漠然とした明日に夢を託す習性が誰にもある。つらい今日を何とか凌げているのは、このつらさから解放してくれそうな明日を垣間見るからだ。いや、別にそれが現実の明日でなくてもよく、未来のいつかという意味の明日であってもいいのだろう。このような未来指向は「今日-明日」という時間軸だけにとどまらない。ぼくたちは場という空間軸に対しても同じように向き合う。すなわち、つらい「ここ」を通り過ぎれば、きっと満足できる「どこか」に辿り着けるだろうという期待である。そのどこかは、ほとんどの場合、「逃げ場」にもなっている。
今日が明日に、そしてこの場所が別の場所につながっているという、ある種の「持続感」がぼくたちを覆っている。ところが、たとえば「瞬間こそが時間の真の固有の性格である」(『瞬間と持続』)と語るバシュラールに耳を傾けるとき、時間軸には「いま」しかないことを思い知る。「持続は、持続しないいくつかの瞬間によって作られる」という彼のことばは、持続という観念が「この瞬間のありよう」と矛盾していることを示唆しているかのようだ。
この時間・この場所を〈いま・ここ〉、先の時間・別の場所を〈いつか・どこか〉と呼ぶことにしよう。ぼくたちが〈いま・ここ〉をまず主体的に生きなければならないことは明らかである。〈いま・ここ〉しかないという充実があってはじめて、〈いつか・どこか〉の充実もありえるだろう。逆に、〈いま・ここ〉に不満足なら、来るべき〈いつか・どこか〉にあっても不満足であり続ける確率は高い。〈いつか・どこか〉を幸福にするための最低限の条件は〈いま・ここ〉における幸福感に違いない。
〈いま・ここ〉こそが、疑うことのできない、現実の直接的な経験なのである。〈いま・ここ〉はとても明快なのである。〈いつか・どこか〉ばかりに注意が向くあまり、〈いま・ここ〉がおろそかになっていては話にならない。未来の出番はつねに今日の次なのだ。未来を迎えるにあたっては誰も今日をパスすることはできない。ちょうど今日を迎えることができたのは、過去の一日たりとも、いや一瞬たりともパスしなかったからであるように。
書き綴っていながら呆れるほど、こんな当たり前のことを、なぜぼくたちはすぐに忘れてしまうのかと自問する。〈いま・ここ〉で残したツケは必ず〈いつか・どこか〉で回ってくる。〈いま・ここ〉で考えること、語ること、行動することは、〈いつか・どこか〉でそうすることよりも確実である。にもかかわらず、そういう生き方から逃避するかのごとく日々を送ってしまう。かつては「モラトリアム」という一語で表されたが、「〈いま・ここ〉リセット現象」と名づけたい。あるいは、「未来確約幻想症候群」と呼んでもいい。
あまり先人の言ばかりを典拠にしたくはないが、ぼくには思いつかない言い得て妙なので、再びバシュラールのことばを引く。「行為とは、何よりもまず瞬間における決心である」。その瞬間、誰もが「ここ」にいるから、「行為とは、何よりもまず〈いま・ここ〉における決心」と言い換えてもいいだろう。決心こそが行為と言い切っている点に注目したい。仕事であれ趣味であれ、その「決心-行為」の担い手は自分を除いて他にはない。