四十歳前後の頃に顔面の三分の一くらい髭を生やしていた。二年くらい続いただろうか。ある日剃った。いつもと違う気分で出社した。スタッフの誰も何も言わない。ふだん通りに仕事が始まった。おもしろくないので、女性スタッフの一人をつかまえて、「何か変わったことに気づかないか?」と人差し指を顔に向けて聞いてみた。しげしげとぼくの顔を見たあと彼女は言った。
「メガネ、変えました?」
自分が自分を意識するほどには他人は意識してくれない。自分という存在は、他の誰にとっても光景の中の一対象にほかならない。そこに存在の軽重はあるだろうが、人間も机の上の手帳も路肩の郵便ポストも同列の対象として見えている。ドキドキするくらい派手なピンクのネクタイを締めていったものの、誰からもノーコメントだったというのも毎度のことだ。
無難に常識的に生きようとすれば、無難以下常識以下の人生に終わる。そこそこの仕事、まずまずの品質は、他人の目には「冴えない仕事、粗悪な品質」として映る。インパクトをつけたつもりが、その隣りにそれ以上のインパクトのあるものが並べば、もはや衝撃的な存在ではなくなる。すべての人、物事は別の誰か、別の何かとの比較の上で評価される、相対的関係性における存在なのだ。
他に類を見ないのなら、ことさらデフォルメするには及ばない。それ自体の品質、特徴、便益がすでに「比較優位性」を備えているからだ。意を凝らさなくても、自然体のデフォルメ効果がすでに演出されている、というわけである。力強い事実は誇張を必要としない。無難に常識的に訴求すればよい。ところが、そんな優位性がなければ、印象は客観に委ねられる。たとえば、Aという広告。Aを単独で見る、Aを見てからBを見る、Bを見てからAを見る、AとBを同時に見る……同じAであるにもかかわらず、Aが人に訴求するもの、人がAに抱く心象はすべて異なってくる。
優れた特性を備えながらも地味な存在の人やものがある。情報洪水の時代では、いぶし銀と褒められて喜んでばかりはいられない。存在感を意識してアピールしなければ存在そのものが認知されないのである。過度の背伸びや売り込みを好まないぼくでさえ、少々のデフォルメやむなしと考えている。さもなければ、一瞥もくれない、記憶にも残らない存在として闇に消えてしまう。
前例を踏襲するだけの無策に甘んじてはいけない。極論すれば、頑として「非凡」を目指すべきなのだ。非凡を心掛けて実践しても、やっとのことで「平凡よりちょっと上」なのだ。ただ、平凡で地味な存在がいきなり非凡へと方向転換できないだろう。だからこそ、とりあえず「少々デフォルメ」を意識してみる。但し、デフォルメを虚飾や上げ底と勘違いしてはいけない。デフォルメには、品質なり力量なりの裏付けが不可欠なのである。