未来へ逃げる人々

先月に書いた「明日はあるのか?」の続編。

現実逃避は現実を苦しいもの、厳しいものと考える人たちに生じるのであって、現実に向き合い、過去の経験を振り返る人たちにとっては無縁である。では、現実から逃避する人たちはいったいどこへ行くのか。酒に手を伸ばして陶酔の世界に向かう人がいるだろう。また、感情の水面をたゆたいながら自分世界に引きこもる人もいるだろう。そして、大多数は今日の結果を見届けずに未来という仮想世界に手っ取り早く心を馳せる。いずれの世界へ逃れても、行く末が見えないという点では不安は残る。だが、その代償として何も見えないからこその安らぎが手に入る。酔いはいずれ醒め、引きこもりも続かない。現実逃避者にとっては定まらぬ未来こそが永遠の安息場所に見えてくる。

生きることができるのはこの瞬間だけである。英語には、今に生きるという意味の“live in the present”という表現と並んで、“live in the past”という言い回しがある。過去に生きるという意味だ。昔ながらに生きるというニュアンスがある。過去を引きずり、思い出に浸って昔のことばかり考えて生きるという意地悪な解釈もできる。そんなふうに生きてくよくよばかりする人に“Stop living in the past!”と励ます。「今を生きなさい」という助言である。過去を生き直すことはできないし、いつまでも懐かしんだり執着したりしてもしかたがない。しかし、過去を生きたことは事実であり過去は経験を通じて思い起こすことができる。個別な経験として振り返り今日に生かせる教訓を拾い出すことはできる。その過去と現在は間違いなくつながっている。

では、未来はどうか。未来は生きることも知ることもできない。未来に期待できるのは、過去からも現在からも逃げずに生きている人に限られる。ところで、トーマス・ジェファソンは「私は過去の歴史よりも未来の夢を好む」と言った。身の程を顧みずに異議を申し立てたい。未来志向と言えば頼もしいが、こういう考えが人を反省なき楽天家にしてしまうのだ。少なからぬモラトリアム人間を間近に見てきたぼくは、過去にも現在にも知らん顔して将来にツケを回す彼らの性癖にうんざりしている。ジェファソンのことばは己の励みになるかもしれないが、そんなふうに生きる者は周囲に迷惑をかけていることにほとんど気づかない。


人は未来を知りたがる。しかし、社会、科学、経済、文化……どの分野でもいい、どんな未来が出現するかを見通した先人がどれだけいたか。何百何千という予言のうち一つや二つは後々に偶然現実になったことはあった。だが、まぐれあたりに期待はできない。未来をいかに洞察しようとも、洞察の材料は現実と過去の記憶以外にはない。未来を知る有効な方法はそれだけである。ろくに今の現実を知りもしないぼくたちが未来を知ろうとするのは大それた話だ。ニコラス・ファーンの「人間を知ることができると主張するのは、無数の神話を信じ込んでいる人だけだ」(『考える道具』)という指摘は的を射ている。人間を知らずして未来を知ろうなどとは厚かましい。

過去・現在・未来という文字をじっくり眺めてみると、それぞれの本質がよく見えてくる。過去は「過ぎ去った日々」であり、現在は「うつつる日々」であり、未来は「いまきたらぬ日々」である。現実逃避とは、確実な過去の経験に見向きもせず、さらに確実な今に目をつぶり、一寸先の闇に逃げる生き方だ。言い換えれば、確実なものを信じもせずに不確実を信じる生き方である。今の自分を見失えば、未来に頼るしかなくなる。こうして、意思決定を迫られない子どものようなモラトリアム人間が出来上がる。

タブレット世界の未来

モラトリアム人間は、過去から現在に至る経験というなけなしの貯金を、未来行きのチケット代に使い果たしてしまう。しかし、そんなチケットが存在するはずもない。行先不明のチケットを誰が販売できるだろうか。未来は絵に描いた餅であり、今風に言えばタブレット画面上に錯視する幻影に過ぎない。わざわざ未来へ逃げるには及ばない。何もしなくても、未来は現実になろうとしていつも待ち受けているのだから。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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