問いと答えの「真剣な関係」

面接でも会議でも対話でもいい。面接ならインタビューアーが、会議ならメンバーの一人が、対話ならいずれか一方が、相手や別の誰かに質問する。お愛想で、たとえば「元気?」などと尋ねる場合を例外として、それぞれがある意図をもって問いを発していることは間違いない。「なぜ当社を希望したのか?」は理由を聞いている。「問い合わせは何件か?」は事実を聞いている。

おなじみの〈5W1H〉は文章を構成したり企画を起こしたりするときの基本。これらWHOWHATWHENWHEREWHYHOWは質問と応答の関係にも当てはまる。これに「PQか?」というイエスかノーかで答える質問と、「PQのいずれか? 」という二者択一で答える質問を加えれば、すべての質問パターンが出揃う。「その愛犬の名前は?」と尋ねたのに、「わたし? ヨーコで~す」と返してしまったら、聞いた方の意図からそれてしまう。但し、その愛犬に付けられた名前が〈わたし? ヨーコで~す〉ならば的確な答えになっている。

PQか?」という二者択一型で問うているのに、「いろんな考え方があって、たとえばですね……」と切り出した瞬間、もはや答えになっていない。「はい(いいえ)」で即答し、許されるなら理由を述べればよい。「Aランチ? それともBランチ?」とご馳走してくれる相手が希望を聞いてくれたのに、「お任せします」は的確ではない。意図があって尋ねたのに、期待通りの答えが得られない―対話習慣に乏しく、質疑応答を御座なりに済ましているこの国では日常茶飯事の体験である。


今朝のテレビ。民主党の専門家が新型インフルエンザのテーマのもとゲスト出演していた。聞きたいことを街で拾ってきて質問する。「新型インフルエンザのワクチンはどこで・・・打てるのか?」と尋ねる。5W1HのうちのWHEREである。ところが、その議員はWHENを答えたのである――「若干遅れるかもしれませんが、本日から・・・・打てるよう手配をしています」。「いつから」とは聞いていない。場所を聞いているのだ。「場所? 病院に決まっている」とでも思ったのだろうか。「病院で打てるのはわかっているけれど、どこの病院でも、たとえば小さな医院でも打てるのか?」と聞いている意図を汲んであげなければならない。まさか居酒屋や駅の構内で打ってくれると期待して聞くはずがない。

「月曜日と火曜日にどれだけ仕事がはかどったのか?」と尋ねてみた。仕事については暗黙の了解があるので、これはHOWの問いである。しかし返ってきた答えは「水曜日に○○をやるつもりです」だった。この応答は質問に対する二重の「背信行為」になっている。月曜日と火曜日から別の曜日にWHENを転化し、おまけに聞かれもしていないWHATで答えたのである。「最近、社会の動きであなたが特に気づいたことは?」に対して、「先週□□という本を読みまして、社会現象としての△△が書かれていました」と答えてしまう無神経。WHATの意図に答えてはいるが、「あなたが気づいたこと」を知りたいのであって、「本に書かれていたこと」を聞いたのではない。

アタマの悪さも若干影響しているのだろうが、的外れの最大の理由は、(1)集中して質問を聞いていないこと、(2)不都合から逃げることの二つである。つまり、「いい加減」と「ずるさ」なのだ。こんなふうに対話を右から左へと流す習慣がすっかり身についてしまっている。講演会なら適当に話を聞き流してもいいだろうが、少人数の集まりや一対一のコミュニケーションでこんなていたらくでは能力と姿勢を疑われてしまう。質問一つで、答える人間がある程度わかってしまうのだ。質疑応答を真剣勝負だと見なしている硬派なぼくの回りから、厳しい質問を毛嫌いする「ゆるキャラ人間」がどんどん消えていく。それで別に困ったり寂しくなったりしているわけではないが……。

理由づけできること、できないこと

199519日のノートに、あるテレビ番組の話を書いている。ゲストは画家のヒロ・ヤマガタだった。「ヒロさんは、なぜこのような色づかいをされるのですか?」と聞き手が尋ねた。

自慢するほどの腕ではないが、絵を描くのが趣味の一つであるぼくからするときわめてナンセンスな質問である。この問いに対して、ヒロ・ヤマガタはしばし戸惑ってから、こう返した。

「そんなこと考えたこともない。芸術家なんて誰もそんなこと考えて描いてはいないんじゃないか」。案の定である。「なぜ納豆が好きなんですか?」と聞かれて、「好きだからです」以外にどう答えるべきなのか。「あのネバネバ感がたまらないんです」という答えが欲しいのか。よしんばその答えを引き出したからといって、その理由にたまげたり感心していったいどうなるものでもないだろう。

納豆が好きなのも、ある種の色づかいをするのも、もはや習性というものである。いまさら意識の世界に引っ張り出されてしかるべき理由を述べよと迫られても困るのだ。

誰もかれもが哲学や思想があって何かをしているのではない。何かしていることにつねに理由があるわけでもない。説明できるとかできないのほかに、説明して意味があることと意味がないこともある。ヒロ・ヤマガタがその気になれば、「そうですね、この種の色づかいのきっかけは……」と説明しようと思えばできたかもしれない。しかし、仮に説明したとしても聞き手のアナウンサー、あるいはカメラの向こう側の視聴者にどれほどの意味や発見があるというのだ。

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「沢尻さ~ん、ハワイはどうでしたぁ~?」と尋ねて、芸能レポーターはどんな答えを引き出したいのか。あんたが聞かれたら、立ち止まってゆっくり説明するとでも言うのか。ありえない。質問を無視して通り過ぎるのみである。万に一つ、「よかったです」と返事してもらって狂喜乱舞するはずもない。それは想定内の回答に他ならない。

ヒーローインタビューのあの切なさ、気まずさ、凍りつく空気はどうだ。「いいホームランでした!」とマイクを向けられて、無言でうなずくか「はい」か「ありがとうございます」以外に何があるのか。「ツーアウト、二塁、1点リードされているあの場面。どんな気持でバッターボックスに入りましたか?」 この種のインタビューはいい加減にしてほしい。このくだらぬ問いが、「何とかしようと思っていました」「来た球を思い切って打つつもりでした」などの陳腐な受け答えを招いているのである。

ある種の意思決定が下された事柄については理由が存在するだろう。その理由が予想しにくい類ならば聞けばいい。また、尋ねるだけの価値もあるかもしれない。しかし、何でもかんでも安易に「なぜ」と連発するのは聞き手として失格である。インタビューで5W1Hを押さえるのは、新聞記事を書くのと同様に常套手段である。だが、そのWのうち、Why(なぜ)とHow(どのように)はここぞというときの伝家の宝刀でなければならないのだ。

「はい!」 元気な返事は要注意

自分が「はい!」と元気よく反応することもあるし、相手がこちらに対応して「はい!」と元気な場合もある。ぼくはめったなことでは調子よく愛想を振りまかないが、「来週に大阪? じゃあ、食事に行きましょう」と軽やかに条件反射することはある。しかし、「は~い! ぜひぜひ!」と愛想よく返事をする人と実際に食事をすることはきわめて稀である。逆も真なり。「近々相談に乗ってくださいよ」に対して「はい!」とぼくが元気に答えるときも、めったに仕事成立には至らない。

元気な返事が一種の虚礼であり社交辞令であり人間関係の潤滑油であることを知ったのは、十年くらい前。ずいぶん晩熟だったものだ。それまでぼくは、「はい」とは承諾であり賛成であり実現に向けて努力をする意思表明であると純粋に考えていたのである(「はい!」と元気よく返事されたら、ふつうは性善説に傾くだろう)。だが、ぼくはもう騙されない。考えてみれば、「はい」で会話が終わること自体が不自然なのだ。実行に至るのなら、どちらか一方から「では、日時を決めましょう」となるはずである。


事はアポイントメントにおける「はい」だけに終わらない。「例の案件、考えてくれた?」に対する「はい!」にも気をつけるほうがいい。経験上、「考えた?」への「はい!」は十中八九考えていないし、「分かった?」への「はい!」も99パーセント分かっていないし、「できる?」への「はい!」は「できないかも」と同義語である。最近のぼくは「はい!」は”イエス”ではなく、「とりあえず返事」であることを見抜いている。だから、「はい」で会話を終わらせてはいけない。コミュニケーションが少々ギクシャクしても、“5W1H”のうち少なくとも二つくらいの問いを追い撃ちしておいたほうがいい。ついさっきも、元気な返事の欺瞞性を暴いたところだ。

夕方4時半に来客がある。コラボレーションでできるビジネス機会について意見交換をする。担当のA君に内線で確認した。「何かテーマなり提案内容を考えてる?」と聞いたら、「はい!」と返事が元気である。言うまでもなく、この開口一番の「はい」は「考えていない」ことを示す兆候だ。「たとえば?」でもいいのだけれど、あれこれと取り繕う可能性もあるので、ちょっとひねって「考えたことを紙に書いた?」と、逃げ道のない追い撃ちをかけた。「いえ、書いてはいません」と彼。この後、考えていないことが暴かれていった2分間の経緯は省く。

ソシュールを乱暴に解釈すれば、書いたり話したりするなど言語化できないことは「アタマの中でも考えていない」ことになる。ことばを発して初めて思考は成立する。「口に出したり書いたりはできないけれど、ちゃんと考えていますから」はウソである。「考えてはいるけれど、うまく言えない」というのもコミュニケーションの問題ではなく思考力の問題である。うまく言えないのは語彙不足だからであり、語彙不足ならば理性的思考はしづらいだろう。厳しい意見になるが、「うまく言えないのは、考えていないから」なのである。


「はい!」はぼくへのウソであると同時に自分への偽りだよと、A君に言った。人間は自分が考えていると思っているほど考えてはいない、とも言った(ぼく自身の反省でもある)。最後に「このブログに『A君につける薬』という新しいカテゴリを作ったら、『週刊イタリア紀行』よりも人気になるかもしれないな」と言ったら、「いや、それはご勘弁を」と平身低頭。「ネタは無尽蔵なんだけどなあ」とぼく。いずれ本にして出版してもよい。すでに「あとがき」までできている――「書物に、実社会に、人間関係にと、A君につける薬を求め続けたスキル探訪の旅は終わった。結局、そんな薬はなかった。最後の頼みは、A君自身の毒を以って毒を制すことである」。