美や美意識は十人十色で、あれは好きだがこれは嫌いと言いたい放題するのが許される。それなのに、「美とは何か」と問い、十全十美的な本質を追究しようとする人が絶えないのはなぜ? 仮に美の根源があるにしても、すでに美はそこから多様に派生した姿になっているはず。いや、だからこそ、本質を知りたいのか。
たった一つのユニバーサルな美はありえないから、「美とは何々である」と言い切ることはできない。しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチは「簡潔性は究極の洗練」だと確信した。たしかに、一目で読み解けない煩雑さよりはシンプルな見え方のほうに心は動く。但し、こうして天才の言を引用することはできても自論として発展させるとなると凡人には荷が重い。それでも、「美とはシンプルである」とは言えなくても、「シンプルな美」について語ることはできる。
構成する要素が多く――ゆえに情報が増えると――誤認識が生じやすくなる。要素が少ないほうがシンプルに伝わりやすい。大胆に省略しながらも要点を押さえるピクトグラムやアイコンが典型的な例で、ユニバーサルな価値を秘めている。ピクトグラムもアイコンも誤情報を発信することがあるが、簡潔ゆえに習慣化しやすく、一つの意味媒体として定着しやすい。
日本画家の上村松園は能楽の装束の華麗さを「沈んだ美しさ」と言う。沈んでいるというのは抑制であり、簡潔を基調とするの意だと思われる。『簡潔の美』という小文には次のように書かれている。
舞台に用いられる道具、それが船であろうが、輿、車であろうが、如何に小さなものでも、至極簡単であって要領を得ています。これは物の簡単さを押詰めて押詰めて行ける所まで押詰めて簡単にしたものですが、それでいて立派に物そのものを活かして、ちゃんと要領を得させています。ここに至れり尽くされた馴致と洗練とがあらわれていると思います。
能楽の話ではあるが、他の芸術や伝統芸能でも、あるいはそこから派生し分化した様々な流派でも同じことが言えそうである。シンプルな美しさ――上村松園の「簡潔の美」――は、散歩中に目を向けた川面に、地に映った樹木の翳に、街中のタワーマンションの直線に現われ、日々の生活の平凡な光景の中でも浮かび上がってくる。
無駄が排除されて簡潔になればわかりやすくなる。わかりやすさは美の感知にとって欠かすことができない。「美しきものはすべてシンプルである」とは決して断言できないが、「シンプルな美しさ」なら身近に感じることができるし、迷ったらひとまずシンプルにしておくというのは一つの知恵になるだろう。