抜き書き録〈2023年4月〉

あっと言う間に4月が過ぎようとしている。3月末から4月いっぱいは何かと慌ただしく気忙きぜわしい。未読本に真剣に向き合う時間が取れない。隙間があれば何度か読んだエッセイや創作を拾い読みする。全体の筋を追うわけではない。どちらかと言うと、新聞雑誌の記事をクリッピングするような感じ。

📖 夏目漱石『草枕』

山路やまみちを登りながら、こう考えた。
に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。

何度も読んでいるので引用した文の後もそらんじることができる。いつ読んでも簡明で調子のよい名文だと思う。冒頭でいきなり「智(知)、情、意」が対比される。それぞれがアリストテレスの〈ロゴス、パトス、エトス〉に偶然対応しているのがおもしろい(講演のネタとして何度か使った)。
人の資質の3点セットだから、偏ることなくバランスよく用いるのが望ましいが、それができないからみんな苦労するのである。

📖 吉田篤弘/フジモトマサル 『という、はなし』

逃月逃日
都会の埃が
――決して誇りにあらず――体の中にしんしんと降り積もって、いまにも警戒水位を超えそうになっている。

黄砂がニュースになる前に書かれた本だから、黄砂のことではないだろう。しかし、黄砂が取り上げられる前から、都会ではいろんな埃が飛び舞い上がり、そして降り注いでいた。「東京砂漠」という歌もあった。先日、NHKの気象予報士が「洗濯物を取り入れる前に三度はたいてください。サンドだけに」と言っていた。
ところで、これがどんな本かを説明するのは難しい。別のページの次の一文がヒントになるかもしれない。

逃月逃日
朝食、菓子パン一個。昼食、菓子パン一個。夕食、菓子パン二個。

……という(ような)、はなしが多い。これではヒントにならないか。

📖 中野孝次 『人生の実りの言葉』

薔薇ばらはなぜという理由なしに咲いている。薔薇はただ咲くべく咲いている。薔薇は自分自身を気にしない、ひとが見ているかどうかも問題にしない。

アンゲルス・シレジウスという17世紀ドイツの詩人のことば。こうして読んでみると、5月頃に訪れるバラ園のバラのすべてがただ咲きたいから咲いているように思えてくる。
続いて、著者は次の北原白秋の「薔薇」と題した詩を紹介する。

薔薇バラノ木ニ
薔薇ノ花サク。

ナニゴトノ不思議ナケレド。

バラの木にバラの花が咲いているのは何百回も目撃している。一度も不思議に思ったことがない。バラの木にバラの花が咲く。これほど完璧な描写はないが、これを写実と呼ぶのかどうか、よく知らない。

語句の断章(40)古本

古本と書いて「ふるほん」と読む。それ以外の読み方はありそうにない。かつてぼくも知らなかったが、古本は「こほん」とも言うのである。昔はそれが本家だったようだ。

『新明解国語辞典』では「所有者が(読んだあと)、不要として手放した本」を古本ふるほんとしている。ご丁寧に「読んだあと」と補足してあるが、別に読んでなくてもいい。書店で新刊を買ったが、読まずに本棚に置いていた本も処分すれば古本ふるほんである。また、手放した本だけが古本ふるほんなのではない。ぼくの本棚には、所有者であるぼくが読んだあとも置いてある古本ふるほんが全体の半数を占めている。

『新明解』は古本こほんも取り上げていて、「(同種の本の中で)増補・改変される前の原形を比較的多く伝えている本」としている。書かれたり出版されたりしてから時代を経ているので、いわゆる古書である。令和の現在から見て平成の本を、たとえ希少だとしても、古本こほんとは呼びづらい。しかし、新約聖書を遡っていき、マルチン・ルターの最初の聖書の面影を残している時代物に出合ったのなら、それは古本こほんと言えそうだ。

「新古本」という類もある。「しんこほん」または「しんこぼん」と読む。新しいのか古いのかよくわからない。行きつけの古本屋の店頭に時々並ぶ。先日買ったエッセイ集はそこに並んでいた一冊である。

奥付には「2016625日 第1刷発行」と記されている。7年前に発行されたので新刊ではなく、しかも増刷もされていない。書店で売れ残った本が出版社に返品され、通常の再販制度とは違った流通ルートに流れるのが新古本。

かと言って、一度も売られておらず誰の手にも渡っていないので、古本ふるほんではない。実際、この本は完璧な新品。しかし、堂々と胸を張って新刊とは名乗れないワケアリ本である。「新品同様、だいぶ前に出版された売れ残りの本」が新古本。新刊と古本ふるほんのちょうど中間くらいの値付けがされている。

その「必要」を問う

ボウルに盛られた野菜を見せて、「1日に必要・・な野菜は、なんとこれだけの量」と告げるコマーシャルがある。「これだけ食べるのは無理です!」と反応する女性アシスタント。続いて「それなら、青汁を飲みましょう」という展開になる。はい、左様でございますかと素直になれないのは、へそ曲がりのせいではない。

アシスタントが一目見て食べられそうにない量の野菜。それを毎日必要・・だとすることにそもそも無理がありはしないか。人間は毎日それだけの野菜の栄養分を摂取しなければならないという栄養学説。各種野菜に含まれる栄養素が青汁一杯だけで摂れてしまうのなら、他の野菜は一切要らなくなる。これだけの野菜が必要・・だと提起したのに、要らないという結論が導かれてしまう。

ところで、必要・・とは何か。「あることを満たしたり叶えたりする上で無視できない要素や条件があって、それを怠らずにしっかりと用いること」と定義してみた。〈Aを実現するためにB必要・・〉という図式である。海外旅行するにはパスポートが必要・・、血液検査をするには注射器が必要・・、という具合。野菜の例で言えば、次のようになる。

1日に必要・・な野菜の栄養分(A)を摂るにはこれだけの量の野菜(B)が必要・・

図式に当てはめて文意を通そうと思ったら、必要・・2回使うことになる。パスポートや注射器のようにすんなりと納得できないのは、「これだけ必要・・」という野菜の量に全幅の信頼が置けないからだ。したがって、「これだけの野菜の量の栄養分を摂るには青汁が必要・・」という結論にも「待った!」をかけざるをえない。

意味が明快なようだが、必要・・という用語は「不要」に比べれば曖昧である。不要に程度はない。要らないものは要らないという同語反復が可能である。対して、必要・・にまつわる条件は何一つ決まっていない。条件を規定するのは誰かであって、どの程度必要・・なのかはつねに一定ではない。「る」と言いながら、質や量はそのつど変わる。

「印鑑は必要・・ですか?」「はい」「忘れたんですけど」「じゃあ、サインで結構です」……というやりとりの経験がないだろうか。あるほうがいいが、なければないでオーケーという場合でも、とりあえず言っておく。必要・・とはそんなものなのだ。

備忘録の備忘力はどの程度?

万が一「何か」を忘れた時に、その何かを思い出させてくれるのが備忘録。忘れたり思い出したりすることに先立って、まず備忘録に書きとめておかないといけない。備忘録を失くせば記録はなくなり、備忘録をめくるのを怠ると記憶は再生できない(そうそう、忘れないようにとカレンダーに書き込んだアポの予定も確認する必要がある)。

備忘録に書きとめておくと頭の片隅に残りやすくなる。しかし、何年も前のことや必要に迫られていない「どうでもいいこと」はやがて忘れてしまう。時々、備忘録を見るがメモを書いた理由がわからないことがある。忘れても別に困らないことがいっぱい書いてある――備忘録とはそういうもの。どうでもいいことなど書かなければいいのに、人はどうでもいいことにこだわる生き物なのだ。

出典や見出しを書き添えていないと、メモが意味を失ってしまうことがある。下記に紹介するのは、文字や行間から意味を汲みとらないと、なぜ書きとめたのかを思い出せない断片的実録メモである。


📝
2020115日 わが国最初のコロナ感染者
2020年115日 高知、牧野植物園
2020年126日 高津神社で梅の観賞
2020年211日 京都(平安神宮~白川)散策
2020年215日 ディベート大会

㊟ すべての月日の前にわざわざ「2020年」と書いているのが妙。続けて何かを書こうとしたに違いないが、思い出せない。

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チキンビリヤニ
マサラドーサ
ミックスタンドリー
ポークビンダルー
ベジタブルカレー
チキンカレー
ドライベジタブルカレー
マトンカレー
サラダ
ラッシー

㊟ ひいきにしている南インド料理店で初めて注文した土曜スペシャルランチのラインアップ。おかずがたくさん付いていた。明らかに備忘のためにおかずの名称をきちんと書いたと思う(特にマサラドーサとポークビンダルー)。その後何度か食べたので、ビリヤニ単品が1,200円だと知り、スペシャルセットの1,800円がお得だということを知った

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モタレ=トリの一つ前の出番(別名「膝変わり」)
トリ食いのモタレ
シバリ=トリの二つ前

㊟ 「米朝と幸枝若」の対談の中に出てきた専門用語をメモしたのを覚えている。トリはともかく、モタレとシバリをどこかで使ってみようとした魂胆が見透かせる。

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痛狂つうきょうは酔わざるを笑い、酷睡こくすい覚者かくしゃを嘲る。
物に定まれるしょうなし。人なんぞ常に悪ならん。

㊟ 前後のメモに毎日新聞の切り抜きや「高野山の名宝」を観た話があるので、おそらく空海の言葉を書きとめたのだろう。知ったかぶりするにしては、ぼくごとき才では荷が重い。

📝
本の修復を依頼する男性:「伝統を守ることが私たちの人生なのです」。
仕立て屋:「伝統的な背広のスタイルを守る。流行は追わない」。

㊟ この一節を転記しているうちにフィレンツェの伝統職人をテーマにしたテレビ番組であることを思い出した。不完全な備忘録であっても、ページを繰って読み返しているうちに記憶を辿れるものである。

様々な考えよう

考え方次第で物事がどうにでも解釈できることを「ものは考えよう」という。考えよう一つで良く見えたり悪く見えたり、また、楽観的に思えたり悲観的に思えたりする。

様々な「考えよう」があるが、ひとまず、〈深浅しんせん〉について考えてみた。昔も今も「考えが浅い」のは良くないから、「浅く考える」はいきなり論外か。いや、それがそうとも言い切れないのだ。「深く考える」にしてもいいことづくめではない。こんな泥沼に入るのがわかっていたら、深く考えることなどなかった、もっと浅いところでやめておけばよかった、という場合もある。

何かをわかろうとして深く考えても不十分なことがある。浅く考えることが時には必要になる。何かがわかるために深海的思考と浅瀬的思考の両方がある。優劣比較ができるものでもなく、また浅く考えた次に深く考える段階があるのでもない。「きみの考えは浅いから、もっと深く考えるべきだ」というのは道徳論にすぎない。

深い考えのほうが浅い考えよりも良く見えるのは多分に偏見である。余談になるが、論理的思考と直感的思考にも偏見がある。論理的思考は直感的思考の上位ではない。それどころか、直感によって論理の硬直性から解放されることがある。


広く考えると狭く考えるにも同じことが言える。どちらが優れた考えようか? という問いに答えはない。常識的には広いほうが狭いよりもいいようだが、そう言われ続けてきたからそう思ってしまうだけ。思考は土地の面積の〈広狭こうきょう〉と同じように扱えるものではない。

通常は、深さと狭さがセットになり、浅さと広さがセットになる。専門性が行き過ぎて周囲が見えなくなる時、「広く浅く考えること」が推奨される。どうやら〈深〉と〈浅〉も〈広〉と〈狭〉も、どちらか一方の考えようでうまく行かない時に、補完的な役割を担うようである。

かつてある企画の仕事中、脇目もふらずにもっともっと深く考えようとして谷底で動けなくなった。諦めて這い上がってしばらくした頃、エドガー・アラン・ポーの「熟考とは(必ずしも)深さではなく、見晴らしの良さである」という意味の一文に出合った。それで救われたし、その後の企画の拠り所にもなった。考えようの基本に〈深浅広狭〉がある。

牡蠣食気考

先月、すでに旬が終わった。それなのに、今頃になって『牡蠣食気考』と題して、食べ足りなかった牡蠣の話をするとは未練がましい。

牡蠣食気考は「かき/くいけ/こう」と読めるが、ついでに語呂よく「かきくけこ」と収めたい。何でもかんでも好き嫌いせずに食べる気満々、牡蠣ならなおさらのこと、一目散で食い気に走る。

牡蠣の季節が始まる晩秋になると、いつも「昨年はあまり食べた記憶がない。今シーズンは食べるぞ!」と決意し宣言する。その割には年内と1月はせいぜい一、二食程度で、あまりガツガツしない。プランクトンが豊富になる2月から牡蠣はいっそうおいしくなる。牡蠣の旬を2月初旬から3月中旬に定めて集中摂取するのだ。しかし、牡蠣と同等においしい食材に恵まれる年は牡蠣を食べ損ねてしまい、気がつけば季節は春になっている。

ぼくの集中摂取などせいぜい1ダース、たかが知れている。中世フランスのアンリ4世は一度に20ダース食べたという。ローマ時代の軍人アルビヌスはその倍の500個を食した。これで驚いてはいけない。そんな数は可愛いもの。同じくローマ時代の大食漢ヴィテリウス帝は一度に100ダース、なんと1,200個の生牡蠣を平らげたという記録を残している。

カキフライ20個は無理でも、レモンを絞るか塩でつるりと味わえる生牡蠣なら20個はいけそうだ。

「サカナは外国人と日本人では食べ方が異なるが、牡蠣だけは万国共通で生を食べる。大げさのようだが全世界の人々が牡蠣の旨さを知っているからだろう」
(岩満重孝『百魚歳時記』)。

広い世界、広い日本に有数の牡蠣の産地がある。牡蠣はどこの産地が一番うまいかなどと論じても意味がない。牡蠣について言えば、旬がうまいと言えば事足りる。あとは人それぞれの好みだ。地元の人たちは地場がうまいと思っている。日本の生牡蠣はおおむね実入りがよく厚みがあるが、パリで何度か食べた生牡蠣は薄っぺらい。それが彼らの舌に合うし、口に入れてみればわかるが、生食にもってこいの味とサイズなのだ。

パリはバスティーユのマルシェ(2011年11月中旬)。牡蠣1個1.6ユーロと書いてある。当時は円高で1ユーロ105円だった。1個168円くらい。

フランスではカキフライという食べ方をしない。ほぼオイスターレモンである。機会損失だと思うが、生牡蠣で十分なのだろう。しかし、牡蠣は食材として万能。焼いたりグラタンにしたり蒸したり刺身にしたりと、あの手この手で料理を工夫すれば、巨漢の大食いヴィテリウス帝には及ばなくても、2ダースくらいなら問題ない。終わりに、自作の牡蠣料理のいくつかを紹介しておく。

オリーブオイルで煮た牡蠣のコンフィ。
殻付き牡蠣のポン酢。
加熱用牡蠣のニンニクとトウガラシのマリネ。パスタに使う。
実入りのいい牡蠣めし。

㊗「四月、春になった」

🌿 四月、春になった。桜が咲き始めてもまだ春とは呼ばない。満開を経て散り始めた時からが春本番だ。気象庁の開花宣言に倣って、今朝、春本番宣言をしておいた。

🌿 集合住宅のわが家には庭がない。芝生もないので、隣の芝生が青く見えることはない。しかし、新メニューが出る春のレストランでは隣りのテーブルの誰かが注文した料理がおいしそうに見え、「あれにしておけばよかった」と後悔するのが常である。

🌿 陽射しが快い。都会の日時計が午前10時半を示していた。腕時計と若干誤差があるが、日時計の鷹揚な時の刻み方にクオリティ・オブ・ライフを思う。「だいたい」とか「~頃」とか「およそ」とかは人間的である。

🌿 春は役割を終えたノートが新しいノートにバトンタッチする。おろしたてのノートの最初のページにペンを走らせるのは、なぜあれほど快いのだろう。約半世紀にわたってノートを愛用し、断続的にシステム手帳を併用して、何もかもそこに一元化して書き込み綴じてきた。「いったい何を書いているんですか?」とよく聞かれる。「いいネタとくだらないネタを半分ずつ」と答える。

🌿 何かを食べ、あるいは何かを見て、ついついいろんなことを連想して、ついでに蘊蓄ウンチクを傾ける。蘊蓄よりも意味あることがいくらでもあることくらい重々承知している。「また蘊蓄?」などと嫌味っぽくも言われる。それでも、やっぱり蘊蓄がいるのだ。蘊蓄しなければ物事の重要性のありかに気づかないのである。

🌿 四月は新年度のスタート。「新しい」とは「よく知らない」ことでもある。よく知らないならよく知っている人に聞くのがいい。ぼくもよく聞かれるので、推薦する。一つに絞るのが難しければ「一推しイチオシ」を筆頭にいくつか挙げる。二番目を「二推しニオシ」と言うのを最近知った。まさか「三推しサンオシ」とは言わないだろうと思ったが、それも言うらしい。今のところヨンオシの用例は見つかっていない。

続々・反知性主義に処する道

知性を重んじるか、または反知性に与するかは個人によって異なる。それで何ら問題はない。厄介なのは知性や反知性にくっつく「主義」のほうだ。『新明解』は主義を「自らの生活を律する一貫した考え方と、それによって裏付けられた行動上の方針」と定義している。日和見ではなく付和雷同でもないから、とても誇らしく見える。

 

しかし、行動上の方針が自らの生活にとどまっているうちはいいが、勢い余って「他人の生活」まで律するようになると、一貫した考え方が「多様性の拒絶」に化けかねない。主義とは、ある意味で一途いちずに思い詰めることであるから、自分が信じること以外に目を向けなくなる危うさが漂う。

主義が危ういのだから、知性主義も反知性主義も危うい。主義は知に合わない。知性が批判を浴びるのは、主義に拘泥するあまり他の感覚・資質に譲歩しないからである。鼻持ちならない権威や窓外に別の世界を見ない研究室エリートが批判対象になるのもやむをえない。反知性の苛立ちにも一理あるが、主義を旗印にするかぎり彼らの批判精神も功を奏さない。


知識と証拠を踏まえて「お前はバカだ!」と主張するのが知性主義だとすれば、「バカをバカ呼ばわりするほうがバカだ、バーカ!」と、プリミティブな幼児感覚で反論するのが反知性主義。五十歩百歩である。論争が聖域なき口論になると、知性は反知性に吸収される可能性が高くなる。ドナルド・トランプの言動は多くの支持者にとって、反知性主義の原風景なのだろう。偉大なアメリカという幻想的ノスタルジーが直感的に掻き立てられるのだ。

自分を顧みると、いつも知性と反知性の間を行き来していることに気づく。おおむね理性的に考え、ものを言い、行動しているつもりだが、知を基軸にせずに判断している場面も少なくない。知性と反知性は優劣の天秤で量れない。主義として対立している間は低レベルの互角と言うしかない。いずれが「良識」に適っているかによって判断するしかない。良識こそが共通感覚であり共通言語である。そこから逸脱していないほうに共感を覚える。但し、繰り返しになるが、良識を持ち出してもなお、優劣の決着がつくとは思えないが……。

〈終〉

続・反知性主義に処する道

「(啓蒙とは)人間が自分の未成年状態から抜け出ること」(イマヌエル・カント)

成人であるにもかかわらず、未成年の状態にあるのは、誰のせいでもなく、お前さん自身が招いたものだよ、とカントは言う。いいおとながいつまでも幼稚なのは、理性を用いようとする決意と勇気を欠いているからにほかならない。

「(米国の反知性主義とは)知的な生き方およびそれを実践する人々に対する憤りと疑惑である。そして、そのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向である」(ホーフスタッター)

知的な生き方は一部の人たちにとってわかりにくいのかもしれない。あるいは、面倒臭そうに見えるのかもしれない。たしかに、知的な生き方を理解するにはある程度の知性が求められる。それに比べると、反知性主義者の言うことや行動はわかりやすい。

「メキシコとの国境に壁を作れ!」(ドナルド・トランプ)

反知性主義者は良識からズレた発想をする。しかし、ある意味でユニークな発想と言えるかもしれない。国境に壁を作るとか連邦議会を襲撃するとか、良識に随う知者ではなかなか思いつかないアイデアだ。


反知性主義には明けても暮れても同じことを繰り返す傾向が見られる。繰り返しと継続は力の源である。多様性の時代なのに、持ち合わせのワンパターンな知識で間に合わせてしまう。一般的には、知識や教養は自分のためのみならず、社会にある程度適用するために身につけるものだと考えるが、反知性主義はそのように生きようとする善良な人々を気取ったインテリと見なして先制攻撃を仕掛けてくる。

かつては知性主義だった反知性主義者がかなりいる。知的に振舞うのが面倒臭くなった者たちである。別に考える力が衰えたわけではない。むしろ、カント言うところの「脱理性で未成年状態に入る」ほうが楽だから転向・・したのだろう。

スポーツマンが肉体を鍛えるのをサボれないように、知的生活者は知識を身につけ理性的に考えるなど、知を鍛えることを怠れない。しかし、知的スタミナが切れてきて、知的鍛錬への執念は薄れてくる。それでも、自分が反知性化しつつあることに気づかない。特にシニアの場合、「おい、難しい話はやめようぜ」と「読書が億劫になった」が反知性化の兆候だ。

進展性のないパターン化と陳腐化、同じことを繰り返す神経、型通りな道徳論、こうすれば他人は喜ぶだろうという独りよがりな固定観念……。よく考えてみると、反知性はイデオロギーとは無関係の、日常にも潜む。身近に何人かいるはず。気づいていない本人に注意を促してあげたいが、切り出し方が難しい。

反知性主義がダメで知性主義がいいと言っているのではない。昨日書いたように、反知性主義の対立軸は「良識」である。反知性主義を唱えるすべての人が知性を欠いているわけではないが、ほぼすべての人が良識に問題を抱えている。

〈続く〉

反知性主義に処する道

知的権威やエリート主義に対して〈反知性主義〉は懐疑的な立場をとる。事実やデータや証拠を重視せず、理性的であるよりはプリミティブな感覚的判断を優先する。わかりやすく言えば、権威やエリートとは生理的に合わず、とにかくムカついてしかたがないのである。

知的な生き方に文句を言われる筋合いはない。それが個人的な実践であるならなおさらだ。知性は憎まれる対象にはならないし、反知性主義者にしてもいちいち個人の知性にいちゃもんをつけているわけではない。彼らが目のかたきにするのは知的な生き方やそれを実践する知性ではない。〈知性主義〉という鼻持ちならないイデオロギーが気に食わないのである。

自分の周囲の目につくところに知性主義が目立つから、それに苛立って反知性主義が対立する。反知性主義を無知だ、幼稚だと批判するのはたやすいが、その前に行き過ぎた知性主義――愚か者と決めつけた人々に対する優越意識やエリート意識――にも反省を加えてみる必要がある。他人をバカ呼ばわりしていては折り合いのつけどころは見つからない。

ともあれ、反知性主義もまた、少々厄介なイデオロギーになった。これに対して、知性主義が逆襲してもなかなか「試合」にならない。知性主義が事実やデータや証拠で反論しても功を奏さない。なぜなら、反知性主義にとっては他人の事実やデータや証拠はことごとくフェイクに見えるからだ。議論しても接合しないし論点は嚙み合わない。論争して通じ合える共通言語が見当たらない。

知性に対する反知性、その反知性に対する知性という構図では堂々巡りの言い合いに終わる。知性主義はじっと我慢して主義を捨て、新たな対義語を編み出す必要がある。たとえば「良識」がそれ。知性主義の復権などといきり立たずに、「反知性 vs 良識」というような対立軸によってひとまず反知性主義を軽くいなしてみるべきではないか。

〈続く〉