ある方法が行き詰まり立ち行かぬ事態になったとする。その方法に替えて別の案を示す。現在の方法をテーゼと呼び代案をアンチテーゼと呼ぶ。アンチテーゼは行き詰まりを解決するかもしれないし、不発に終わるかもしれない。
一般的に言うと、アンチテーゼは現在に対する「ノー」である。アンチテーゼが歴史の重要な局面で進化の原動力になってきたのは明らかだ。もっとも進化ばかりが重要なわけではないから、テーゼを守り抜いて成果を出し続けてきた歴史もある。テーゼあってのアンチテーゼであり、アンチテーゼがあるからこそテーゼの価値も認識される。
アンチテーゼには自己陶酔の危険が宿るので、要注意である。たとえば、ある意見への反論がさしたる哲学や信念がなくてもできてしまう。威張れるほどの論拠がないのにノーと言えるし、力関係次第でテーゼがそれでへこたれることもある。しかし、これで勝利したと錯覚して自惚れてはいけない。アンチテーゼにはテーゼに拮抗しうる強い動機がいる。テーゼを動かすだけの哲学や信念という〈テコ〉を持ち合わせていなければ、アンチテーゼを唱えてはいけないのである。
弁証法では、まずテーゼがあり、それにアンチテーゼが対抗し、次にジンテーゼが生まれることになっている。新たなジンテーゼはその時点でテーゼとなり、別のアンチテーゼによって価値を問われる。現実社会では、テーゼとアンチテーゼはいつも攻守交替するものだ。
アンチテーゼがテーゼに対する代案と考えるだけでは窮屈であり、いずれ対立構造を生む。もっと軽やかであっていいとぼくは思う。代案でなければならないと肩肘張らずに、ささやかな助言を呈するだけでもいいのだ。
もちろん、助言が反論だと受け止められるのは常。そのことを了解した上で、しつこくお節介する。アンチテーゼにはお節介の要素が大いにある。お節介は気遣いにほかならない。放置できないと思うからこそのお節介なのだ。テーゼを動かすだけの強いテコに自信があっても、いきなりテコを使わないのがマナーである。