ことばの壁と口ごもり

二十代・三十代に書いたノートがかろうじて数冊残っている。現在の文章に比べると、その頃の文章のほうがよく対象を見ていて、心的作用を素直に描写できているような気がした。そう感じて当時のブログから100篇ほど自書自読・・・・して、昔の文章と比較してみた。10年前のこと。その時に述懐したのが下記の文である。

今の文章は、当該文とその前後の文をつなごうとしている。展開する考えが一貫するように筋を追いかけて書くことを意識している。その代償として、点としての対象の摑み、その対象について生起する感覚がおろそかになっているかもしれない。描写や比喩から執念が消えている。叙述することに熱心でなくなり、他者を意識した理屈っぽい説法が多くなっている。普遍を求めて情趣を失しているとすれば、まだまだ拙い証拠である。

この時から10年経った今の述懐はこの通りではない。書くことにずいぶん慣れたはずだが、穏やかに素直に綴れない時も多々ある。そんな場面では、苦痛を覚える前にさっさと妥協して書き終えてしまう。しかし、『メルロ=ポンティ コレクション』の巻末、編者であり翻訳者の中山元の次の文章を読んで大いに反省した。

メルロ=ポンティの思想の魅力は、言いえないものを言おうとする強靭な思想的営為にある。わたしたちのだれもが予感のように感じながら、言葉に表現することのできないものを示そうとするメルロ=ポンティの文章は、よどみ、回り道をし、ときに口ごもる。しかし、その口ごもりにこそ、メルロ=ポンティが語ろうとしたものがある。

口ごもるのは話す時だけではない。文章を綴っている時にもよどむ。そう、「ペンも口ごもる」のだ。

メルロ=ポンティはことばの試練に真向から飛び込んでいこうとした。人は生を生きているが、同時に「ことばを生きている」。ことばを生きるのは並大抵のことではない。本来言いえないことを言おうとしても、ことばは明快性を置き去りにして対象から遠ざかっていく。

語りえないからと言って黙るのではない。書けないからと言ってそこでペンを置かない。もどかしくも、敗北感を覚悟しながら語り書く。その結果を問うてもしかたがない。書けたものが今の精一杯の自分にほかならない。ことばに詰まる、筆が進まない、そしてペンが口ごもる……書くとは試練に耐えることである。