意思決定の上手な人、下手な人

空気を読めるに越したことはないが、空気を読んでから行動を起こしているかぎり、いつまでたっても主体性を発揮できない。他人の顔色や意見や動きに応じる処世術は「反応的生き方」だ。このような生き方では、その場かぎりのおざなりな取り繕いを繰り返すばかりで、やがて辻褄が合わなくなってくる。たとえば、リスペクトする二人の人間が異なった意見を述べる場面に立ち会えば、どちらの意見に反応していいのかわからなくなり、右往左往してジレンマに陥る。 

「私とは、私と私の環境である」とはオルテガ・イ・ガセットのことばである。これによれば、私自身が他者をも含めた環境の一部を成していることになる。他の動物と同じく、人も〈環世界〉の中で生きていくことを運命づけられているものの、無策のまま環境に適応しているわけではない。自分が環境の一部もしくは環境そのものであることを認識するなら、当然自分自身にも反応しなければならない。自分自身への反応とは、とりもなおさず、昨日の自分に対して責任を取ることであり、つまるところ、自分が主体的に生きることにほかならない。
 
自分を除いてしまうと、環境は自分を取り巻く外部だけに限定される。その環境をあたかも部品のように取り扱って、その時々の個別な刺激のみに反応していく人間は、失敗すれば他人のせい、環境のせいだとして責任逃れをする。では、うまく事が運んだ場合も、他人や環境のお蔭だとして感謝するかと言えば、成功の要因のほうだけは自分の努力の賜物だと都合よく解釈するのである。
 

 主体的に生きるとは、他人の一挙手一投足に右往左往せず、運などと呼ばれる環境の変化に一喜一憂しない生き方のことである。他人には自分が投影され、環境には自分が含まれるという発想が責任と情熱に裏付けされた判断を促す。そして、広く冷静に、かつ主体的に考えて行動するという姿勢こそが、我に執着しない柔軟性をもたらすのである。打つ手を幅広く用意周到にすればリスクを回避したり軽減したりできる。問題解決の選択肢が多ければ保険がかかることになる。
岐路.jpgところが、選択の幅が広がると反応的で優柔不断な人は決断できなくなってしまう。普段からイエス・ノーをそのつど表明しなかったツケが回ってくる。退縮の気に支配されて引っ込み思案してしまうのだ。これではいけないと功を焦れば、これまた一人相撲に勇み足というありさまで対処のことごとくが空転する。いよいよ切羽詰った彼らはどんな態度に出るか。自爆テロという暴挙に出る。選択肢はいくらでもあるのに、勝手に二者択一に狭めてしまう。待ち受ける結末は最悪で、ほぼ道を誤る。これが意思決定の下手な人の典型である。
 
意思決定の上手な人間には共通の特徴がある。日々イエス・ノーを明確にして、事態が差し迫る前に小さな判断をそのつどおこなっているのである。悩んでもしかたのないことに時間を浪費せず、悩むべきことこそにエネルギーを注ぐ。五分五分ならどちらでもいいではないかと考える。不必要に遅疑逡巡しない。一見粗っぽいように見えるだろうが、日々迅速性と潔さの訓練をしているのである。この訓練はいざと言う時に生きてくる。重要な意思決定にあたって、白か黒かという窮屈な選択に陥らず、白と黒の間で変幻自在に最善に近い判断を下せるようになるのだ。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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