かつて「そこのところ、ひとつよろしく」は、「どこをどれだけよろしくするのかわからない」けれども、何とかよろしく取り計らわれたものである。これでもコミュニケーション効果があったのだ。今ではメッセージ性が失われた虚礼語になり果ててしまった。意味が通じることを過信してはいけない。意味を共有することは大変なことなのである。意思疎通と意志疎通不全はいつも拮抗している。そう考えておくのがいい。
リーダーは方向性を示した。部下はその方向性を額面通りに理解して、具体的な行動に移した。しかし、その行動はリーダーの思惑とはまったく異なるものであった。「おい、含意を汲んでくれ、含意を」とリーダーは命令調で懇願する。
行動は指示された方向に向いてはいるのだが、なんだかしっくりこない。読むべきところが違っているのである。よくある話だ。「頑張れとは言ったが、徹夜までしろとは言ってない」などもその一つ。「頑張る」という方向性の中に徹夜というアクションはありえるだろう。しかし、肉体を疲れさせるそんな策を期待したのではない……というわけ。
「ことばの微妙なあやを理解してくれない」というぼやきをよく耳にする。「行間を読ませようとしたりニュアンスを伝えようとしたりしてもダメ。一言一句、野暮なくらいに指示しないととんでもないことになる」――ふだんギャグ連発の課長たちが真顔になってこんなふうに嘆く。そもそもコミュニケーションはその本質においてこのようなストレス要因を秘めるものなのだ。
思い浮かぶのは10年以上前のモルツのテレビコマーシャル。覚えている人もいるだろう。観客の一人である桂ざこばが、「川藤出さんかい!」と叫ぶ。その声が届いたわけではないが、モルツ球団のベンチは「代打川藤」を告げる。川藤、ベンチから出て素振り。その姿を見て「ほんまに出して、どないすんねん」と呆れるざこば。
そう、まさにこんな感じである。感情が高ぶって「出さんかい!」と言ったまでで、ほんとうに出せとは言ってはおらん。世間のリーダーたちはこの本意をわかってほしいのだろう。とりわけ桂ざこば型の、すぐに苛立つリーダーが課す指示はことば足らずで極論めく。だいたいこのタイプは甘えん坊ゆえ、「指示の背後にある自分の気持を汲んで考えてほしい」と部下に言っているつもりなのだ。だが、意に反して指示はそっくり額面通りに実行されてしまう。己にも非があることに気づくので、呆れるか苦笑いするしかない。
含意が伝わらない、汲んでもらえないというのはゆゆしき問題か? いや、実はそうではない。もどかしくストレスも溜まる一方で、ユーモアやジョークが生まれてバランスを取ってくれるのである。いつの時代もコミュニケーション行動は、通じる生真面目と通じない非真面目をともなっている。