アッシジのフランチェスコ

Assisi (19).JPGのサムネール画像
教会の広場を包む回廊の一部。

アッシジはウンブリア州ペルージャ県のコムーネ。コムーネというのは地方行政体で、イタリア独特の概念である。大都市ローマもコムーネなら、人口約25000人のここアッシジもコムーネと呼ばれる。

アッシジはローマから北へ列車で2時間前後の所に位置する。「サンフランチェスコ聖堂と関連遺跡群」は2000年に世界遺産に登録された。その翌年の3月にこの聖地を訪れる機会があった。

修復工事以外に目立った開発が一切ありえない土地柄。緑溢れる平野を抜けた丘陵地帯の小村、その自然の一部を建物が借りている風情である。かなり辺鄙な印象を受ける。だからこそ、聖地と呼ぶにふさわしいと言えるのだろう。コムーネ広場からほどよい距離を歩くと、聖人フランチェスコゆかりのサンフランチェスコ聖堂に着く。聖人はここアッシジで生まれた。


ところで、十数年前にタイムスリップしたのはほかでもない。新ローマ法王フランチェスコ1世の名が、アッシジの聖人フランチェスコにちなむと聞いたからだ。ローマ法王の名として「1世」がつくのだから、歴史と伝統の名跡ではない。それでも、フランチェスコはイタリア男性に多い名前で親しみやすい。アッシジの守護聖人でありイタリアの国の守護聖人でもあるフランチェスコ(1182?-1226年)は裕福な家庭に生まれた。若い頃に放蕩三昧したあげく、神の声を聞いて聖職への道についたと言われる。

聖堂で希少なフレスコ画を見た後、フランチェスコの墓のある地下室へ入った。過酷な修道生活の日々が浮かんでくる。キリスト教や聖書についてまったく無知ではないが、信仰者でないぼくでも敬虔にならざるをえなかった。質素だが、どこまでも続きそうな錯覚に包まれて、教会の回廊をゆっくりと歩いた。

生活と仕事の密接な関係

理論武装できるほどの論拠を持ち合わせていないが、生活の現実はおおむね仕事ぶりに反映されると考えている。ダラダラと生きていたらダラダラと仕事をしてしまう。だらしない日常はだらしない仕事に直結する。無為徒食の日々を送っていれば、ろくな仕事をしないで給料をもらうことに平気になる。明けても暮れても遊んでいる者は仕事すらしないだろうし、流されるような惰性的生き様は、左から右へとただ流すだけの仕事に直結するのではないか。

生活を置き去り等閑なおざりにしたままで、いい仕事ができるはずがないのである。休日に運動し過ぎて身体を壊す。かと思えば、別の日には昼過ぎまで爆睡。アフターファイブは元気溌剌と友人と暴飲暴食、翌日はぼんやり頭で遅々として進まぬ仕事に向き合っている。暮らしぶりを見たらぞっとする、しかし表向きだけプロフェッショナルを装っている人間は結構いるものだ。「遊びは芸の肥やし」などと、まったく実証性のない自己弁護でふんぞり返っている芸能人もそこらじゅうにいる。二十代半ばで放蕩三昧から足をきっぱり洗って聖職に就いたのはアッシジのフランチェスコだ。悪しきライフスタイルとの決別は、一気にやり遂げねばならない。凡人にはなかなかむずかしいことだが、実は、少しずつ変革するほうがもっとむずかしいのである。

やわらかい発想を身につける方法やアイデア脳の育て方について、講演もしているし相談もよく受ける。ぼく自身、決して威張れるような日常生活を送っているわけではないが、〈クオリティオブライフ〉と〈クオリティオブビジネス〉を一致させるべく努力はしている。ふだんぼんやり暮らしているくせに、仕事の場だけ上手に頭を使おうというのは虫のいい話なのである。相談してきた人には「恥じないようなライフスタイルへと向かいなさい」と言う。素直な人は「わかりました。明日からそうします」と決意を示すが、すぐさま「ダメ! 今すぐ!」と追い打ちをかける。今日できることを明日に先延ばしするメリットなどどこにもない。決断と行動は同時でなければ意味がない。


様子を見てから、状況に照らしながら、相手の出方次第で、諸般の動向を睨んで、などはすべてペンディング動作にほかならない。「アメリカの動きを見て……」などと言っているから先手で意思決定もできず政策も打ち出せないのである。自分が自分でどうするかをなかなか決めない。状況や条件ばかり気にして、自発的かつ主体的に動かない。条件にあまり縛られない日常生活でこんな調子なら、本舞台の仕事では身動き一つ取れなくなるのが当たり前だ。

杜撰なライフスタイルは脳を怠惰にする。怠惰な脳は意思決定を躊躇する。反応的にしか働かなくなるのである。頭を使う仕事がはかどらなくなるとどうなるか。人は考えなくてもいい作業ばかりに目を向け、無機的な時間に異様な執着を示し始める。その最たる作業が会議だろう。「昼過ぎて まだ朝礼中 あの会社」という川柳を冗談で作ったことがあるが、あながち非現実的なジョークでもない。緊張感のない生活価値観は必ず仕事に影響を及ぼす。顧客と無縁な作業――社内の人事考課、業務レポート、朝礼、その他諸々の管理業務――ばかりがどんどん増えていく。

かつて公私混同するなとよく言われた。その通りである。しかし、精神性や脳の働きに公私の区別がつくはずもない。気持ちも頭もゆるゆるの生活者が、家を出て会社に着くまでの間にものの見事にきびきびとした仕事人に変身できるわけがないのである。〈私〉の姿をいくら包み隠そうとしても、〈公〉の場で仕事の出来や姿勢に本性が露呈してしまうのだ。ビジネススキルの前にヒューマンスキルがあり、さらにヒューマンスキルの前に胸を張れるようなライフスタイルを築かねばならない。要するに、「生活下手は仕事下手」と言いたかったのだが、はたして大勢の人々に当てはまるだろうか。

仕事上の能力開発のアドバイスをするために、生活態度や日々の暮らしぶりにまで介入して口はばったいことを言わねばならなくなった。必ずしも歓迎材料ではないが、日常の習慣形成を棚上げしたままでは、ぼく自身の教育へのコミットメントが完結しないのである。こんな姿勢を示すと、都合の悪い人が去ってしまうことになりかねないが、それもやむをえない。

ミスとグズ、または失敗と怠惰

先週の水曜日、塾生Sさんの会社の全社会議の第三部として『広告の話』について講演した。若い社員さんらは仕事のありように気づいてくれたようだ。決してやさしい話ではなかったが、紹介した事例と仕事線上の課題や願望との波長が合ったと思われる。ぼくの出番はそれだけだったので、第一部と第二部での話は聞いていない。懇親会の席で見せてもらった会議資料をちらっと見れば、そこに次の一文があった。社是である。

「ミスには寛容に、怠慢には厳しさを。慣れ合いのない優しさ、責め心のない厳しさ」

生意気なことを言うようだが、ぼくにとっては目新しいものではない。しかし、このメッセージにとても素直に感応できた。なぜなら、そのように生きてきたし、怠慢(そして、その日常化した惰性の延長としての無為徒食と放蕩三昧)を、自他ともに戒めてきたからである。天賦の才があるわけではないし、油断しているとついつい怠け心に襲われる弱さを自覚しているから、たとえ使い古されたことばである「努力」や「精進」をも盾にして怠慢にあらがうしかないと考えてきた。

かつてエドワード・デ・ボノが水平思考(やわらかい発想)のヒントの一つとして、「ありとあらゆる要素を考える」を掲げた。まったくその通りで重要なことなのだが、これはぼくたちにとっては至難の業だ。あらかじめありとあらゆる要素をシミュレーションできれば、たしかにミスは大いに減るだろう。しかし、賢人が何もかも見据えた上でなおも失敗を犯してしまう現実を見れば、凡人の仕事が日常茶飯事的にミスと隣り合わせにあることは容易に想像できる。いくら注意しても「ミスは起こるもの」なのである。

だからこそ、ミスには寛容でなければならないのだ。但し、己のミスの言い訳のために他人のミスに寛容であろうとするのは自己保身である。ミスに対して寛容であるというのは、自他を問わず、仕事上のミスの蓋然性に潔くなれという意味でなければならない。リスク管理に意を凝らしても起こるミス、あるいは複雑な外的要因によって起こるミスに対しては、月並みだが、再発を防ぐ処方しかない。その処方をアタマと身体に叩き込むしかない。


経験を積み熟練度を増すにつれてミスは徐々に減るもので、看過してもいいほど小さくなってくる。しかし、最後の最後まで残るミスの原因は油断であり、その油断を許してしまう慢心と怠惰に遡る。慢心と怠惰は人間の本性の一部だから、つねに見張っていなければならないのだ。だから「怠慢には厳しさを」なのである。ぼくの知るかぎり、怠慢から派生するミスを相変わらず繰り返す人間は、本人の自力による救済は不可能である。誰かが手を差し伸べてやるしかない。とても時間がかかるし徒労に終わる可能性も高いが、放置すれば組織悪や社会悪としてはびこってしまう。

社是の後半の「慣れ合いのない優しさ」と聞けば、「親しき仲にも礼儀あり」を連想する。フレンドリーであることはいいことである。しかし、ついつい甘味成分が過多になって関係がべたついてしまう。お互い相手を理解し優しい眼差しを向けるのはいいが、そこにはさらりとした抑制が働いていなければならない。Sさんとぼくは長い付き合いで信頼関係も強いが、見えない一線を互いに暗黙のうちに了解している。

最後の「責め心のない厳しさ」は人への対峙のあり方にかかわる。自分はその人をどうしてあげたいのか、なのだ。立ち直れないほどこてんぱんにやり込める厳しさも世間にはある。叱責のための叱責、逃げ場のない窮鼠状態への追い込み。困ったことに、自分に甘い指導者ほどが強く相手を強く責める。だが、指導者側の鬱憤発散のための厳しさでは話にならないのだ。

ぼくはと言えば、議論になればきわめて厳しくからい。相手を妥協せずに論破し、矛盾点を徹底的に追及する。理由は明快で、一段でも高みへと成長してほしいからにほかならない。どうでもいい相手に厳しさなど不用だから、議論に引きずり込むまでもないのである。