旬感覚で生きる

好物のホタルイカがしゅんである。旬はしばらく続くが、この時期が一番旬なのかもしれない。北陸へ行く機会があれば食い逃さずに帰ってくる。ふつうは酢味噌で食べるが、ご当地へ行けば刺身がいい。昨年はしこたま刺身をいただいた。珍味として少々口に運んでは酒を呑むのがいいのだろうが、腹を空かした少年のように、人目を無視して卑しく頬張った。残念ながら、今年は旬の季節に訪れるチャンスはなさそうだ。

魚介や野菜や果物などがおいしくなる季節、あるいは市場によく出回る時期のことを〈旬〉という。大都市に住んでいると便利なスーパーが年がら年中何でも提供している。いや、これは大都市だけの現実ではなく、日本全国津々浦々の傾向と言ってもさしつかえない。それほど季節感が途絶えつつある現在だ。それでも、四季の風合いに恵まれたこの国では、ちゃんと生態系が機能していて、「今しかない恵み」を授けてくれる。

食材の頃合いを示す旬ということばは、転じて、物事をおこなうのに最も適した時期を意味するようになった。それは、「絶妙のタイミング」のことである。少々早いのは許せるとしても、一分一秒でも遅くなると「旬が外れる」と言わざるをえない状況や場面がある。自然の旬は来年もやってくるだろうが、仕事や人事に関する旬というものは取り戻すことはできない。いまこの瞬間を逃してしまっては二度と巡ってこないのである。


わずか数十秒遅刻しただけなのに、新大阪駅発の予約していた新幹線のぞみに間に合わなかったとしよう。これは、東京駅到着時点で半時間近い遅れになる。そこから乗り換えで、たとえば那須方面へ乗り継ぐとしよう。本数が東海道新幹線よりも減るから、現地到着時点では1時間から2時間遅れるはずである。たった12時間と甘く見てはいけない。ぼくのように講演活動をする者にとっては致命傷になる。飛行機を使わねばならない離発着の少ない地域だと、半日、いや一日遅れになることだってあるのだ。

仕事上の旬に甘い人間が少なからずいる。彼らのほとんどが、期限への目測がいい加減だ。彼らにはふつうの感覚の一週間先が一ヵ月先に見えている。明日が一週間先に見えている。「あと数時間しかない」という良識的感覚を持ち合わせず、「まだたっぷり数時間もあるさ」と鈍感に構える。そして、だいたいにおいて、仕事の旬をわきまえない連中は、食の旬にもめっぽうくらいのである。

五大にみな響きあり、十界に言語を具す、六じんことごとく文字なり、法身ほっしんはこれ実相なり。

空海のことばである。旬と関係があるのかといぶかってしまいそうだが、実は、五大(地、水、火、風、空)のすべてに響きがあって、響きは生命のすべてに現れ文字やことばにもリズムがあることを語っている。上旬、中旬、下旬という区切りで言えば、一年は10日単位で36の旬から成り立っている。そう、旬とはリズムのことなのである。宇宙や世界は大きすぎるとしても、社会や人間関係や生活・仕事の調和的なリズムが、旬への感度を鋭敏に保ってくれている。旬感覚の喪失は、生活オンチ・仕事オンチ、ひいては良識オンチを招くことになる。旬を侮ってはいけない。

「決め」の時、年末

その年が良くても悪くても、時は流れて年は変わる。カレンダーがあるかぎり、節目と決別することはできそうもない。何はともあれ、今年の舞台に幕を降ろさねばならないし、降ろすや否や新しい舞台の幕が開く。うやむやの幕切れは新年に憂いを持ち越すから、反省も含めた気持の決算、近未来を見据えての気持の決心をしっかりしておくに越したことはない。そう、「決め」ておかねばならない。

決めと言えば、野球のピッチャーなら「決め球」と答えるだろう。ご承知の通り、全球が決め球だと決めの効果がない。一人の打者に決め球は一球のみ。いや、勝負どころでは1イニングに一球ということすらあるかもしれない。早すぎる決め球は功を奏さない。また、遅すぎる決め球というのは存在しない。決め球は一球しかなく、その一球で決められなかったら、その後はない。「決められなかったので、もう一度決めます」という言い逃れもありえない。決めるとなれば、決めるしかないのだ。

格闘技なら「決め技」ということになる。そうそう、「決め台詞ゼリフ」というのもある。特定の場面で何度も繰り返され、観客が心待ちにしているフレーズも決め台詞と言うが、「そろそろ出るぞ」と予感でき、かつ「待ってました!」とワクワクするようなら、決め台詞などではなく「決まり文句」と呼ぶのがふさわしい。座右の銘に近いものは決め不足なのだろう。決め台詞にはタイミングと、場合によっては、即興性がなければならないと思う。


年越しそばなどいつ食べても同じはずなのに、晦日に食べるとなると「決めそば」になる。年越しそばには、これにて打ち止め、以上、終わりというようなニュアンスが出てくる。しかも、タイミングは絶対条件だ。クリスマスの日に年越しそばは落ち着かない。ところで、そんなに押し詰まってからの食事ではなく、ぼくには日々、今日のランチは「これしかない」という、「決めランチ」がある。もちろん、決めランチと言うくらいだから、毎日あってはいけない。多くても週に一回、できれば月に二回くらいが望ましい。

たいてい前日の夕食後に「明日のランチはこれだ!」と浮かぶのが決めランチ。あるいは当日の朝食後に「今日のランチは、つべこべ言わずに、あれで決まり!」という具合。前の週に「来週の金曜日はビフカツ」というインスピレーションが湧き立つ時さえある。決めランチの日の午前中に誰かから電話があって、別のランチを食べる破目に陥ることもある。決めランチを楽しむのは基本的に一人なので、誰かと一緒になればそこまで意地を張れない。「ランチ? いいよ。でも、今日は絶対○○を食べるつもりだから、それでよければ一緒に行こう」などと注釈つけるのは大人げない。

決めランチのつもりで店におもむくのだが、店のほうで出すメニューがぼくの期待に応えて見事に決めてくれるとはかぎらない。だが、これはやむなし。先週か、昨日か、今朝に、あの店であのメニューを食べようと決めにかかったぼくの責任である。自慢するわけではないが、ぼくが決めランチをして訪れる店はだいたい寿命が長い。つまり、そのような店はおおよそ評判がいいのである。惜しいことに、よく決めそばをしていた蕎麦屋が閉店を決めた。勝負に出る決めとは違って、勝負を諦める決めには哀愁が漂う。