イタリア語でエスプレッソを注文するとき、最初の頃は「カッフェ・エスプレッソ」とていねいに言っていた。しばらくして「カッフェ」でいいことがわかった。バールに入って立ち飲みするときは、入口近くのレジで「ウン・カッフェ」(エスプレッソ一杯)と告げてお金を払い、レシートをもらう。そのレシートをカウンターに置いて示せば、バリスタが手早くエスプレッソを作って差し出す。次いで、レシートの端をつまんで指先で少し破る。サーブ済みという印である。
バジリカータ州マテーラ近くのバールでアイスコーヒーを頼んだ。「カッフェ・フレッド」と言う。フレッドというのは冷たい・寒いという意味だから、誰だって「氷の入ったよく冷えたエスプレッソ」のつもりになる。このときばかりは、あまりよく知らないものを不注意に注文すべきではないことを悟った。そのコーヒーは「冷めたコーヒー」に近いアイスコーヒーだった。いや、アイスは入っていないから、どちらかと言うと、生ぬるいコーヒー。アイスコーヒーは日本人が一番よく飲み、そして日本のものが一番うまいのだろう。
プーリア州はレッチェのバール。ここで初めて「エスプレッシーノ」なるものを客が注文するのを耳にした。手元の伊和辞典には載っていない。バリスタに「エスプレッシーノはどんなものか? 」と聞けば、頃合いよく別の客が注文したので、出来上がりを客に出す前に見せてくれた。小ぶりな透明のグラスに入ったカプチーノのようであった。翌日飲んでやろうと思っていたが、ころっと忘れて別の店でエスプレッソを飲んでしまっていた。
カウンターで立ち飲みするときはコーヒーのみが目的。テーブルに座るときは観察、ぼんやり、考えごと、読書、次の旅の計画……。座って飲むときは、レジで先払いせずにテーブルに就く。席料とチップを含めて倍額または倍額プラスアルファになるが、立ち飲みの元値が安いので、一杯300円どまりである。コーヒーの味が重要であることは言うまでもないが、旅のカフェには思い出がついてくる。味を忘れても、その時々の場面や考えていたことはよく覚えているものである。 《カフェの話 完》



