悲しき食品

自分で調理するにせよ店で食べるにせよ、一人の食事で食べものを残したことはない。好き嫌いがまったくないからでもあるが、食べられる分しか作らないし注文しないからである。しかし、数人または団体での食事となると、料理は残ってしまう。食べられた量よりも多い食べ残しは悲惨な残骸と化す。これをMOTTAINAIもったいない“の精神で使ったりすると、横流しだ、使いまわしだと批判される。ゆえに捨てる。

直近のデータによると、わが国の食品廃棄量は年間1,900万トンとのことである(2,700万トンという数字をはじき出している調査もある)。何かと比較しなければ、この数字がどの程度なのかを想像するのはむずかしい。さらに、この数字とは別に、まだ食べられる消費期限・賞味期限内なのに捨てられている、いわゆる「食品ロス」が500万~900万トンと推定されている。要するに、捨てられる食品の総量は2,500万~3,000万トンという数字に達するらしいのである。

こんなふうに数字を挙げられて、「すごい」と驚いたり「ひどい」と嘆いたりできるはずもない。力士の体重150キログラムなら、「そうか、自分の倍くらいか」などと類推できるが、なにしろ1,000万トン単位の重量である。想像の範囲には収まらない。重量だからわかりにくいと思うのなら、金額換算してみればどうか。実際、換算されたデータがある。総額100兆円を超すそうである。百万円や一千万円、頑張れば、あの強奪事件の3億円くらいまでなら何とかついて行けそうだが、兆までは無理である。


大きな数字というのは、左から右へとやり過ごされる幻想だとつくづく思う。しかし、わが国の食品事情をもっとわかりやすく嘆き悲しむ手立ては、ある。まず、「食べられるのに捨てている」という事実がひどいのである。何百グラムでも何万トンでも関係ない。次に、わが国の食料自給率はカロリーベースで39%であり、残りを海外から輸入している。上記で示した食品廃棄物の数字は、輸入食料の半分に相当する。つまり、海外から買い付けておいて、その半分を捨てている勘定になる。これはかなりひどい。

ひどさを痛感するとどめは、食品廃棄の総額がほぼ東京都のGDPに匹敵するという事実だ。東京都の年間総生産が灰燼に帰し水泡に帰しているのである。東京を一国に見立てれば、GDPランキングで世界の16位になる。以前、世界ランク54位のニュージーランドのGDPがウォーレン・バフェットとビル・ゲイツの総資産の合計と同じと聞いてたまげたことがあるが、わが国の食品廃棄の実情には腰を抜かしそうになる。

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捨てるために食品を輸入し、捨てるために食品を加工しているようなものである。もし10個作って売るために11個が必然で、1個が「間引き」扱いされるのならやむをえない。この程度の売れ残りや期限切れには理解を示そう。しかし、最上流に位置する大手企業の、計画通りにならない作り過ぎこそが元凶なのだ。元凶はけろっとしてちゃんと儲けている。横流しや使いまわしも低俗だが、そうさせているのはいったい誰なのかを見極めておかねばならない。

残りものの食品が廃棄物という名に変わるのは、社会が効率やシステムを優先する文明指向だからである。文明というのは厄介で、後戻りを許さない。不法な横流しは論外として、「食品→廃棄→再食品化」に何の問題もない。これこそが本来の食文化の姿ではなかったか。しかし、作り過ぎは食文化の文明化にほかならない。グルメ大国だの食の宝庫だのと言ってみても、単に腹八分目の節度と美学を放棄してしまっただけの話ではないか。解決策は一つしかない。廃棄してもなお利益が生み出される構造を消費者が幇助しないことだ。上手に無駄なく食べることが「悲しき食品」を救い、無駄を作って上手に儲ける食文化の敵を追放するのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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