インスピレーションと知の統合

世の中にはアイデアマンと呼ばれる人とアイデアがひらめかない人がいる。総合的な能力差がなくても、アイデアの質と量には歴然とした差が見られる場合がある。自ら企画の仕事に30年、また企画の研修や指導に20年携わってきて、なぜそのような差が生れるのかに大いに関心を抱き分析しようとしてきた。「地頭」の違いなどと簡単に片付けるつもりはない。もっと別の何かがあるはずだと思っている。この記事一回きりで結論が出るわけでもないが、ラフスケッチだけ描いておきたい。

「統合失調症」という精神の病については以前から知っていたが、最近ある本を読んでいたらこのことばが出てきた。精神分析の専門書ではないが、常識の喪失との関連で書かれていて興味深く、アイデアとインスピレーションを別角度から考察するきっかけになってくれた。統合失調とは、精神機能のネットワークが不全に陥っている状態である。認知症もその一つのようだ。たとえば、「~しなければならない」とか「~したほうがいい」と強く意識していても、実際はそれができないという状態である。この精神の病は、どこかアイデアが出にくい状態に似ているような気がする。

仮にぼくの弟の名前を「久左衛門」とするとき、誰かと会って「大坂久左衛門です」と自己紹介されたら、「あっ、弟と同じ名前だ!」と思う。時間をかけてわかるのではなく、瞬時にその人と弟の名が照合されて一致していることに気づく。久左衛門という名前の特殊性もあるが、それだけで頭が働いたのではない。それが「たつお」や「しょうじ」や「ゆういち」であっても、何らかの照合作用が起こるものである。しかし、まったく何とも感じない人もいる。


「ここにいる5人の中にあなたの知っている人はいるか?」と尋ねたら、彼(P)は一人ひとりをよく見て「いません」ときっぱりと言った。その数分後、5人のうちの一人()が彼のところへやって来て「こんにちは!」と声を掛けた。そして、「昨日はどうも」と言ったのである。結論から言うと、昨日の夜、PQの二人は他の複数の人たちとともに会話の輪に入っていた。PQと会話したのを覚えていたが、その人の顔を再認識することはできなかった。昨日の今日にもかかわらず。Pにとって、会話とQの顔は別物だったのである。

あることに部分的な強い関心があっても、そのことが本人の知覚全体の中で孤立していたり居場所を持たなかったりすることがある。他の事柄とつながらないからひらめきが起こらない。たとえばスプーンは口に食べ物を運ぶ道具としてフォークや箸と同じ群にあり、同時に相互に差異によって成り立っている。したがって、さほどの努力をしなくても、スプーンというモノまたはことばからフォークや箸は連想されるだろう。この種のネットワークが細かく広がっていれば「意外なつながり」、つまりインスピレーションが起こりやすい。

他人にとって無関係に思える二つのものが、アイデアマンにとっては関係性の事柄どうしに見えている。エドワード・デ・ボノはたしか「無関係な願望」と「目新しさ」の強い関連を指摘していた。また、うろ覚えだが、エドガー・アラン・ポーも「熟考とは深さではなく、広がりである」というようなことを言っていた。一ヵ所の垂直的深堀よりも複数個所の水平的連鎖のほうがひらめきやすいのである。複数の情報をよく取り込んでも、それぞれの情報を相互的に関連づけなければ、知が統合されることはない。これは習慣形成によるところが大で、要するにぼんやりと惰性で生活したり仕事したりしていては、アイデア脳が生まれないということである。 

直観は有力な方法か

「直感」と「直観」という表記を使い分けるのはやさしくない。正しく言うと、これは表記の問題ではなく、そもそも意味が違っている。意味が違うから、わざわざ二つの用語がある。ぼくなりには使い分けているつもりだが、人それぞれ。読み方、聞き方は一様ではない。

ぼくなりの使い分け。「直感」の場合は、「直」を「ぐに」と解釈する。つまり、「直ぐに感じる」。現象なり兆候を見て、瞬時に感覚的に何かを見つける――これが直感。他方、「直観」は哲学用語でもある。こちらの「直」は「じかに」ととらえる。観察や経験の積み重ねにより、何かの本質を直接的に理解すること――これが直観。直感を「ひらめき」と言い換えてもさしつかえないが、意地悪く「思いつき」と呼ぶこともできる。直観は、ひらめきでもなく思いつきでもない。

もう一つ付け加えると、直感で気づいたことはいくつかの選択肢からポンと飛び出してきたのではなく、それ自体独立したものだ。だから、「なぜ?」と問われると理詰めでは答えられない。「何となく」と返すしかない。「直感ですが、Aはどうですか?」に対して、「他に何かない?」と聞いても、BCを吟味した上でのAという選択ではないので、聞き返された人も途方に暮れる。


他方、直観には観察や経験を通じて培われた暗黙知が働く。直観で決めたことには、直観で決めなかったことが対比される。直観にはなにがしかの選択がともなう。複数の選択肢からもっとも本質的なAを取り上げている。直観で選んだAにオンのスイッチが入り、その他の選択肢BCDEにはスイッチが入らずオフのままなのだ。では、その直観作業ではBCDEも実際に検討したのか。いや、検討などしていない。暗黙知が機能するので、検討対象から外しておけるのである。

スポーツであれ将棋や囲碁であれ、プロフェッショナルは「ありそうもないこと、おそらくなさそうなこと」をわざわざ思索して排除しなくても、「勝手に」除外できるようになっている。その結果、押し出され式にあることを直観的に選ぶ。その直観によって選択したことが、だいたい理にかなった行動や手になっているものなのだ。

行動パターンや手の内が豊富だからこそ直観が可能になる。本質を洞察するためには、観察や経験の絶対量が欠かせない。もし直観したことに問題があっても、暗黙知には別の選択肢が蓄えられているから、論理的検証をしたり再選択したりすることもできる。プロフェッショナル度とすぐれた直観力はほぼ比例する。ゆえに、直観は単なる一つの方法などではなく、きわめて有力な方法になりえるのである。

セレンディピティがやって来る

辞書の話題から書き始めた1212日のブログ。その中で刑事コロンボの例文を紹介した。昔はテレビのドラマを欠かさずに観ていたが、コロンボの話に触れたのは何年ぶりかである。四日後、コロンボ役男優ピーター・フォークが認知症になっていることをAP通信が報じた。

これなど、点と点の同種情報が結ばれた例である。ブログの記事は自発性の情報、AP通信は外部からやってきた情報。後者を見落としていたら、ブログでのコロンボは孤立した一つの点情報で終わる。たまたま新聞記事を見つけたので、四日前のブログと結びつく。但し、このように情報どうしが偶然のごとく対角線で結ばれることのほうが稀だ。情報でもテーマでも強く意識していないと、関連する情報をいとも簡単に見過ごしてしまう。情報行動は点で終わることが圧倒的に多く、めったに線にはなってくれない。対角線がどんどんできるとき、アタマはよくひらめき冴えを増す。

同種情報のほうが異種情報よりもくっつきやすいのは当然だ。「類は友を呼ぶ」の諺通り。しかし、しっかりと意識のアンテナを立てていると、アタマは「不在なもの、欠落しているもの」にも注意を払うようになる。本来ワンセットになるべきなのに、片割れがない場合などがそうだ。たとえば、ネクタイの情報に出会うと、その直後にワイシャツの情報に目配りしやすくなる。見えているのは山椒だけだが、この時点で「うな重」への無意識がスタンバイする。

さらに、ひらめき脳が全開してくると、まったく無関係な情報どうしの間に新しい脈絡や関係性が見い出せ、両者を強引に結び付けてみると想像以上にすんなりまとまったりする。


もっとすごいのは、特に探していたわけでもないのに、ふと思いがけないアイデアや発見に辿り着く不思議の作用である。これが、最近よく耳にするようになった〈セレンディピティ〉だ。いろんな日本語訳があるが、偶然と察知力を包括する「偶察力」が定着しつつある。このことばを知ってから最初に読んだのが、『偶然からモノを見つけだす能力――「セレンディピティ」の活かし方』(澤泉重一著)だ。

この本の随所で、自分自身の潜在的な知識がむくむくと目を覚ます体験をする。たとえば、ノートにメモしたもののすでに忘れてしまっていた「シンクロニシティ(共時性)」に出会う。そして、「時を同じくして因果関係のない複数の意味あることが発生する現象」についての知識が顕在化した。さらに、たとえばイタリアの作家ウンベルト・エーコの見解「異なる文化のところにセレンディピティが育ちやすい」が紹介されている箇所。ぼくはその一週間前に当時独習していたイタリア語の教本の中で、このウンベルト・エーコを紹介するコラムを読んでいた。


ある点に別の点が重なろうとしている偶然に気づくのは、意識が鋭敏になっている証。点と点が同質であれ異質であれ、頻繁にこんな体験をするときは自惚れ気味に波に乗っていくのがいい。願ってもみなかった予期せぬご褒美とまではいかなくとも、僥倖に巡り合うための初期条件にはなってくれるかもしれない。まもなくクリスマス。プレゼント選びに疲れきった大人たちに、セレンディピティという贈り物が届くことを切に願う。

新しい発想に「異種情報」と「一種情報」

来る620日開催の私塾のテーマは「発想(ひらめき)」。そのテキストの編集中に、先週の『リーダーの仕事術』というセミナー時に出てきたある質問を思い出した。「どうすればひらめくようになるのか?」――質問者の気持ちを汲んであげれば、「アイデアがどんどん出る人間になりたい」ということだろう。難問だが、実は頻度の高い古典的な質問なのである。

数ある発想技法に共通する模範解答は「異種情報の組み合わせ」。ぼくも常々そう感じている。そこで、オウム返しのように、「ジャンルの違う情報どうしを組み合わせると新しいアイデアが生まれますよ」という意味の返答をした。

よくよく考えてみると、とても軽くて無責任な回答だった。意味なく異種情報の組み合わせを繰り返しても、ある日突然アイデアマンになれる保障などない。情報を食材にたとえてみれば、牛肉、玉ねぎ、豆腐、しらたきを入手しても、すき焼に辿り着けないかもしれないし、たとえマグロという一つの素材しか手元になくても、新しい料理のアイデアを生み出せることだってある。

今回のテキストにも異種情報融合の話を書いているし、組み合わせの方法をいくつも紹介している。でも、ちょっと不十分と反省し、「一種情報の複数解釈」と抱き合わせで解説することにした。一つの情報にできるだけ多くの複数価値を見出すこと―実は、こっちのほうが、「どうすればひらめくようになるのか?」という初歩的質問に対しては、より適切で有効な手立てなのだ。