが「弁論の成功要因を探り方法化すれば『技術』とすることができる」と語った通りである。


言論とは〈ロゴス〉、すなわち理性的なものである。しかし、ロゴスは人柄や品性とされる〈エトス〉と連動するし、感性や情緒である〈パトス〉と相反するものではない。それどころか、ロゴスとエトスとパトスは3セットとして機能する。『弁論術』の中でアリストテレスが「エトスとパトスによる説得推論」についてかなり熱心に考察したのもうなずける。

アリストテレスに限った話ではない。古代ギリシアの時代から「人間はロゴスを持つ動物である」と言われてきた。不可思議極まる宇宙万有の一切がなぜ存在し、狂うことなく機能しているのか――こう問い掛ける時、宇宙の原理を支配する根源に〈ことわり〉としてロゴスを置かざるをえなかった。ロゴスを一つの日本語表現で現わすことはできない。この一語にはいくつものニュアンスが折り畳まれており、また様々な意味にも展開されている。たとえば、理性、言語、定義、弁論、討論、叙述、物語、理論、推理、計算、道理、論理、理由、比例、割合……という具合に。

ロゴスを狂信するのも困ったものだが、「ロゴス嫌い」の思考未熟も同じく他人迷惑である。少し話が難しくなって筋道を見失いそうになると思考エンジンが止まる。ロゴス嫌い――あるいは反知性派――は理屈や議論を望まない。ぼくのように「言わぬが損」という言論尊重派は、言論によって彼らを説得しようと試みるが、その言論行為がまず受け付けられない。懇切丁寧に言を尽くしても聞く耳を持たず、ことばそのものが否定されたりもする。饒舌な口達者にしか見えないのだろう。口達者は褒めことばではない。ロゴス嫌い・反知性はわが国でも顕著になりつつあるが、帝政時代のローマでも「口は禍のもとだから沈黙がいい」などと勧められていた。プルタルコスの『英雄伝』にもそんなくだりがある。プルタルコス自身、膨大な文章を書いたのにもかかわらず。

孔子も「巧言令色鮮し仁こうげんれいしょくすくなしじん」や「巧言は徳を乱る」などと唱えた。にもかかわらず、『論語』では、人間の重要な才能の一つとして、徳行、政事、文学と並んで「言語」が挙げられている。当世風に言えば、「人を磨いて仕事に励み教養を身に付けてことばを用いなさい」というところだ。何のことはない、プルタルコスも孔子も、そして、その他大勢の偉人たちも、大いに書いて大いに語ったのである。プルタルコスよりも二百年前に活躍したキケロはローマ時代の弁論家であり政治家であった。彼に次のことばがある。

口の達者な愚かさか、それとも、雄弁でない知恵か? この二者択一で迫られたら、私としては、雄弁でない知恵のほうを選びたい。しかし、いずれも最善ではないのだ。唯一最善のものを求めるとするならば、「教養のある弁論家」にこそ栄冠を授けるべきだろう。

キケロは「弁論家」と言っているが、専門の色を脱色して「言論者」と言い換えてもいい。つまり、「教養ある言論者」を目指すことが、ロゴス狂信でもなくロゴス嫌いでもない理想の姿だと思われる。願わくば、そこにエトスとパトスがほどよく混ざり合うような言論個性を目指したい。

構想について

構想が危うい。その最たる事例が昨年露わになった。新国立競技場の無様で後味の悪い顛末がそれだ。白紙撤回によってわが国の構想力、構想人材の次元の低さが世界に晒された(世界がどれほどの関心を抱いていたかは別にして)。国家プロジェクトにしてこの体たらくである。ましてや事業におけるささやかな取り組みにどれほど構想力が生かされているか、疑問視せざるをえない。

構想は案外出番の多い術語だ。見直してみようと、遠回りは覚悟の上でジャンバッティスタ・ヴィーコ(16681744)を読んでみたことがある。イタリアの哲学者ヴィーコは言う、人間の知性は仮説することにあること……発見し創造する人間の本性的認識能力が構想力(ingenium)であること……それは、遠く隔たったものの間によく似たものを見出す能力であること……云々。

手触り実感もない大きな現実をぼんやりと眺めていても構想たりえない。また、当てもなく未来を洞察しても何かが見えてくるわけでもない。「もし~ならば」という仮言によって何かを見つけよう、何かを生み出そうとする強い意志が不可欠だ。「遠く隔たったものの間によく似たものを見出す能力」とは関連付ける能力、あるいは何らかの関係を発見する能力のことだろう。これとあれは本来違うなどと、融通のきかない分別をしているかぎり、もしかして存在するかもしれない類似に気づく余地はない。


社会の多様な現象はことばによって把捉される。ありきたりのことば遣いで済ましていてはいけない。たとえば少子化というテーマに「子育て」しかなく、地域活性化というテーマには「イベントや誘致」しかなく、サービスの主役には相変わらず「顧客満足」という四字熟語が居座っているようでは、構想が更新されることはない。経済と言えば、発展と成長、そして規模の拡大。それだけが経済でないことはもう十分にわかり切っているはずではないか。前例に縛られているかぎり、構想を練ることばも陳腐なまま錆びつくばかりである。

現象をマクロに見ることを構想と思い込むのは錯覚である。構想はもっと身近な対象を起点とする。ぼくたち一人ひとりは外界の諸要素を嫌と言うほど仕事や生活に内面化してきているはず。しかも、別の誰かと違う方法で。誰もが外界とつながった固有の日常的発想を持ち合わせているのである。その個人的な発想を未来へ、世界へと拡張してこその構想だ。構想したからと言って何もかもうまくいくわけではないが、それ以外に新しい可能性を探る方途は見当たらない。

ドングリはバーチャルな樫の木

〈マクロ〉な樫の木を春先に見て〈ミクロ〉な秋に実るドングリに思いを馳せるのが構想だと信じられてきた。そうではない。枯葉に混じった〈ミクロ〉なドングリの実から数年後の〈マクロ〉な成木を想像することに構想の面目躍如がある。「ドングリの実にはバーチャルな樫の木が宿っている」という言い回しがあるが、小なるもの、日常的なもの、身近なものからの視点が構想の出発点であることを示している。

無理やり押し付けられたり期限に追われたりしながら大きな課題と格闘する日々……手も足も出ないから、やむなく資料を渉猟しウェブに没我する情報収集の日々……誰がやっても結果に大差はない。こんな作業は構想から程遠いのである。次の角を曲がればその向こうに新しい景色が見えるかもしれない……この種に適量の水を注ぎ光を当てれば見たことのない鮮やかな花が咲くかもしれない……こんな希望と予感が張り詰めてこそ構想が動き出す。「小さな現実」を前提してこそ大いなる仮想が意味を持つことを忘れてはならない。

あいまいさを背負いながら

西田幾太郎は「事実には主語も客語もない」と言った。いま、ぼくの右手にコーヒーカップが置いてあって、指はパソコンのキーボードを叩いている……左手には引用した西田の一行が書いてあるページが開いており、そのページはぼくの愛用のシステム手帳に綴じたもの……と、適当に机回りの事実を描写してみたが、ここに書いたありようで事実は存在していない気がする。少なくとも、ここに書かなかった以外の存在の仕方があってもいい。いや、そもそも事実などは存在せず、ぼくが主客関係を決めて見えるものを勝手に解釈しているだけのことかもしれない。

あいまい語辞典

そう考えた上で疑問が生じる。目の前の状況として見える事実があいまいなのか、それとも、事実には節理があるが解釈する側の認識構造があいまいなのか……。文法に則って主客の関係を描こうとするのは事実の明晰化努力ではないのか。いや、人間以外の存在は何もかもがもともと明瞭であって、認識と言語がそれらをあいまいにしか捉えられないのではないのか。机の端で床に落っこちそうになっている辞典を引き寄せる。某所から譲り受けた百冊ほどの中の一冊、『あいまい語辞典』。こんなことを考えたのはこの辞典がきっかけだった。

「あしらう・あいさつ」という見出しがある。はっきりと意味がわかっているつもりだが、あいまい語なのだそうである。あしらうは本来「取り扱う、応対する、受け答えする」だから、良いも悪いもない。ところが、「プラス面を表面に出しながらハラの底ではマイナスに取り扱っている」と著者の芳賀綏は言う。社交上の儀礼を尊重する日本人は、あしらいを定型化し、それがあいさつになっているという見解である。たしかに、誠意のこもっていないあいさつを交わされることがある。メールや葉書の末尾に必ず「感謝」と書く人がいるが、もはや常套句であってみれば、受け取るこちらも感謝されているという実感に乏しい。


定型化されたあいさつはメッセージ性に乏しく、意味はすでに形骸化している。言い過ぎなら、あいまいと言い換えよう。朝のあいさつは丁寧なご機嫌伺いの「おはようございます」。昼は「こんにちは」、夜は「こんばんは」に限られ、おはようございますに比べると味わいに欠ける。「おはよう」には格上のニュアンスがあって使いづらい時がある。かつてコメディアンのトニー谷は「おこんばんは」とあいさつしたが、単純なギャグではなくて、「こんばんは」では芸風上ぶっきらぼうだったのではないか。

なお、英語では、good morninggood afternoongood eveninggood nightとそれぞれ朝、昼、夕、夜に対応し、いずれにも「良き」という共通の修飾語が付いている。概念レベルも一致している。フランス語も同様で、朝のjourに、夕方のsoireに、夜のnuitのそれぞれに良きという意味のbonが付き、イタリア語もbuongiornobuona serabuona notteとほぼ同じ用法。ぼくの知る欧米語はどれも「良き何々」とあいさつしている。日本語は良き朝ではなく、早い朝と告げる。こんにちはもこんばんはも単に時間帯を示すだけだ。

どの時間帯にどのあいさつをするかに関する厳密な決まりはない。正午になった瞬間、おはようございますをこんにちはに変えるものでもないだろう。意味もあいまいなら使い方もあいまい。あいまいではあるが、あいさつを交わさなければ不自然な場面が出てくるし、将来の関係に陰りがさす場合もある。あいさつを交わすことから逃れるのはむずかしい。あいさつだけに限らない。日常会話に始まり、会議、文学、広告、報道、さらにはアイコンに到るまで、表現はつねにあいまいさを内蔵している。言を尽くしても意味が明快になるわけではない。ことばの量とわかりやすさは比例しない。「すべて物の色、形、また事の心を言い諭すに、いかに詳しく言ひても、なほ定かにさとりがたきこと、常にあるわざなり」と本居宣長が説いた通りである。

ふつうに考えれば、ことばや記号に意味を乗せるのはコミュニケーション(意味を分かち合うこと)を目論むからである。どんなメディアでもどんなジャンルでも、メッセージの意味を理解できることがあり、たとえそれが表現者の意図通りではないにしても、わかったつもりにはなれるのは、コミュニケーション機能があるからだ。しかし、あいまいさを乗り越えられる場合とそうでない場合がある。ある特定の人々にはコミュニケーションとなり、その他の人々にはディスコミュニケーション(意味が分かち合えないこと)になる。わかる人にはわかり、わからない人にはわからない。まるで暗号や隠語みたいだ。あいまいだからと言って、明瞭なことば遣いを心掛けることがまずいわけではない。ただ、あいまいさを背負っているという自覚は必要である。

ALLとSOME

一昨日、関東へ赴いた。心の赴くままではなく、半日セミナーで小難しい話をするため。論理とディベートの話だが、論理のほうに軸足を置いた構成にした。この論理というテーマ、二十代に出合った頃は難攻不落だった。三十代になって難しさが小難しさに変わり、薄っすらと明かりが見え始めた。そして、四十代になって輪郭がだいぶはっきりしてきた。『論理的思考』と題して数時間以上話せるようにもなった。

とは言え、この十数年で論理についての考え方は大きく変わった。まず、頭の中の論理的思考など見えるはずがないと懐疑した。便利なことばなので、英語の“logical thinking”ロジカルシンキングも当り前のように使われるようになった。しかし、Aさんの思考自体が論理的であるかどうかは本人にも他の誰にも確かめようがない。Aさんが書いたり語ったりしてはじめて、筋道が通っているかどうかが分かる。論理はことばに宿る……コミュニケーションの論理は思考の論理に先立つ……こんなふうに考えるようになった。論理は他人によく理解してもらうために欠かせない。論理はことばを明快にする上でたいせつであり、その結果として、自分の考えの整理に役立ってくる。

文と文がスムーズにつながっていれば話は明快になる。つながりの役割を果たすのが接続詞だ。論理学では、前の文を前提、次の文を結論などと呼ぶが、その二文を「ゆえに」や「だから」などの順接接続詞で結ぶ。留保したり否定するときは、「しかし」や「だが」などの逆接接続詞を使う。接続詞は二つの文の関係性を明らかにする。さらに、一文だけを見ても、単語と単語の関係や連句・連語という形で論理が機能する。ここに、肯定や否定、選言や連言が加わる。数ある説明のうち、大森荘蔵の『流れとよどみ――哲学断章』の説明が分かりやすい。

「……でない」という否定詞、「……かまたは……」という選言詞、「……でありまた……」という連言詞、「……はみんな」という総括の言葉、それに「何々は……である」の「である」、この五つの語がどのように使われるかを規則の形で書きあげたのが「論理学」なのである。

ALL or SOME

書きたいことは山ほどあるが、話を「……はみんな」という総括に絞る。「みんな(すべて、あらゆる)」と「いくつか(一部、あるもの)」を対比させるほうが話が明快になると思うので、手っ取り早く“ALL”“SOME”で表わしておく。


口癖のように「日本人はみんな」と主張し、「ありとあらゆる要素」と豪語し、「こちらの商品、皆さんお買いになっています」と一般化する。一部の人間の集まりに決まっているのに「みんなの党」が存在したし、「なぜわたしだけ? みんなやってるやんか!?」という大阪ローカルの公共コマーシャルがあった。ALLを含む文や語は威勢がいい割には、実質ALLとはほど遠い。科学の帰納的方法を尽くせばALLに言及できるかもしれない。たとえば万有引力の法則のように。しかし、凡才にはALLは手に負えそうにない。謙虚にSOMEに限定して語っておくのが分相応だと思われる。なお、「ほとんどの場合」というのは、SOMEであってALLではない。念のため。

ALL命題に全幅の信頼を寄せると虚偽の一般化という落とし穴にはまりかねない。「百人中百人すべて」を100/100と表わすとしよう。「全員が男」を証明するなら、帰納的に一人ずつ調べていけばいい。この分母と分子サンプルは少なければ少ないほど検証は簡単だ。中小企業が「当社の社員十人はみんな営業上手である」と、10/10の証明をするのはさほど難しくない。しかし、一億人分の一億人(100,000,000/100,000,000)になると、すべての要素の証明はもはや不可能。数字が大きすぎるとコミカルにさえ見えてくる。したがって、「一億総活躍社会の実現」などは論じたり解いたりできる命題にはなりえず、確証のない幻想的スローガンに過ぎないことに気づく。

評論家の大宅壮一の造語「一億総白痴化」は一時期一世を風靡した。ちなみに「いちおくそうはくちか」をぼくのPCは「一億蒼白地下」と変換した。一億人みんなが白痴になったら地下に眠るご先祖さまは蒼白状態になるだろう。半世紀以上前に生まれたこのことばはテレビ普及が進む世相を批判した。テレビは人から想像力と考える力を奪い、日本人全員をおバカさんにしてしまうという推論。言うまでもなく極論だが、一億総活躍よりも「らしく」見えてしまうのは、ぼくがアマノジャクのせいばかりではなさそうだ。それほど、一億総活躍社会のALLの論理は危うい。叶わぬまでも理念や願いを抱くのはいいことだ。しかし、表現のおもしろさに直感的に飛びついたのだったら、これから先、どうやってコンセプトとコンテンツの辻褄合わせをしていくのか。こじつけっぽくなりそうな予感がする。

一億総活躍社会が今年の新語・流行語大賞の一つに選ばれた。今日のところは選考者を責めないでおく。ともあれ、「一億総○○」は大宅壮一がすでに創案したのであるから、新語とは言えない。だから、流行語として選ばれたことになる。いかにも表現上のファインプレーを狙った感が滲み出ている。そして、流行語であってみれば、一過性の話題特有の短命を予感させる。どう考えても、一億人みんなが活躍できる社会が実現するとは思えない。まだしも、国際競争力を強化したい分野の中小零細企業の人材総活躍を目指すほうが策の立てようもあるのではないか。

書いて考える

才能の無さゆえか、ペンを手にせず紙も用意せずに考えることはできない。宙にまなざしを向けて腕組みをして考えようとしたことはあるが、まともに考えたためしがない。書きながら考え、書いたものを読んでもう一度考え、書き終わったものを繰り返し読んで何度も考える。ぼくにあっては書くことは考えることである。すでに考えたことを文章として書いているのではない。書いて考えるという行為は、先人たちの言に裏付けられ、今ではこれこそが本筋であるという確信に変わった。

言語は内なる思考の外的表出などではなく、思考の完遂である。
(メルロ=ポンティ)

「考える」ということばを聞くが、私は何か書いているときのほか考えたことはない。
(モンテーニュ)

拙く書くとは即ち拙く考える事である。(……)書かなければ何も解らぬから書くのである。
(小林秀雄)

正確に言えば、書いていない時――たとえば誰かと話をしている時――でも考えているのかもしれない。けれども、書いている時にもっともよく考えが巡っている実感がある。よく考えているとは、深い掘り下げのみならず、眺望点に立って四囲を見晴らすように広がる状態である。ことばと別のことばが、イメージと別のイメージが繋がっていく感覚が満ちてくる。ぼくの仲間が話していても、よく考えているかどうかわからない。しかし、その人が書いているものを読めば考えの程度はわかる。

okano note original

二十歳前から、何も考えずに雑文を書いてきた。書いた結果、少しは考えた足跡を認めることができた。三十歳前から定番のノートを用意し、主題を意識して書く習慣を続けてきた。その延長線上に本を書く機会に巡り合えたし、大量のオリジナルの研修テキストを著す機会を得た。書くことは考えることである。そして、考えることには苦しみが伴う。だから書けば書くほど苦しくなる。しかし、ずっと続けているうちに、やがて苦しさと楽しさが対立せずに一つの行為の中で矛盾しなくなった。つまり、苦しくかつ楽しくなった。

滑稽かもしれないが、自分のノートをOKANO NOTEオカノノートと呼んで、書くことと考えることに関するアイデンティティの紋章としている。体裁を変えサイズを変えて今に至り、書棚には何十冊も並ぶ。今年に入って、以前愛用していたバイブルサイズのシステム手帳に変え、気分も新たにして日々書き、日々読み返し、日々異種テーマと別々のページを相互参照している。趣味でも仕事でもなく、考える習慣として。


「何について書くか」についてめったに深慮遠謀しない。いろんなことに関心があるから、素材やテーマに困ることはない。在庫は増える一方、書いても書いても捌き切れないのが現実だ。などと偉そうに言うものの、いざ「なぜ書くか」という問いには少し困惑する。だらだらと気まぐれ日記を自分のために書いているのではなく、書いたものをこうして公開しているのであるから、誰かに読まれることがわかっている。書いたものを晒して読まれる状態に仕上げるだけでなく、最初から読んでもらうことを意識して書くこともある。たった一人の仮想読者の場合もあり、仲間や知人の場合もあり、テーマに関心を示してくれそうな人をプロファイリングしている場合もある。

ぼくの手書きノートは思いつきから始まる未熟でレアな文章の束だ。それでも、誰かのために書くという意識を強くして文字を連ねる。哲学者野矢茂樹は言う。

「自分の文章を読む相手をリアルに感じることだ。あなたは自分でよく分かっていることを書く。しかし、読む人はそうではない。(……)自分が分かっていることを、それを分かっていない人の視線で見つめながら、書かねばならない」(『哲学な日々』)。

ここまで言い切れるほどの自信はないが、読み手をある程度想定しなければ、文章が独りよがりになることを心得ている。時々わけのわからない術語を使ったり難文を綴るのは、まだまだぼくがテーマの難度に釣られてしまうからで、文才未だ熟していない証である。

宙ぶらりんな「なぜ書くか」にけりをつけたい。誰かに向けて書くことによって、考えるきっかけを摑めるからである(拙文を読んでもらえればささやかな考えるきっかけを摑んでいただけるからと厚かましく思っている)。書かなければ、自分も他人も見えないからである。書いて、そこからまた考えることが始まる。渡り鳥が飛び続けるように、マグロが休みなく泳ぎ続けるように書ければいい。書かなければ生命が脅かされるような気になればいい。とは言え、誰のことも意識せず、書きもせず、したがって考えもしない時間と行為は一日のかなりの部分を占めている。だから、そういう時間と行為については何も書くことがない。テーマにならないし、書くに値しないからである。

考えたいという一心で書けば書くほど、しかし意に反して、カオスに向かう。脳内が混沌としてますますわからなくなる。それでもなお、もがくようにして性懲りもなく書く。書くことをやめれば、平穏な秩序が戻ってくることを承知している。すっきりとした部屋でくつろぐように知は落ち着くだろう。しかし、これが知の劣化の始まりなのである。

カオスが常態になり習性になってしまった。手書きのノートを推敲して公開しようと思い立ったのが20086月。以来、七年半の歳月を経て、本ブログは今日1,000回という節目を刻んだ。のろまであったか、まずまずのペースであったかはどうでもいい。四百字詰め原稿用紙に換算して約4,500枚。新書サイズに換算すれば15冊に相当する文章の集積である。万感こみ上げるものなどないが、これまで書いてきた文章の巧拙がぼくの思考の巧拙にほかならない、と冷ややかに振り返っている。