思考の振幅をもう一回りも二回りも広げたい、現状を乗り越えて新たな創意工夫と改革に考える力を生かしたい……この願いに理不尽はない。問題は、それをどう成し遂げるかだ。
考え方が変わった、考えが深まったなど実感はできるだろうが、何が作用したのかを突き止めるのは容易ではない。たとえば、昨日の考えが今日少し深まった、あるいは次の段階に上がったと感じるとする。ぼくの場合、昨日やらなくて今日やってみたことは何かと思い起こす。たとえば、昨日は紙に書かなかったが、今日は書いた……そうそう、自問自答もいくつか試みたなどとビフォー・アフター分析をする。
自問自答を紙に書く行為は思考力強化に即効性を発揮する。とりとめのない思いや考えに「問う」という刺激を与えれば、条件反射的に「答え」を編み出そうとするからだ。腕を組んでぼんやりと思い巡らすよりはよほど脳の働きを後押ししてくれる。行き詰まったら、問うのである。問わずに答えだけが勝手に出てくることはない。
「答えと問いは一体で、答えは問うところにある」(禅語録)、また、「およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる」(ヴィトゲンシュタイン)。禅僧や哲学者でないのなら、しっかりと明文化しておくことだ。
ぼくたちがもっとも依存するのは経験的思考である。言語を通さずに、身体と精神でからめとる固有の経験が考えるベースになる。しかし、経験は偏る。また、何でも経験できるわけではない。だから、不足を他人に依存して補う。対話的思考や交流的思考である。他人とのやりとりや関係によって、思考の受容器は大きくなる。自分にない思考パターンを吸収することができる。
一人の人間の経験などたかが知れている。他人との対話や交流にしても、何百人、何千人を相手にできることはめったにない。経験にも人脈にも限度があるのだ。ここに読書的思考の出番がある。本を読めば、経験外の知識や発想、人脈外の頭脳の力を借りることができる。
本を読むのは荷が重いという人がいる。よく考えてみればいい。どこかに出掛けて何かを経験したり、直接他人と会って意見を交わす面倒に比べれば、実に安上がりで手っ取り早い方法ではないか。本を開いて少々辛抱しながら読み進めれば、望外の知やひらめきに出合う。それは実際の経験以上に価値ある疑似体験になることさえある。
気に入らなければ読み始めた本を途中で閉じるという方法も読書体験の内にある。本を開くのだから閉じることもできる。本には読むと読まないという両方の方法がある。読書でなければ得られない経験があると同時に、惰性でも読めてしまうのが本というもの。読書的思考が功を奏さないこともよくある。そんな時、一ヵ月ほど読書をシャットアウトしてみるのだ。本を読まない日々が続くと、経験と他人だけでは思考の振幅が狭まることがわかってくる。読書断食である。これが読書の方法を整え、それまでとは違う世界に目覚めさせてくれる。