帯に短し襷に長し

かなり意識して節約したはずなのに、結果は浪費になっていた……「今夜はゴージャスな食事を楽しもう」と勇んで外出したが、結局ラーメンと餃子で帰ってきた……。あることを目指したつもりがその反対の結果になる。目論見通りに事が運ばなかったということだが、取るに足りない小さなことへのこだわりが原因だったりする。

そうなのだ。紙一重で一流と二流が振り分けられるように、ほんのささいな行為や発想が分岐点で明暗を分けている。望みが叶う確率が二分の一であってもいいはずのことが、往々にして叶わない方向へと傾く。期待は泡と消えることが多いし、企みは頻繁に的を外す。
 
買物でよく経験することがある。たとえば、店でちょうどいい具合の色のネクタイを見つけて買って帰ったのはいいが、自宅の鏡の前に立つと店で感じた色とは微妙に違っている。ネクタイならまだしも、スーツだとかなり後悔することになる。ちょっと明るめの紺の夏スーツを昨年買ったが、これが自然光に当たると紺ではなく青に近い鮮やかさだったのだ。明るめということは承知していたが、紺ではなく青だったとは……。出番を与えないと後悔に苛まれるから何度か着てみたが、しっくりいくはずもない。自分の受け止める現実とは別の現実が存在する。
 

 絶対的な尺度からすれば、帯にも襷にも使えるちょうどいい長さの紐などはありえない。とは言え、都合よくその紐を巧みに使いこなす人も現実にいたりする。「帯に短し襷に長し」と見切られた紐を、巧みに帯と襷の両用に使いこなす柔軟な器用人である。では、自分には合わないが他人に合うことが納得できたら、収まりがつくのだろうか。自分に合わなかったが、そこで諦めずに自分に合うように思い直して、叶わなかった願望を、泡と消えた期待を、的の外れた企みをリセットしてみたいのではないか。事は、やはり主観的なのである。
 
フィレンツェバッグ.jpg二、三度だけ使って納戸に入れたままの鞄を取り出した。もう13年も前にフィレンツェの老舗工房で買い求めたものである。決して値の張る代物ではないが、どこででも見かけるブランドバッグと違うし無印ゆえの手作り感もある。この鞄、総革なのでかなり重い。そのことは買ったときにわかっていた。濃い茶色という認識だったが屋外では赤っぽく見える。まあ、これも承知していた。けれども、帯に短し襷に長しの感覚がぬぐえない。通勤鞄として使うと中がガラガラ、荷物の増える一泊出張になると今度はギュウギュウなのである。
 
紐にしても鞄にしても、思い通りにはいかない。もとよりぼくのニーズに特別に合わせて作られたものではない。そして、思い通りにいかないのは、紐や鞄のせいではなく、自分の内なる硬直的な理想へのこだわりゆえなのである。用途もろくに考えずに買ってしまったのだから悔やんでもしかたがない。自分に合わないことに地団駄を踏むのはお門違いというものだ。紐や鞄を生かしてやるべく、それらに合った用途を自ら編み出すべきなのである。
 
思い通りにならないことをモノや環境や人のせいにして苦労している人たちがいる。思い通りになりそうなモノや環境や人だけを求めていると、事情は複雑化し時間もコストもエネルギーも増大するばかり。ほんの少しやわらかい発想を身につけるだけで、話はシンプルになり早く安く手軽に対処できるはずである。

「なかったことにする」処し方

先週の講演で表題の「なかったことにする」が何を意味するのかを話したら、想像以上にウケがよかった。かぶりつきに座っていたT氏は特に気に入ったようで、懇親会での中締めの挨拶でこの言い回しを使われていた。先週書いたブログでも選択肢の一つとしての「なかったことにする」という話を取り上げた。

市場分析や他社分析と言うが、いったい何に関してどれだけの情報を集めてどのように読めばいいのか。誰もその解答を持ち合わせてはいない。たとえば顧客のニーズは知りえるのか。顧客はニーズが何であるのかをことばによって第三者に伝えようとするだろう。しかし、認識しているそのニーズとそれを表現することばはほんとうに整合しているだろうか。それは誰にもわからない。ぼくたちは「辛口」とか「甘口」 と使い分けてカレーライスを注文するが、こうしたことばは人それぞれの味覚をアバウトにしか表現できていない。ゆえに、甘口を頼んだのに「意外に辛いじゃないか」という人もいれば、「想像以上に甘いなあ」という人もいる。自分が想定した甘口にぴったりはまる人はむしろ少ないかもしれない。

繰り返すが、いったい何に関してどれだけの情報を集めてどのように読めばいいのか。誰も答えることはできないが、一つだけ確実に言えるのは、期限が許すかぎり読めばいい、ということだ。裏返せば、どうあがいても期限には逆らえない。期限内に収まらなかった情報の分析は「なかったこと にする」しかない。分析できなかった情報や、マナイタに乗せたまではいいが、使いこなせなかった情報に未練を持ち続けても仕方のないことである。それは妄想だ。妄想とサヨナラする、つまり「莫妄想まくもうぞう」のためには、潔さを受容せねばならない。


原則として理性的な判断や論理的思考を尊重すべきだと思っている。しかし、永遠にそんなことばかり続けられない。ぼくたちには仕事がある。そして、所定の期限までに何がしかの成果を生み出さねばならない状況にいる。もしも意思決定が長引いて期限を脅かしはじめたら、別の処方を講じるべきではないか。世界が複雑だから単純化のために「二項対立」が生まれたのだが、さらなる単純化をしてみる。「不二ふじ」、すなわち選択を一つにしてしまうのだ。

選択すべきABの間に大きな差があれば迷いなどしない。しかし、ABが拮抗すると悩む。いずれにも捨てがたいほどの良さがあり、僅差も僅差、判断しかねて立ち往生する。ところが、冷静に考えてみれば、甲乙つけがたいのなら、どっちを選んでも同じではないか。ありきたりな言い方をすれば、一か八か天に託せばいいのである。

そう、迷いに迷ったら、思い切ってオプションの一つを消してみるのだ。三つの選択肢があったら思い切って二つ消してみる。正しく言うと、消すのではなく、はじめから「なかったことにする」というわけである。自分には一つの道しか与えられなかった、他の道をねたんだり欲しがったりしても叶わない。なぜなら、そんなものは「なかった」からである。選択肢は一つあるのみ。それを選んで潔くいい仕事をしようではないか。「なかったことにする」処し方をすると、そこにある種の運命すら強く感じるようになって、仕事にも力が入る。情報や選択肢が増えすぎてしまった時代だからこそ、「なかったことにする」という処し方が意味を持つ。 

「一人歩き」を見直す

「一人歩き」と言っても、実際の歩行とは関係ない。使い慣れたマーケティング用語が勝手に一人歩きしてしまっている話。

「市場の動きをよく見て」「顧客の立場から言うと」「ニーズはいったい何か」……こんな言い回しが比較的多く飛び交う環境にいる。振り返ってみると、自分自身がこうした表現の発信者であることも少なくない。ところが、ここ数年、講演や会議や打ち合わせで、この種のことばを使うにつけ聞くにつけ、何かが引っ掛かってしかたがない。

その引っ掛かりが、暗黙の前提や相互了解から来ているらしいことがわかった。いちいちことばで説明しなくても、「市場は存在」し、当然ながら「顧客の立場は存在」し、「ニーズも存在」する。マーケッターや企画者はほとんど疑念もなく、このような姿勢を共有している。そして、お互い十分にわかったつもりになって、もはや定義や存在を再確認しようとはしない。気がつけば、概念が一人歩きしているではないか。

マーケティング、いや、もっとくだけて「商売」と言ってもいいだろう。ひょっとしてあなたは、商売に理屈を持ち込んで議論しても勝ち目がないことを知っているがゆえに、「商売は理屈じゃない」という持論側に立たされてはいないだろうか。なるほど、「商売は実践あるのみ」という定説には逆らいにくい。しかしながら、それは市場も顧客もニーズもわかっているからこその実践なのであって、そうではない状況では理屈や理論なくして商売を考えることはできない。理屈がなくても今日一日の商売は実践できるが、理屈を抜きにしては明日以降の商売は語れない。

ぼくたちは、市場について、顧客について、ニーズについて、「理屈抜きに」――あるいは「もはや問う必要もないほどに」あるいは「さも当然かのように」――よくわかっているのだろうか。非力を認めざるをえないが、たぶんノーである。


通常数百個しか売れない商品が「どういうわけか」1万個売れた。望外の幸せはマーケティング的に説明がつくか? それは市場が成長した証か? この市場には魅力があるのか? 自社に参入適性はあるのか? ここで言う市場とは1万人の人々から構成される場か? 機会か? それともニーズか? そうでなければ、いったい何なのか? その商品によって1万人のユーザーはどんなニーズを満たしたのか? 1万人に共通する顧客特性はどう割り出すのか? 割り出せはしない、しかし特性がバラバラだということはわかった、では、それはいったいどんな次の手を示唆しているのか? ニーズは一様だったのか? そのニーズはどうすれば知りうるのか、アンケートで聞いてみればわかるのか? 「なぜこの商品をお求めになりましたか?」と訊ねて、消費者はその「なぜ」を的確な言語で表現できるのか? 仮に文章で書いてくれたとして、それをそのまま鵜呑みにできるのか? あるいは、その文章から市場の、顧客の、ニーズの何を読み取るのか?

機関銃の弾のごとく”?”を連ねてみたが、考えてみれば、市場の、顧客の、ニーズの何が真であるか、ほんとうにぼくたちはわかっているのだろうか、いや、わかることができるのだろうか。「どこまで行ってもわからない。わからないからこそ、徹底的に客観的に問うべきだ」。こう考えて、マーヴィン・バウワーは「マーケティングとは一言で言えば、『客観性』だ」と達観したのだろうか。

客観性は主観性と二項対立の関係にある。絶対的な客観性ならば、主観性を消去しなければならない。それは「無我」を意味する。マーケティングとは無我の心境なのか。自分が考える市場や顧客やニーズと、実体としての市場や顧客やニーズは一致しているのか。こんな視点に立つと、まるで「現象学」みたいになってしまうが、主客の一致などというものが商売に存在するのか、ひいては「顧客のニーズを踏まえて」とか「顧客サイドに立って」などということが実際にありうるのかどうかは、あらためて問い直すべきテーマだろう。

何が真理かは、結局マーケッター自身が自分の眼力によって見極めるしかない。市場や顧客やニーズのところに真理があるのではなく、したがって、調査はもちろんのこと、客観的視点にも限界があり、ゆえにマーケッターは市場や顧客やニーズを自分のアタマの中で想定し、編集し、構築、検証、再構築するしか法はない。現在、ぼくはこの方向性で「概念の一人歩き」に見直しを加えつつある。

「誰にとって」という基本的な視点

私塾の最終講で「マーケティングの古典」を紹介し、現在にも生かせる普遍的な考え方や有効性を探ってみた。一時間ちょっとの講義のあと、三人の塾生に自社のマーケティング戦略について発表してもらった。一事例につき、発表15分、他塾生からの質疑応答10分、5班に分かれての事例討議が10分、各班からのコメント発表2分、ぼくの総括講評が5分という流れである。

事例の発表や意見交換を通じて、アタマではわかっていても、なかなか実践できない事柄がいかに多いかということに気づく。それは、ぼく自身にとっても歯がゆくも困難なハードルである。しかし、みっちり5時間半の中で、成功図式とまでは言えないまでも、成功するために踏まえるべきパターンらしきものがシンプルに浮かび上がってきた。


市場にはいろいろなニーズやウォンツが渦巻いている。なくては困るモノやサービスへのニーズから、なくてもまったく困らない贅沢なモノやサービスへの欲望に至るまで、消費のステージが何段階もある。そして、すべての段階において、消費行動の多様化と高度化は著しい。消費行動の多様化は「顧客の絞り込み」を求め、高度化は「イノベーション」を求める。したがって、企業のプロフェッショナルにとっては「誰のために、どのような新しいモノ・サービスを提供できるか」が命題になってくる。これが、よく知られた「ポジショニング発想」である。

もう一つ、基本の基本となるのが、「ユニーク・セリング・プロポジション(Unique Selling Proposition=USP)」。「固有の売りのうたい文句」というニュアンスになるだろうか。もう半世紀も前に生まれた、「この商品を買えば、こんな利点がある」というマーケティングのコンセプトだ。この考え方は後々に「自他の差別化戦略」につながってくる。

たとえば、二店の焼鳥屋がいずれも「ジューシーで歯ごたえのよい肉質」をアピールしたら、もちろんそのことは利点ではあるけれども、どちらの店を選ぶかという決定要因にはならない。雰囲気の良さを想像させる店名、店構え、旨さを際立たせるタレや塩、価格など、他店にない固有の利点を認知してもらわねばならない。「この店に入れば、ここが違う」という差異化のためには、どの顧客にとっての利点なのかというポジショニングも絡める必要がある。


カフェのRサイズ200円、Mサイズ250円、Lサイズ300円。サイズの呼び方や値段はそれぞれ。これは端的に三種類のニーズに対応している(つもり)。価格とサイズ案内のMサイズのところには「Rよりお得なサイズ」と書いてあり、サイズのところには「さらにたっぷりサイズ」とある。いずれの文言も「利点」を訴求している(つもり)。

だが、人間心理の研究不足である。コーヒーは嗜好品である。だから50円払ってRにして「お得なサイズ」という思いにはならない。「どうせなら多めに」という顧客もいるが、最初からRに決めている客には店側が訴えるMLの利点は伝わりにくい。嗜好品は、量が多ければ多いほどいいというものではないからだ。これは、昼にざる蕎麦を食べに行って、50円アップで大盛にするのとはちょっと違う。一般的に「増量または減額」が得の理論だが、商品によって変化する。エステやマッサージは「時間延長」が得、交通機関は「時間短縮」が得。とはいえ、顧客次第で絶対ではない。

私塾の塾生は、配付資料を2枚増量しても誰も感涙極まらない。枚数が少々減っても、あるページに目からウロコのすごいことが書いてあれば、そこに利点を見い出す。「本日は特別に講義2時間延長のおまけ!」と利点を売り込んでも、「定時に終わって、メシにでも行きましょう」という塾生が大半だろう。平凡な帰結になるが、時代の、特定の人間の、心理と具体的なニーズ・欲求に正確にマッチする利点探しを大いなる想像力で極めるしかない。「誰にとって」という視点から始めることは、証明済みの法則と考えてよさそうだ。  

閑古鳥がおびただしい

「閑古鳥」とはカッコウのことらしいが、言い得て妙である。さびれている様子がにじみ出ている。貧乏神と同じく閑古鳥は招かれざる客なので、そこかしこで毎日毎日啼かれては困る。ところが、この閑古鳥、最近目立って繁殖しているようなのだ。ぼくの住むマンション近くにはどこからか追いやられてきたムクドリが群れているが、オフィス街に棲息しはじめた閑古鳥の数はムクドリの比ではない。

週末に大阪の目ぼしい繁華街を散策し、デパートや専門店にも立ち寄って人出や賑わいをチェックする。不景気や金融不安などどこ吹く風、どんどん皆さん買っているし飲食している。心斎橋の有名ブランド店の一つなど、百均ショップではないかと見間違うくらい混んでいた。ニーズ(必要性)を満たすために消費しているとはとても思えない。緊急性などまったくないウォンツ(願望)がコンスピキュアス・コンサンプション(見せびらかし・目立ちたがりの消費)へと加速している。

このように景気をまったく気にせずにせっせと消費できる人々がいつの時代にもいる。どのくらいの人口比なのかは知るすべもないが、ぼくの周辺では五人に一人というところか。この20%の人たちは必ずしもセレブばかりではない。収入の多少や肩書きの上下や消費額の大小とは無関係に存在する。誰一人として景気と無縁に暮らせる者などいないはずなのだが、不思議なことに、この連中は景気に鈍感であり続けることができる。五人のうち景気に敏感な残りの四人はどうしているのだろう。迫り来る不況の影に怯えながら財布を握りしめタンスの引き出しを押さえているのだろうか。


一昨日の夜8時頃、自宅へ帰る途中にオフィス街の飲食店を外から覗き見して歩いた。想像以上に閑古鳥の占拠地帯が広がっていた。しゃぶしゃぶの店、中華料理店、イタリアン、フレンチ、寿司割烹など軒並みチェックしたが、惨憺たる状況だった。オフィス近辺で午後8時前後に客がいないようならその日はほぼアウトだ。飲食業ではないものの、「明日はわが身か……」と現実を直視する。

夏以降、続々と店が閉店に追い込まれて、わずか一ヵ月ほどすると別のオーナーがそっくり新装してオープンする。最初の数ヵ月は新しさ・珍しさゆえ、口コミで人が人を呼んでくれる。だが、昔に比べて選択肢が圧倒的に多い現在、その店でなければならない理由などそう多くはない。週一回や月二回と足を運ぶには他店と一線を画する決定的な差異が必要だ。そんな特徴的な店にはめったに出くわさない。

夜、どこかで飲食する。どなたにも行きつけの店があるだろう。しかし、そこが満員であれば別の店でも代用がきく場合が多いのだ。ぼくなど常連になるのを好まないし、常連ゆえに求められる立ち居振る舞いが面倒なので、行きつけの店でもせいぜい年に6回まで。二、三ヵ月空くことになるから、次回行くときには新参者。ゆえにめったなことでは顔なじみにまでは至らない。


他方、閑古鳥とは無縁の一握りのエリート店がある。「行列の並ぶ店」とか「なかなか予約の取れない店」と聞いて、さあどうする? ここが食にまつわる消費行動の岐路である。

「一度でいいから、何時間並んでも行って見たいし半年先でも予約しておきたい」と思う。実はこんな人たちは少数派なのだが、マスコミがこぞって取り上げるために、「世の中、そんな連中が多いんだなあ」と思い込まされるのである。どんなにうまい焼鳥屋であっても、2時間も3時間も待つことなんかない。近場を探せば、遜色なくてリーズナブルな店が必ずあるものだ。どんなに有名でミシュランガイドで取り上げられていようとも、予約してから半年間も待ち続けることなどない。

ぼくの店選びはとても簡単である。いい店なら客を待たせてはいけない。これが顧客満足というものだろう。「行列ができる」というのは世間の評価であって、ぼく自身にとってはまったくありがたくない現象である。さっきまで並んでいた客が入店する時、後ろに列をつくっている客たちに投げかける、あの「勝ち誇ったような一瞥」の嫌らしさはどうだ。「予約のむずかしい店」など論外である。そんな店はぼくの中では存在しない。その店をなかったことにしておいて何一つ困ることなどない。

弱者発想のぼくとしては、人気店の動向にはあまり関心がない。それよりも、オフィス街でランチを提供してくれている、無名だが一工夫があってリーズナブルなお店を潰しては気の毒だと思う。だから、グルメガイドに頼って遠方まで出掛けず、近くの店を食べ歩きしてみる。気に入った店にはちょくちょく通ってあげる。こうして一羽でも閑古鳥を減らしてあげたい。

とか何とかキレイごとを言いながら、ぼく自身、最近めっきり外食機会が減った。年齢のせいだけではないだろう。わざわざそこに行かねばならないという情熱も薄らぎ、魅了してやまない特徴的な店も少なくなった。何よりも、忍び寄る不機嫌な時代の空気に知らず知らずのうちに備えているのかもしれない。