コーヒーと音楽は切っても切れない関係にある。カフェとくれば洋楽だが、常連ばかりが集まる場末の喫茶店では稀に演歌が流れていたりする。コーヒーの香りが「炙ったイカ」に変じるわけではないが、味わいが微妙になるのは否めない。そう言えば、ボサノバのCDをかけているイタリア料理店でも違和感が漂う。かつてよく通ったその店で「カンツォーネを流さないの?」と尋ねれば、「正確に言うと、うちは地中海料理なので」とオーナーシェフ。地中海だからボサノバというのがよくわからない。店名がイタリア語だからシャンソンも合わないだろう。素直に「ぼくはボサノバが好きなんです」と答えておけばいいのに。
入りびたるほどではないが、月に一、二度行く喫茶店はプレスリー専門。オーナーが長年のファンで詳しい。どちらかと言えば、バラード調を中心に編集している。ところで、お気に入りの音楽には聞き耳を立てる。お気に入りでなくても、一人でコーヒーを啜っているときは音楽がよく耳に入る。読書に注意が向いているときは、BGMは途切れ途切れにしか聞こえない。しかし、本からふと目をそらしたりペンを休めたりする瞬間、メロディへと注意が向く。昔のジャズ喫茶ではコーヒーよりも音楽が主役だったのだろう。あるいはタバコをくゆらすためのコーヒーだったかもしれない。行ったことはないが、歌声喫茶ではみんな一緒に歌ったと聞く。コーヒーの味など二の次だったのではないか。
ヨーロッパのカフェやバールではあまりBGMを流さない。会話の邪魔になるから? かもしれない。生演奏のカフェで印象的だったのは、ヴェネツィアはサンマルコ広場のカッフェ・フローリアン(Caffe Florian)。創業者のファーストネームであるフロリアーノ(Floriano)に由来する、ヴェネツィア随一の老舗カフェだ。なにしろ創業が1720年。広場の一隅のオープンテラスでカフェラテかカプチーノかを飲みながら四重奏風仕立ての旋律に耳を傾けた。ふつうのバールならエスプレッソ10杯分に相当する値段。せっかくの旅なのだから、けち臭いことは言わないほうがいいか。
晴朗きわまる空と海、世界一美しいと評判のサンマルコ広場と寺院、聳え立つ鐘楼、ドゥカーレ宮殿、行き交う観光客……ゆったりと目で追いながら音色を楽しみコーヒーを口に運ぶ。昼間の屋外のカフェは実にのんびりできる。春でも秋でも夜になると急激に冷え込んでくるが、黄昏時の広場にはラグーナからの海の匂いが入り込み、散策気分を演出してくれる。テーブルに座らず――つまりコーヒーを注文せずに――広場に佇めば、カフェの生演奏の競演をただで楽しむことができる。題目の大半はイージーリスニング系だ。