理想と現実のギャップ

「ある新聞記事を読んでいたら、『理想と現実にギャップがある』と批評しているのだけれど、言いっ放しで消化不良だった」

「どういうこと?」

「ざくっと理想は書いてあるんだ。そして理想を叶えるべく実行している現実の策も書いてある。しかし、そこにギャップがある! というわけ。読者にはそのギャップが何だかよくわからない」

「なるほど。ギャップって割れ目や隙間のことなんだが、落差や食い違いだよね。理想と現実のギャップとは、理想と現実が一致しないという意味だな。で、その記者はギャップが生じていることを書いてはいるが、ギャップを埋めるべきかどうかとは言っていないわけ?」

「まさしくその通り。ぼくは常々思うんだけれど、たとえば『意見の相違だ』とか『コミュニケーションギャップだ』などと言ってすました顔をしている書き手がいるけれど、それじゃ批評になっていないのではないか」

「その種の言いっ放し評論がないことはないだろうが、そもそも本人がギャップとは何かについてよくわかっていないのだと思う」

「と言うと……?」

「ギャップというのは、XYの差。人の場合なら、XさんとYさんの認識の相違とか。本来一致することを目指してはいるけれど、そこに埋められない差があるということ」

「人の場合ではなく、理想と現実の場合ならどう考えたらいいんだろう?」

「現実が理想に追いつくまでの距離になるのだろうね。やりたい趣味があって、長年ずっとやろうと思っているが、まだ着手できていない状況。これは理想と現実のギャップ。あるとき一念発起してその趣味を始めたら、理想に追いついたというわけだ。でも、追いついたら追いついたで、今度は上達したいという新たな理想が生まれるから、つねに何らかのギャップがそこには存在する」

「それなら、理想を低くすれば、理想と現実のギャップは小さくなるね。しかも、ギャップが存在する時間も短くなる」

「そうなんだ。朝出社する。3件のメールに返信をしなければならない。これは目標なりノルマと呼んでもいいが、一種の理想だ。まだ返信していない状態は理想と現実にギャップがある状態。しかし、ものの数分間も作業をすれば理想は叶う。こんな簡単な理想なら楽勝だ。けれども、ぼくたちが掲げる理想はふつう容易に実現できないことのほうが多い。だからこそ理想と呼ぶに値するわけだろう」

「たとえば婚活。理想の結婚相手が見つからないとギャップはあり続ける。埋めたければ、現実において見つける努力をするか、理想をうんと下ろしてくるかのどちらかと言うわけだ」

「ギャップが存在する原因を理想が高すぎることに求めるか、あるいは現実の策の不十分さや努力不足に求めるか……少なくともこのことをよく理解しておかないと、ギャップを埋めることはできない。また、絶対に一致しないXYを設定しても意味がない。死んでしまった愛犬を生き返らせるという理想に対しては、現代科学ではどんな現実的手段を講じることもできないからね」

「毎朝散歩をするとか毎日50ページ本を読むなどはほどよい理想と言えるかもしれない」

「たしかに。しかし、その場合は、『毎日』が重くなってくる。何かの本で読んだが、当時ケーニヒスベルクと呼ばれた小都市で生まれ育ったカントは、毎日きっかり午後3時半に家を出て、樹木の生い茂った『哲学者の小道』を8往復したそうだ。『明日小道を8往復する』という一度かぎりの理想なら現実的に可能だろうが、これが毎日となると気の遠くなるようなライフワークになる。カントは見事に理想と現実のギャップを埋め続け、『ケーニヒスベルクの歩く時計』とまで言われた。休んだのは生涯に二度だけだったらしい」

「その二回だけのギャップをカントはさぞかし悔しがったのだろうね」

「おそらく。話を結んでおこう。当たり前のことだが、ギャップが埋まるのは理想が達成されたときと、始めから理想と現実に差がないとき。後者は現実のみを生きているという状態だ。きみが読んだ新聞記事のように、理想と現実の間にギャップがあることをよからぬように評論する人が多いが、現実側から理想に近づこうと努力をしている過程ではいつでもギャップは存在する。ギャップがあるというのは、少なくとも何がしかの理想を目指しているという点では必ずしも悪いことではない」  

自己検証しない人々

相変わらず悪のささやきに騙される人たちが後を絶たない。手を変え品を変えての詐欺に悪徳商法。騙す側も懲りなければ、騙される側も懲りない。もしかすると、マスコミを定期的に賑わす事件はテーマは変われども同じ登場人物で繰り広げられているのではないか。オール前科数犯、オール被害数回という設定だ。道徳論的には騙すほうが悪いと言っておかねばならないが、騙される人たちの懐疑不足と検証不十分も大いに戒められるべきだろう。

ふと思う。騙されるためには、人的交流が前提となる。人付き合いしていなければ、他人に騙されることはない。「ネット上で知り合った」というのも新しい交際の形態にほかならない。ある種の「お人好し」には他人の影がちらほら見えてしまうものだ。他方、こういう人たちと対極を成す種族も今時の人間関係事情を照らし出す。直接的対人関係が希薄で、なおかつネットでの出会いも志さない人々。彼らは他人には冷ややかな視線を向けたり一言一句を懐疑したりする。まるで近世哲学のスーパースターだったデカルトの末裔のように、少しでも疑わしければ徹底的に疑う。

デカルトの演繹は、〈明らかに真以外は認めない〉〈小さく分けて考える〉〈単純から複雑へと向かう〉〈見落としがないかすべて見直す〉の四つの規則にしたがう。疑って疑って疑い続ければどうなるか。最後に一つだけが残る。「疑っている精神」である。「何から何まで疑い、すべてが偽だと考えていても、そう考えている自分だけは確かな何かだ」とデカルトは思い至り、あの哲学史上もっとも有名なスーパーキャッチ、我思う、ゆえに我ありコギト・エルゴ・スム」を生み出した。


デカルト懐疑主義はよく批判に上がる。「我思う、ゆえに我あり」なら「我食べる、ゆえに我あり」でもいいではないか、と。なぜ「我思う、ゆえに『思う』あり」というように導出しないのか、と。たしかに「コギト・エルゴ・スム」という響きのラテン語は17世紀の知性の心を過度に揺さぶったかもしれない。それでもなお、デカルト自身は幼い頃から身につけてきた自分の先入観や感覚をも排除して、肉体から何から何まで懐疑した。ここには強烈な自己検証も含まれていたことを忘れてはならない。

おそらくデカルトはすべてに辛かったのであろう。ところが、当世の懐疑主義者は「他人に辛く、自分に甘い人々」なのである。他人の失態は一事が万事とばかりに目こぼしすることはなく、自分のエラーは試行錯誤よろしく大いに許容する。言い換えれば、他人の過小評価、自分の過大評価……自分大好き、バーチャル完璧主義……。自分の回りに必ず一人や二人はいるし、自分自身の中にもそういう性向が少々あることに気づくだろう。

やむをえないことなのかもしれない。今こうしてキーボードを叩きPC画面上に文字を連ねている現実理解ほど、ぼくには確かな自己認識はできてはいないだろう。外に向けた鋭い懐疑の視線は、内に向けた瞬間、矛先を鈍らせる。自己検証というものは不足気味にして甘くなりがちな作業なのだ。こういう甘い習慣が形成されるとどうなるか。学ぶことができなくなり進化が止まる。では、どうすれば自己検証できるようになるか。相互検証を通じての自己検証というほかない。立場を入れ替えての論争術であるディベートにはその機能が備わっているのだが、そういう視点でおこなわれているのか、ぼくは懐疑的である。  

巨人の肩に乗っているか?

「巨人の肩」の話、知っている人なら読売ジャイアンツの豪腕投手の肩でないことはお分かりだろう。これは万有引力でおなじみのアイザック・ニュートンの言だ。ニュートンは言った。

「もし私がより遠くを眺めることができたとしたら、それは巨人の肩に乗ったからである」

巨人の肩とは、人類が引き継いできた知の集積の比喩である。

人はこの世界に手ぶらで生まれてくるが、まったくのゼロ状態ではない。すでに遺伝子の中に数百万年前の人類とは異なる、「進化した可能性」を秘めている。他の動物と大きく隔たる潜在能力を発揮できるかどうかは別問題としても、何がしかの踏み台を保有していることは間違いない。やがて、学習と経験を通じて知識を蓄え世界を少しずつ広げていく。具体的に言えば、学校にはカリキュラムという踏み台があり、図書館や書店には書物という踏み台がある。こうした踏み台は時代を追うごとに性能がよくなり高くなっていく。

この踏み台が巨人の肩なのである。ぼくたちは地面に立って世の中を見渡す必要はなく、先人たちの知をうまく活用して一気に高いところから展望する機会に恵まれている。江戸時代の寺小屋で学ぶ子どもたちも誰かの肩に乗っただろうが、肩の高さがだいぶ違う。いつの時代も、後世は前時代までの叡智を活用できる。しかも、巨人はどんどん大きくなり数も増えていくから、理屈の上では人類はより遠くより広く世界を眺望できるようになっていくはずだ。


だが、話はそう簡単ではない。たとえば物理学の世界。なるほど相対性原理は人類史上最大級の巨人だから、その肩に乗れるアインシュタイン以後の物理学者の望遠力は、アインシュタイン以前の先輩を圧倒しているだろう。けれども、これら先輩たちは別の巨人の肩に乗っていたわけで、自分たちよりも後にさらに大きな巨人が現れることを想像することはできなかった。つまり、残念がりようがなかった。素人考えでは、アインシュタイン以前と以後で学徒の研究労力は天と地ほどの差があるように思える。

言語学ではソシュール、哲学ではデカルトなどのように、歴史の節目となる巨人があらゆる分野で出現した。発明なら、火薬、羅針盤、活版印刷、蒸気機関、自動車、コンピュータ……。そのたびにより大きな巨人の肩へと乗り移ってきたわけだが、そのように乗り移って際立った望遠力と視界を手に入れたのは、一握りの人々に過ぎないのではないだろうか。たとえば、書物を読まず文書も残さず、ただひたすら論争だけに明け暮れたソクラテスの肩をぼくたちはうまく乗りこなせていると言い切れるか。

いや、逆に、巨人の肩に乗ることによって知の重要な何かを落としてしまっているフシがある。人類全体に関してはニュートンの言う通りかもしれないが、個としての人間の能力はここ一万年、確実に高まったと言いうるかと問えば、ぼくは少し怪しい気がしている。すぐれた巨人の肩に乗れる後世の人々がつねに優勢であることを示す証拠は乏しい。ソクラテスばかりで恐縮だが、文字を通さずに誰が何を語ったかを逐一記憶して議論するなど、想像を絶する知力ではなかったか。

巨人がいても、肩に上らねばしかたがない。仮に肩に乗っても見渡さなければ意味がない。巨人の肩はいくらでもあるし、いつでも乗せてくれるのだが、乗ろうとしない時代のようである。現在、月平均読書量が一冊以下の人々が過半数を占めるらしい。本一冊読むのに重い腰を上げねばならないのだ。巨人の肩に乗って遠くを見晴らす以前に、現代人はまず肩に乗ることから始めなければならないようである。 

今日と明日のつながり

寝て目が覚めたら朝がくる。今日があって、昨日が過ぎて、おそらくまた明日がくる。こんなふうに日々が巡り、平均すると三万回前後繰り返すと、やがて朝のこないその日を迎える。大人なら誰もが重々承知しているはずの命の生滅の摂理。しかし、そのことを日々自覚して「今日この日」を憂いなきようしっかりと生きることは、頭で理解しているほどたやすくない。

「今日すべきこと、今日できることを明日に延ばすな」とよく教えられたものである。共感するに値する律儀な人生訓だが、根っからの怠け者やグズにとってはハードルが高い。おそらくこうした連中が「明日があるさ」と楽観的に今日から逃避し、分別ある良識人がわけの分かったような顔をして「あくせくしなくていいじゃないか」とグズを励ますことになる。♪Que sera seraケセラセラと歌おうが歌うまいが、「なるようになるもの」は勝手にそうなるし、「なるようにならないもの」はどうあがいてもどうにもならない。

のんびりとスローライフで日々を過ごせれば本望だ。だが、ぼくたちは社会の中で複雑に編み込まれた共生関係を生きている。そこには必然ルールが存在する。大半のルールは怠け者やグズを戒めるように作られているから、今日できることを今日済ませるほうが望ましく、今日できることをやみくもに明日に先送りすることを歓迎しない。そして、ぼくの観察であり経験からくる法則だが、今日できることを今日パスして、明日に何とかしようと目論む者ほどスローライフから程遠い日々を送っている。どちらかと言えば、自力を用いて潔く決断し、明日に仕事を持ち越さない心構えが余裕を生む。


うつ病の人たちへの処方を元気な人間が都合よく利用する。「頑張らなくていいんだ、明日でいいじゃないか」――ぼくも自律神経が失調気味になった40代半ばから50前後にかけては、時折りそのように心身を緩めるようにした。だが、過度の頑張りもよくないが、都合の良すぎる弛緩も都合が悪い。そういう体験から、「きついリハーサル、楽々本番」をモットーにしてきた。人前では頑張らずに余裕綽々、しかし一人になれば緊張感を漲らせて仕事に励み大いに勉強する。

いずれにしても、何事も程々がいいのだろう。ぼくの知り合いに涙腺の甘い感動人間が何人かいるが、束の間の感動ぶりは見事である。ところが、今日の大いなる感動はなかなか明日に続かない。次の日には余燼すら消えうせて、昨日はまるで何事もなかったかのようにけろりとしている。今日を明日につなげることはままならない。ぼくたちは油断すると点を生きることに偏し、昨日を今日に、今日を明日にとうまく線的に生きることに不器用である。

今日なくして明日がないのは否定できない。「今日がダメなら明日があるさ」は慰めで、今日がダメならだいたい明日もダメだろうと、昨夜こんなことに考えを巡らしていて、次のようなアフォリズムを作ってみた。

一手間かけない怠け者。

一日の面倒惜しめば三日無駄。

怠け者は変化しないことによって怠け者であり続け、知恵ある者は変化し続けることによって知恵者であり続ける。

集中と没頭のオーラ

「集中力のある人、ない人」で二分するなら、ぼくは集中力のある部類に属すだろう。あくまでも周囲の人たちとの比較による自認であって、証明はできない。敢えて言うなら、ここぞという時いつも我を忘れているから。言うまでもなく、我を忘れていたことに気づくのは我に返った後である。我を忘れている時には我はそこにはいないから、忘我を感じすらしていない。「ごめん、仕事の邪魔をしないで。いま我を忘れているから」と答えるのは集中力不足を物語る。我を忘れていることを意識できているあいだは我を忘れていない。

集中しすぎてトイレを我慢することもよくあるが、膀胱炎を患うまでには至らない。食事を忘れるくらいは「朝飯前」だ。但し、集中力を睡眠領域にまで持続させようとはしない。世間ではこれを「徹夜」と呼んでいるらしいが、経験上は深夜が集中力漲る仕事を約束してくれたことは一度もない。仮に徹夜作業に没頭できたとしても、そのツケは翌日または翌々日に巡ってくる。そもそも、集中は常態ではないので、ずっと続くことはない。集中という非常事態の後には、何らかの放心状態がついてくるものだ。

「いまお忙しいですか?」と聞かれて、返事をしているうちはまだまだ集中不十分。「ええ、少し」とか「何か?」と答えられるのは、仕事を流していたり仕事に醒めているからである。生返事という返し方もあるが、これも集中不足の表れだ。ほんとうに没頭するくらい忙しい時は、質問が耳に入らないし、聞こえたとしても返答のしようもない。誰かに「いま何してる?」と電話で尋ねて「運転中」や「会議中」と返ってきたら、運転や会議に集中していない状況である。だいたい、集中していたら携帯に応答しない。


サッカー選手が試合中に、「ただいまシュートを打っているところ」と誰かに語ったり自分に言い聞かせたりすることはありえない。戦闘の最前線にいる軍人にマイクを向けて、「いま何をされていますか?」とインタビューしたら撃ち殺されるかもしれない。「いま? 戦争中です」と親切に答えてくれる軍人がいたら、きっと元お笑い芸人だったのだろう。同様に、「いま顧客満足中」、「いま地球にやさしくしているところ」、「バッターボックスで150キロの速球を打つ瞬間」などの返答はないし、あってはならない。

人がある対象に没頭している時、敢えてそのことを誰かに伝えようとはしない。それどころか、没頭しているのだから、客観的説明を意識の最前線に位置させているはずもない。自分が他人によってよく中断されるタイプかそうでないかをよく考えてみればよい。仕事中に邪魔させない、中断させない、割り込ませない存在になるためには、ふだん調子よく軽々と返事をしていてはいけないのである。いや、「そこに入っていない」から返事ができてしまうのだ。つまり、他人に遠慮させるだけのオーラが出ていない。オーラは「仕事に没頭する人」というブランドイメージによって滲み出る。

背筋をピンと伸ばしてキャンバスに向かうピカソの存在感。あの光線を放たんばかりの強い眼差し。我を忘れることによって、絵筆や絵具が我と一体化し、キャンバス上からアトリエの隅々までオーラが充満した。さらには、棟方志功の板に顔を沈めて魂を彫り込んでいくあのはどうだ。ぼくはテレビで見た一心不乱の姿に感応し、「没頭の精神性」に揺さぶられた。ピカソも棟方も機会あるごとに展覧会で鑑賞しているが、作品を包み込む我を忘れたオーラは色褪せることはない。 

「散歩」という一つの生き方

必要があればタクシーには乗るが、ぼく自身は車を運転しない。と言うか、車を生涯一度も所有したことがない。歩行者として車への偏見が少しはあることを認めよう。テレビコマーシャルでエコ減税や助成金を視聴するたび、「それなら、靴こそエコの最たるものではないか。ぼくの靴に助成金を出してくれ」と大人げなく一言申し立てている。

世間には『散歩学のすすめ』という本があり、ウォーキングがファッションの一つと見なされ科学的に効能を説かれることもある。歩くことに目的を置くことも置かないことも自由。「なぜ山に登るのか?」「そこに山があるから」という古典的問答があったが、これにならえば、「なぜ歩くのか?」という問いへの模範応答は「そこに道があるから」になるのだろうか。登山家と歩行家は同列? 歩行一般について言えば、たぶんそうである。

しかし、歩行一般から離れて目を「散歩」に向けてみると話は一変する。散歩は車に乗らない人間の代替手段でもなければ、左右の脚を交互に前へと送る無機質な機械的運動でもなく、ましてや健康や気晴らしという目的を特徴としているわけでもない(なお、散歩の定義に「健康や気晴らしのために」という表現を含めている辞書があるが、センスを疑ってしまう。おそらくその項目を書いた学者は、恐ろしく想像力に欠けているか、一度も散歩をしたことがないのに違いない)。


遊歩や漫歩は散歩の仲間であるが、速歩や競歩や闊歩などはまったく別物だ。散歩にあっては道も行き先も別にどうだっていいのである。散歩や遊歩や漫歩の言い換えとして、ぼくは「そぞろ歩き」という表現が気に入っている。ちなみに、「そぞろ」は「漫ろ」と書く。つまり、漫歩に近いのだが、漫歩と言うと「万歩計」のようで、そこに健康ウォーキングの意味合いが入ってくるのが嫌味である。

散歩の向こうには目的も方向性もない。朝になれば起きるのと同じく、散歩も日々の摂理である。散歩がまずあって、その結果、その効能を「気晴らしになった、爽やかになった、健康になった」と感想を述べるのは勝手である。しかし、散歩に先立ってゆめゆめ目的や効能について語ってはならない。「なぜ散歩するのですか?」に答えてはならない。答えた瞬間、散歩を手段化したことになるからである。

散歩は、車、バス、電車などと同列の移動手段なのではない。「半時間歩いて焼肉店に行く時は手段になっているではないか⁉」と反論されそうだが、それは散歩ではなく徒歩である。焼肉店に向かって歩き出した瞬間、それはもはや散歩と呼べる行為ではない。すなわち、散歩とは、他の交通手段と比較しえない、自己完結的な行為そのものなのである。目的や意義に先立つア・プリオリな行為なのである。ゆえに、「散歩のすすめ」は成り立たず、「散歩のすすめ」のみが本質を言い当てる。

言うまでもなく、「正しい散歩」という概念すらもない。とにかく「一歩を踏み出す」。いや、こんな力強い大仰な表現は散歩にふさわしくない。靴に履き替えて左足でも右足でも気に入ったほうの脚をとりあえず動かしてみる。「どう歩くか」も不要である。ただひたすらそぞろに歩くのである。もうやめよう。「散歩かくあるべし」を語れば語るほど、散歩の意義付けになってしまい、やがて目的論に発展しかねない。

知ろうとする努力の行く末

あることについてあまりよく知らない。あまりよく知らないが、興味をもったので本を読むなり調べるなり誰かに聞くなりしてみる。この場合、知ろうとする努力によって想定する行き先は、言うまでもなく「少しでもよく知る」であるはずだ。そうでなければ、誰も延々と知る努力を重ねようとはしないだろう。ところが、意に反するかのように、知ろうとする努力が知ることを暗黙的に約束してくれるとは限らない。

どこまで知ろうとするかによって、知に至る満足度や達成感は変わるものである。知りたいことをエンドレスに深く広く追いかければ追いかけるほど、求める知はどんどん逃げていく。いくら知ろうとしても満たされず、目指した極点には行き着きそうもない。逆に、知りたいことを少なめに見積もっておけば、努力はそこそこ程度の知識にはつながってくれる。おそらく「身の程をわきまえ知に貪欲になりすぎるな」という類の教訓はここから生まれてくるのだろう。

しかし、ほんとうにそれでいいのだろうか。それが何事かを知ろうとする基本姿勢であってもいいのだろうか。こんなふうに真摯な問いを投げ掛けながらも、ぼくはさほど悩んではいない。際限なく知ろうとする努力を怠れば、身につけた小手先の知識すら有用にはなりえないだろう。知への努力は「飽くなきもの」でなければならないと自覚している。「何? それでは永久に満足感も達成感も得られないではないか」と考えるのは、努力が足りないからにほかならない。知ろうとする努力に際限はないが、知ることを許された時間は有限である。時間が知の領域を決めてくれるのだ。それゆえに、時間に限りがあることを十分に了解して知ろうとすれば、努力は報われるようになっている。


ここからは、「人間には知ろうと努力する遺伝子が備わっている」という前提で話を進める。第一に、すでによく知っていることを人は知ろうとはしない。せいぜい再認で終わる。第二に、ある程度知っていることなら、足りない分を知ろうとするだろう。なぜなら、「知への努力」という前提に立っているので、ある程度知っていても「もっと知りたい」へと向かうはずだから。第三に(そしてこれが重要なのだが)、知らないことに対する人の振る舞い。微妙だが、「ほとんど知らない」と「まったく知らない」で大きな差が出てくる。

「ほとんど知らない」とは、「わずかでも知っていること」を意味する。同時に、「自分があまりよく知らないこと」をわきまえている状態でもある。たとえば、「彼のこと、知っている?」と聞かれて「ほとんど知らない」と応答できるのは、彼の職業については知っているが、「出身地、趣味、家族構成」などについて知らないということである。つまり、彼について不足している情報があることを認識できている。ところが、「まったく知らない」は箸にも棒にもかからない状態だ。いや、箸も棒すらもない。知らないことすらも知らないし、絶対に知りえない。完全無知。これに対しては、知る努力をするDNAが備わっていてもどうにもならない。

完全無知から脱皮する手立てを自力で創成することはできない。「彼のこと、知っている?」と尋ねてくれる他者の、外部からの刺激がきっかけになって初めて、知ろうとする努力への第一歩を踏み出せるのだ。言い換えれば、ぼくたちは「少し知っている状態」を出発点にしてのみ知ろうとする努力ができるのである。しかし、ここにも遺伝子が機能できない盲点がある。青い空に流れる白い雲を見慣れたぼくたちは、青い空と白い雲についていったい何を知っているのだろうか。見えているからといって知っていることにはならない。仮に知っていると思っていても、何かを省略し別の何かを抽出した結果の知ではないか。つまり、「知っているつもり」の可能性が大きい。

楽観的に見れば、知ろうとする努力には「少し知り、ある程度知り、やがてよく知る」というプロセスと行く末があるのだろう。しかしながら、知ろうとする努力の行く末が往々にして「知っているつもり」であることも忘れてはならない。そして、「知っている」と「知っているつもり」の違いを認識させてくれるのも、ほかならぬ他者の存在である。人は一人では何事も知ることはできない、他者と交わってのみ知が可能になる。

いったい何人の自分がいるのか?

「分類」についていろんな本を読んだし、企画における情報分類や編集の話もよくする。分かるために「分ける」のだけれど、分けても分けても分からないことは分からない。なんだか禅問答のようだが、理解しがたいことを何とかして分かりたいという願いが分類へと人を動かしているようだ。分かりたいのは、おそらく安心したいためかもしれない。全人類を血液型によって4パターンに分けるなど無謀で大胆なのだが、帰属の安心や他人の尻尾をとりあえず押さえておきたい心理がそこにあるのだろう。

誕生月や星座による分類は血液型よりも多くて12である。百人がいれば、平均して1パターンにつき89人の仲間が出揃う。この場合、老若男女や貧富や頭の良し悪しは問わない。指標は誕生月と星座のみである。そんな分かりきったグルーピングをしてもしかたがないような気がするが、ぼく自身もいろんなことを分類しているのに気づく。なぜぼくたちは、多数のいろいろなサンプルをサンプル数をよりもうんと少ないカテゴリに分けたがるのだろうか。ちなみに百のサンプルを百のカテゴリに分けるのは分けないことに等しい。

分類するよりも、一つの事柄に複数の特性を見つけるほうが創造的な気がする。一人の人間に潜んでいる相反する特徴や多重性の人格や様々な表情のペルソナ。そう言えば、小学校の低学年の頃に流行った七色仮面を思い出す。雑誌を読みテレビにも夢中になった。今でも主題曲をちゃんと覚えている。「♪ とけないなぞをさらりとといて このよにあだなすものたちを デンデントロリコやっつけろ デンデントロリコやっつけろ 七つのかおのおじさんの ほんとのかおはどれでしょう」。「七つの顔を持つおじさん」なのである。これはすごい。「本当の顔はどれでしょうか?」と、クイズになってしまうくらいのすごさなのだ。


「ピンチヒッターはなぜチャンスヒッターと言わないんだろう?」と、開口一番、全員に問いかけるA。「そう言えば、そうだねぇ~」と乗ってくれるB。黙って知らん顔しているC。「そんなこと、どうでもいいじゃないか!」と吐き捨てるD。「ちょっと待って」と言って、すぐにネットで調べようとするE。そのEを見て、「調べないで、想像してみようぜ」と持ちかけるF。「オレ、知ってるよ。誰かが怪我すると『危急の代役』が必要になるからさ。ゲームの場面のチャンスとは関係ないんだ」と薀蓄するG

みんな性格の違う、AからGまでの7人。実は、この7人全員がぼくの中にもあなたの中にも棲みついているのである。ぼくたちは人間力学によってテーマによって状況によって、やむなくか都合よくか、意識的か無意識的かわからないが、7人を使い分ける。野球のことならBEGになり、話がファッションになるとCDになり、エコロジーになればAFになるのである。血液型や星座の窮屈さに比べれば、ずいぶんダイナミックな変幻自在ではないか。そう、すべての人は七変化しちへんげする七色仮面。

自分が「何型」ということにいつまでも喜んでいるようでは、幼児的退行と言わざるをえない。そんな一つのパターンに閉じ込められることを素直に受け入れるべきではないだろう。人間が一つの性格・一つの特徴しか持たないならば、それはほとんど下等動物以下ということになる。そんなバカな! 状況に合わせて関係を変化するから環境適応できているのである。一つの型を貫くことを普遍とは言わない。それは偏屈であり、変化に開かれず閉ざすことを意味する。

考えられないことを考える?

時々エッシャーのだまし絵のことを思い出す。高い所から落ちてくる水をずっと辿っていくと、いつの間にか低いところから高いところに上がっていって一回りしてしまう。なぜこうなるのかを考えることはできそうだ。なにしろ絵なのであるから、「もっとも信頼できると勘違いしている視覚」によって確かめられそうなのだ。けれども、だまし絵なのだから、謎解きなどやめてしまって、やすやすとだまされるのが正しい鑑賞方法なのかもしれない。

メビウスの輪または帯にもだまし絵に通じるものを感じる。ある地点から出発して帯を辿っていくと元の地点に戻ってくる。目の前に輪を置かずに頭だけでイメージすると苦労する。しかし、実際に紙で帯を作り、ひとひねりして端どうしをくっつけて輪にすればよくわかる。ボールペンでなぞって確認もできる。ちなみに、ボールペンで記した線の一箇所にハサミを入れて線に沿って切ってみれば、二度ひねられた倍の大きさの輪ができる。

まだある。ヘビが自分の尻尾を噛んでいる様子である。いや、噛んでいるだけではなく、尻尾の先から順番に胴体を飲み込んでいくところを想像してみる。途中まではイメージしていけるのだが、首あたりまで飲み込んだ時点から、まるで追跡していた車が忽然と消えて見失うように、想像停止状態になってしまう。それ以上見えにくくなってしまうと言うか、考えられなくなってしまうのだ。飲み込んでいった尻尾の先から胴体部分はいったいどこに行ってしまったのだろうか。尻尾を噛み始めた時に比べて、ヘビの体長は縮んでしまっているのだろうか。


もちろん素人考えである。どんなジャンルの学問になるのかよく知らないが、その道の専門家ならいくらでもイメージし、なおかつ説明できるに違いない。ところで、素人でも、目の前に絵があったり手で触れたりできれば、想像するのは大いに楽になる。だから仕事中も腕組みをして下手に考えるよりも、いっそのこと紙とボールペンを用意して、とりあえず何かを書いていけば小さな突破口くらいは開けるかもしれない。視覚や聴覚や皮膚などの身体じゅうの諸感覚は考えることを助けてくれる。

ところが、ことばや概念でしか考えられないこともある。時間は過去からずっと流れているのか、それとも瞬間の連続なのか。人類はいつから人類になったのか。カジュアルな哲学命題には「ハゲはどの時点からハゲなのか」というのもある(これは純粋の概念思考ではなく、人体実験が可能かもしれない)。いずれにせよ、ことばや概念の領域だけで抽象命題を考えるのは精神的にも肉体的にも負荷が大きい。要するに、ものすごく疲れるのである。「そんな考えられないことを考えて何になる?」とも思う。ただ、考えられないこと、考えてもしかたのないこと、考えればわかるかもしれないこと――これらの違いを「どう見極めるか、どう考えればいいのか」がわからない。

でも、ぼくは思うのだ。知っている漢字や地名をふと忘れたとき、すぐに辞書やウェブで調べるのではなく、たとえ思い出せなくても、ひとまず自力で思い出してみようとするべきだと。思い出せないことを思い出すことはできないのだろうか。いや、そんなことはない。思い出せないのは今であって、そこに時間経過があれば思い出す可能性は出てくる。結果的に思い出せなくても、思い出そうと努力したことに意味がないとは思えない。ならば考えることにも同じことが言えそうか……残念ながら、そうはいかない。なぜなら、思い出すことと考えることは同じではないからだ。

「考えられないことは必ずある。考えてもしかたのないことも必ずある」――少なくとも今はそうだ。しかし、考える時間と努力が報われるか報われないかも知りえない。そして、「何が何だかよくわからないから考えない」と「何が何だかよくわからないから考える」のどちらにも一理あるように思えてくる。明日の私塾ではこんなテーマも少し扱い、頭を抱えてもらおうという魂胆である。 

ロゴスによる説得

今月の私塾大阪講座では、『言論の手法』を取り上げる。現在テキストの仕上げに入っている。構成は8章、その一つに「ロゴスによる説得」が入る予定だ。えらく難しそうなテーマだが、表現の威圧にたじろぐことはない。この種の勉強を少しでも齧った人は、「説得の『説』は言偏ごんべんであり、ロゴスというのもたしか言語とか論理だから言偏になる。これは当たり前というか、単なる重ねことばではないのだろうか」と思うかもしれない。なかなかの炯眼と言うべきである。

弁論や対話に打ち込んでいた二十歳前後の頃、ぼくもそんな疑問を抱いたことがある。説得というのは、何が何でも理性的かつ論理的でなければならないと思っていた。ところが、アタマが説得されても心情的に納得できない場合があることに気づく。また、儲け話を持ちかけられた人が、たしかに理屈上は儲かるメカニズムを理解できたが、倫理的に怪しくなって説得されるまでには至らなかった。どうやら説得が〈理〉だけで成り立たないことがわかってくる。そんなとき、たまたま手にしたアリストテレスの『弁論術』を読んで説得される。

言論を通じておこなう説得には三種類あるとアリストテレスは言う。一つ目は「人柄エトスによる説得」である。語り手自身が信頼に値する人物と判断してもらえるよう言論に努めれば、説得が可能になるというもの。二つ目は「聴き手の心情パトスを通じての説得」。語り手の言論によって聴き手にある種の感情が芽生えるような説得である。そして、三つ目が「言論ロゴスそのものによる説得」なのである。あれから35年、ぼくもいろいろと経験を積んできた。現実に照らし合わせてみて当然のことだと今ではしっかりと了解できる。


エトスやパトスによる説得がある。ロゴスによる説得も説得の一つの型なのである。弁論術における説得とは、正確に言うと「説得立証」と呼ばれ、その論証の鍵を握るのが〈トポス〉ということになる。トポスとは通常「場所」を示すが、アリストテレス的弁論術においては、思想や言論の「拠り所」、すなわち「論拠」を意味している。もっと簡単に言えば、理性的・論理的説得を成功させるためにはしかるべき理由づけが欠かせない、ということなのだ。

では、どこに理由づけというトポスを求めるのか。トポスのありかは、善と悪、正と不正、美と醜などに関する世間一般の共通観念にこそ見出せる。悪よりも善を、損よりも利を、不正よりも正を、醜よりも美を、悪徳よりも徳を論拠とする言論は、いかなる命題のもとでも説得立証力を秘めることになる。押し付けたり行き過ぎたりする善行や正義や道徳は鼻持ちならずブーイングしたくなるが、後ろめたさのない言論――ひいては生き方――ほど強いものはない。ぼくは真善美派からだいぶ逸脱した、アマノジャクな人間ではあるが、さすがに善や正が悪や不正によって論破されるのを見るのは耐え難い。

善と悪や正と不正など一目瞭然、誰にでもわかりそうだ。ところが、そうはいかない。人々の通念やコモンセンスが、時代ごと、いやもっと近視眼的な状況に応じても微妙に変化するのである。ゴルフは「正」、接待も「正」、しかし接待と偽って平日サボれば、そのゴルフは「不正」になる。殺人は「悪」であるが、是認されている死刑は「善」と言い切れるのか(「必要悪」という考え方もある)。騙したほうが悪いのか騙されたほうが悪いのかなどは、通念が二つに分かれてしまう。トポスを通念やコモンセンスに求めても絶対という説得立証がない。だからこそ賛否両論の討論が成り立つのである。ここがまさに好き嫌いの分岐点になっている。