イタリア紀行24 「レオナルド・ダ・ヴィンチ」

ミラノⅢ

数年前の横綱格ほどではないにしても、ここ十年ほどイタリア観光は人気番付の上位をキープしている。少し下火にはなったが、タレントを起用したイタリア都市を探訪するテレビ番組も相変わらずだ。ちなみに、日本のみならず世界で一番人気の国はフランス、都市はパリである。

そのパリでもいいし、ウィーン、フランクフルト、アムステルダムを経由すれば、主要なイタリアの都市へ行ける。しかし、関西発で直行できるイタリアの都市はミラノのみだ。したがって、ほとんどのパッケージツアーはミラノ→ヴェネツィア→フィレンツェ→ローマという順になり、帰路もミラノ発となる。ところで、ミラノを東京に類比する人がいるが、ぼくにはそうは見えない。やや派手めのファッション、下町のカフェにたむろするヤンキー風のお兄さん、建物や壁の落書き、服飾・繊維産業などから大阪市を連想してしまう。実際、ミラノと大阪市は姉妹都市の関係にある。

ルネサンスの主役であり歴史上の大天才であるレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)。私生児説もあるが、幼少の頃に実父セル・ピエロ・ダ・ヴィンチに引き取られた事実があるので、正しくは「婚外児」と言うべきだ。わが国ではレオナルド・ダ・ヴィンチのことを「ダ・ヴィンチ」と言うが、イタリアでは苗字での呼称は稀で、ふつうは「レオナルド」と呼ぶ。「ダ・ヴィンチ」はもともと「ヴィンチ村の」を意味し、やがて前置詞と固有名詞が一体化して「ダ・ヴィンチ」という家名になったようである。

レオナルド・ダ・ヴィンチゆかりの街をフィレンツェと決めつけてはいけない。ここミラノも同程度に縁が深い。フィレンツェで思うような活躍ができなかったレオナルドは30歳の頃ミラノへと旅立った。当時のミラノはスフォルツァ公が君臨して活力があった。この地のサンタ・マリア・デッレ・グラティエ教会でレオナルドは1497年の45歳の時に『最後の晩餐』を完成させる。ジェノヴァ出身のイタリア人コロンブスがアメリカ大陸を発見したのがその5年前である。

前々回にも書いたが、この年の仏伊紀行では当初ミラノに滞在する予定はなく、『最後の晩餐』鑑賞の予約はしていなかった。団体ツアーなら予約の手配などしなくてもいいが、個人の場合は何から何まで自分で手続きをしなければならない。予約をしていないからたぶんダメだろうと心得ながらも、観光のシーズンオフだし、万に一つの幸運を授かるかもと淡い期待をかけていた。ドゥオーモ前のカフェでエスプレッソを飲み、店のスタッフに聞いてみた。「レオナルドの最後の晩餐を見たい。ここから教会へは歩けるか?」 ご機嫌な顔をして彼は「ああ、レオナルドの絵。歩いても半時間もかからない」と言い、指を示しながら道筋を教えてくれた。

1 225.jpg
ドゥオーモ前のカフェで道をたずねたが、教わったほど簡単ではなかった。路面電車に沿い西へと歩く。
1 224.jpg
広場をいくつか横目にし、建物を見ながらぶらぶら。
1 226.jpg
さほど迷わずに、やがてマジェンタ大通りに入る。
1 227.jpg
赤茶色のクーポラ。これがサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会だった。
1 228.jpg
この建物が『最後の晩餐』への入口であり受付。「三ヵ月後なら予約できるわ」と呆れ顔で告げられた。 
1 229.jpg
心残りながらも、教会の建物と壁色を存分に眺めてから帰る。