〈重厚長大〉が遠い昔の幻影のごとく虚ろに見える。重くて分厚くて長くて大きいものが日本経済を支えた時代があった。造船、鉄鋼、セメント、化学などの産業が重厚長大の代名詞。半世紀前のこの国では「大きいことはいいこと」だったのである。しかし、高度成長時代の終焉とともに、そしてエレクトロニクスやサービス業の台頭もあって、重厚長大産業は急激に人気も業績もかんばしくなくなった。
代わりに主役に躍り出たのが〈軽薄短小〉だ。多分に語呂合わせの要素もあるので、何もかもが軽く薄く短く小さくなったわけではない。省エネルギーや環境負荷の軽減の掛け声には軽薄短小のリズムがよく合ったようである。実際、身近な商品は多分にその方向にデザインされ製造された。とは言え、どれが軽薄短小かと自宅の中を見渡してみても、薄型テレビ、携帯電話、ノートパソコンくらいなものである。冷蔵庫や洗濯機は間違いなく大型化している。思うに、軽薄短小は目に見えない電子部品やソフトウェアを強く象徴したのだろう。
それはともかく、頼もしい雰囲気、語感という点で重厚長大に軍配を上げたい。「きみは軽薄短小な人だね」と形容されては喜べないだろう。環境負荷が大きくてエネルギーを食う重厚長大よりも優れているつもりで命名したはずの軽薄短小。なのに、なぜこんな響きの四字で命名してしまったのか。重↔軽、厚↔薄、長↔短、大↔小と、一文字ずつの漢字の単純反語を並べたのはいいが、もう少し知的に響かせる工夫があってもよかったのではないか。
ノスタルジックに重厚長大を志向する経済社会の復活を願うものではない。資源は希少であるから軽薄短小的に使うほうがいいだろう。ただ、ヒューマンリソースを同じように扱うことはない。個人の知的生産活動にあたっては軽薄短小に落ち着いてしまってはいけないと思う。読書も語学もその他の趣味も、大量かつ集中的に高速でおこなうのがよく、できれば何度も何度も繰り返すのがよい。何かに精通して生産的になるためには、大量、集中、高速、反復の要素が欠かせない。才能の有無にかかわらず、である。
大量、集中、高速、反復は、ムダな資源をダラダラと長時間浪費しないための心得だ。長時間取れないという前提、少なくとも決めた時間内だけの知的活動という前提に立っての条件なのである。大量とは、素材、すなわち情報に関わる条件である。多品種でも少品種でもいい、できるだけ多く扱い触れるようにする。以前3時間かけていたところを1時間でおこなう。これができれば、同時に集中と高速が実現していることになる。ぼくは速読の理解効果に関しては半信半疑の立場にあるが、速読の大量・集中・高速の効果を否定はしない。
しかし、勇ましい大量・集中・高速だけで終われば、バブリーな重厚長大の二の舞を演じてしまいかねない。知的生産活動には忍耐というものが必要だ。忍耐とは飽くことなく繰り返すことにほかならない。反復という単純行為は、大量・集中・高速で触れた素材を確実に記憶庫に落とす最上の方法なのである。記憶媒体や電子機器のなかった時代によく実践されたのは、音読であり紙に書くという身体的トレーニングであった。結局、読書にしても語学にしても、短時間で反復するほうが効果が上がっている。「継続反復は力なり」という格言を作ってもいいと思う。