美味しさと不味さ

Barbaresco2006 Fontanafredda web.jpgのサムネール画像イタリアのピエモンテ州には「ワインの王様」と称されるバローロという有名なワインがある。これに対して、同じくピエモンテ産のこのバルバレスコは「ワインの女王」と謳われる。決して安物のワインではない。店にもよるが、4,000円から5,000円くらいするのではないか。
通常2,000円までの安くてうまいワインを探し、プロにも勧めてもらっているぼくとしては、ブランドと価格の両面で大いに期待した一本である。先週、来客が来ることになり、直前に冷蔵庫に入れた。しかし、みんなほろ酔いになり、これには手がつかないまま。いったん冷やしたワインを常温に戻すのはご法度である。次の来客を待たずに封を切ることにした。

封を切った当日。飲む直前に冷蔵庫から取り出したせいか、よく冷えていて香りが弱い。つまみは赤ワイン向きのものを用意していたが、チーズとの相性も思ったほどではない。体調のせいか、室温のせいか、やっぱり冷えすぎていたせいか、いや、そもそもこんな感じの味なのか……原因などわかるはずもないが、買い手としては期待外れの印象を露わにしづらく、複雑な心理状態に陥った。グラスに二杯飲んで、再び冷蔵庫に収めた。
翌日。メインをぶっかけうどんにして、和を中心のおかずを用意した。そして、前日に引き続き飲んでみることにした。するとどうだ、コルクが抜かれて一晩過ぎたせいかどうか知らないが、打って変わって芳醇なうまさが口で広がった。さすがバルバレスコだという調子で賞賛はしなかったものの、満足のゆく香りと味であった。理由を求めても意味はないが、いったいどういうことなのだろうか。
美味おいしいものは美味しい、不味まずいものは不味い」でいいはず。ところが、美味しいものは美味しいでいいのだが、美味しいはずのものが期待外れに美味しくないとき、いや、むしろ不味いとき、不味いものは不味いでケリをつけにくい。なぜ不味いのか、なぜ不味く感じるのか、何が不味くさせているのかなど、つい理由が欲しくなってしまうのだ。不味さの科学は美味しさの科学よりも、おそらく不可解であり不確実なのだろう。

幼稚な反撥

問いの立て方を見れば、その人間の問題意識がある程度までわかるものである。

たとえば「お出掛けですか?」などは、疑問文の形になっているが、決して尋ねてなどいない。時代を経て何度も何度も繰り返されて共有化され慣習化された結果、問いの機能を失ってしまったのである。

A お出掛けですか?
B ええ。
A どちらまで?
B ちょっとそこまで。
A よろしいですなあ。

人間関係のための潤滑油効果を持つやりとりである。愛想の問いに神妙に答えてはならない。問い相応の応答でよいのである。
ところで、答え方を見ても、当然その人間の問題意識や真剣度をうかがい知ることができる。大蔵大臣時代だったと記憶しているが、宮沢喜一は「仮に……になれば、どうなるでしょうか?」という記者の問いに、「仮の質問には答えられない」とぬけぬけと言い放った。この種の物言いをしゃれた切り返しと勘違いしている輩がいるが、単なる幼稚な反撥にほかならない。

「リンゴかバナナか?」や「米かパンか?」などの究極の選択は、「もしこの世界でたった一つしか選べないとしたら……」という仮言を前提にしている。条件のついたお遊びと言ってもいい。「仮に」や「もし」は、ともすれば行き詰まりがちな話を進めるための契機であって、決して本意を聞き出そうとしているわけではない。問う者も答える者もそこのところがわかっているから、スムーズなやりとりができるのである。
詭弁家は「選択肢はそれら二つだけではない。他にもある」などと言い放ってかっこいいと思っている。あるいは、問いそのものを否定して「そんな悩みは無用である。現実世界では米もパンも食えるのだから」などと言う。とてもバカげている。いずれも問いに答えていないのである。答え方を見れば、人が素直かひねくれ者かがすぐわかる。相手の問いの形式にケチをつけてはいけないのだ。問いにはいさぎよく答える。ただそれだけ。
なお、「米かパンか?」という問いは仮言的であるばかりでなく、レストランでも現実によく聞かれることがある。以前、インド料理店で「ナンかライスか」と二者択一で尋ねられた。迷った挙句、「両方食べたいなあ」と言ったら、あっさり「わかりました」。たまに問いに逆らってみるのも悪くない。もっとも相手が成熟の共感をしてくれて成り立つ話ではあるが……。
Make your point web.jpg
中学生用に編まれた英国のディベートの演習本。30の討論テーマのすべてが二者択一形式、つまり肯定か否定かになっている。

真贋を見分ける

ロダンにあまりにも有名な『考える人』という作品がある。昨年11月にパリのロダン美術館の庭で「真作」をじっくりと鑑賞してきた。
いま、「真作」と書いた。「本物」でもよい。しかし、粘土で原型を作り、そこにブロンズを流し込む、いわゆる鋳造された作品であるから、世界に28体あると言われている。では、どれがオリジナルでどれがレプリカなのか。実は、28体のブロンズ像すべてがオリジナルであり真作なのである。
彫刻作品は一つでなければならない。たとえば、ぼくがフィレンツェのシニョリーア広場で見つめたミケランジェロ作ダビデ像はレプリカである。本物はアカデミア美術館にある。また、絵画もオリジナルは一つだ。だからこそ、真贋問題がよく持ち上がる。リトグラフや版画は原型が同じであれば、刷られたものはすべて真作ということになる。紙幣や貨幣も大量に製造されるが、国家という信頼性にも支えられて、すべてが本物とされる。
唯一絶対で真似ることもできないものを、本物や真作とは呼ばない。富士山に本物という形容は成されない。本物のヴェルサイユ宮殿などという言い方もない。どこかのコピー大好きな国でそっくり再現しようとしても、真贋などという概念を持ち出すまでもなく、偽物だと見破れる。簡単に贋作だとわかるのであれば、オリジナルをわざわざ本物と呼ぶ必要はないのである。
本物か偽物か……つまり、真作か贋作かが問いになること自体、真贋の識別が難しいことを示している。贋作だと判断するためには、それが真作でないという証明のテコが必要なのである。真作を見たこともなく真作に触れたこともなければ、贋作を見分けることはできない。真作あっての贋作だからである。
ローマ時代に使われたとされるコインを持っている。ローマはコロシアム内の土産物ギャラリーで買ったものだ。あいにく本物を見たこともなく本物に触れたこともないので、ぼくの自宅に置いてある2つのコインの真贋を即断することはできない。ただ、2個で500円くらいだったと思うので、鑑定してもらうには及ばない。おそらくレプリカのコピーの、そのまたコピーに違いない。

併読術について

アリストテレス「哲学のすすめ」.jpgのサムネール画像年半近く続けてきた読書会〈Savilna 会読会〉が昨年6月を最後にバッタリと途絶えてしまった。別に意図はない。何となく日が開き、主宰者であるぼくがバタバタし、そしてメンバーからも再開してくれとの催促もないまま、今日に至った。ついに今夜から再開する。何でも「新」を付けたらいいとは思わないが、リフレッシュ感も欲しいので〈New Savilna 会読会〉と命名する。

それぞれ自分の好きな本を読んでくる。文学作品以外はだいたい何でもいい。そして、書評をA412枚にまとめて配付し、さわりを伝えたり要約したり、また批評を加える。「この本を薦める」という、新聞雑誌の書評欄とは異なり、「私がきちんと読んで伝えてあげるから、この本を読む必要はありません」というスタンス。カジュアルな本読みの会ではあるが、根気よく続けていれば一年で数十冊の本の話が聴けるという寸法である。

昨年までは毎回7~10人が発表していた。久々のせいかどうかは知らないが、今夜の発表者は4人と少ない。実は、ぼくは写真左の『身近な野菜のなるほど観察録』を書評しようと思っていた。おびただしい野菜が紹介されているが、夏野菜に絞って話をし、ついでに書評者自身の夏野菜論を語ろうと思っていた。しかし、4人とわかって、それなら少し骨のあるものをということで、写真右の『アリストテレス「哲学のすすめ」』を選択した。骨があると言っても、『二コマコス倫理学』などに比べれば入門の部類に入る。


読書についてよく考える。本を読む時間よりも本を読むことについて考える時間のほうが長いかもしれない。自分の読書習慣についてではなく、誰か他の人から尋ねられて考える。どんなことかと言えば、「どのように本を読めばいいか?」という、きわめて原初的な問いである。たいして熱心に読書してきたわけでもないぼくに聞くのは人間違いだ。もちろん歳も歳だから、ある程度は読んできた。だが、ノウハウなどあるはずもなく、いつも手当たり次第の試行錯誤の連続だった。

本ブログを書き始めて4年が過ぎたが、その間、読書についてあれこれと書いてきた。最近では、一冊一冊読み重ねていって〈知層〉を形成しようとするよりも、複数の本を併読して〈知圏〉を広げるほうがいいと思っている。一冊ずつ読んでもなかなか知は統合されない。一冊を深く精読することを否定しないが、開かれた時代にあっては「見晴らし」のほうが知の働きには断然いい。

複数の、ジャンルの異なる本を手元に置いて併読している。「内容が混乱しないか?」と聞かれるが、ぼくたちのアタマは異種雑多な知を処理しているではないか。現実に遭遇する異種雑多な情報や課題や問題を取り扱うのと同じように本も読む。精読や速読ばかりでなく、併読術も取り入れてみてはどうだろう。

何が本質なのか?

古代ギリシアの哲学者にヘラクレイトスがいる。万物流転で名を馳せた紀元前56世紀の人だ。万物流転の中心が「火」であると言ったが、何から何まで変化すると主張したわけではない。「魂には自己を増大させるロゴスが備わっている」あるいは「思慮の健全さこそ最大の能力であり知恵である」などとも語り、ロゴスの変わらざる本性へも目配りしている。

そのヘラクレイトスは「同じ川に二度足を踏み入れることはできない。なぜなら、流れはつねに変わっているから」という、あまりにも有名なことばを遺した。たとえば、ぼくのオフィスのすぐ近くに「大川」という川がある。天神祭の舞台となる川だ。決して清らかな水ではないので、足を浸す気にはなれないが、もし、ある日この川に足を踏み入れたとしよう。翌日同じ場所に行って足を踏み入れても、もうそれは昨日の川ではない。
大川という固有名詞の川に何度も足を踏み入れることはできるじゃないかと思ってしまう。だが、川の本質は大川という名前ではない。「川の流れのように」と言うように、川の本質は流れである。流れであるならば、たしかに昨日足を浸けたあの流れは、今日ここにはない。青年大川太郎は生まれた時から大川太郎だが、何度も生まれ変わった細胞に目を付けると、赤ん坊の時の大川太郎はもはや存在していない。

ぼくたちは昨日の自分と今日の自分は同じだと信じて生きている。しかし、それは変わらない本質を見据えているからにからにほかならない。では、自分を自分たらしめている不変の本質とは何かと問うてみよう。その瞬間、少なくとも戸惑い、自分の考えている本質がいかに漠然としたものかと思い知る。
「お客さん、この年代物の斧を買ってくださいよ」
「なんだい、それは?」
「これは、かのジョージ・ワシントンが桜の木を切った斧です」
「ほう、よくも今まで残っていたもんだな。ほんとうに正真正銘なのかい?」
「そりゃ、もちろん! ただ、270年も経ってますんで、斧を二回、柄を三回ばかり交換したそうな。だから、丈夫なことは請け合いますよ」
さて、この斧はジョージ・ワシントンが悪さをした斧なのだろうか、それとも別物なのだろうか。何度もリフォームした法隆寺は建立された当時の法隆寺なのか、それとも法隆寺的なものなのか。平成の大修理中の姫路城大天守は、ビフォーもアフターも同じものであるのか。ものの本質を考えるとき、必然、名と実の関係に思考が及ぶ。名を以て本質とするのか、実を以て本質とするのか……悩ましいが興味深いテーマである。

表現階段は上へと向かう

〈表現階段〉などという術語はない。ぼくの気まぐれな造語である。

あるすぐれた事物にふさわしい表現をひねり出したとする。事物がさらによくなれば、その表現よりも一段上に上がる表現が必要になる。比較級的な何か、である。そして、必然最上級を求める。しかし、事物の質がさらに良化すれば、その最上級でさえ物足りなくなる。こうして、表現階段はエンドレスに上を目指していく。
ロハスなどに顕著な近未来ライフスタイル現象の一つに「質の追求」がある。もちろん、今に始まった概念ではない。いつの時代も、昔に比べて少々手持ちに余裕ができれば、人はおおむね量の拡大から離れて質の深化へと向かうものだ。質の高いもの、つまり俗っぽく「本物」と呼ばれるものへの志向性……。本物とは何かということはさておき、そこへ向かいたがる。
デパートの地下を一周してみればよろしい。上質の~、一流の~、極上の~、~な逸品、名門の~、本場ならではの~……キリがないほど本物の仲間表現が目白押し。これ以外にも、ぼくたちにはらくしたい、自分らしくありたい、ゆったりと快適でありたいなどの生き方願望があるが、クオリティ・オブ・ライフ志向として一くくりにできるだろう。

とあるカフェに入った。ブレンドが税込280円。ご承知の通り、「ブレンド一つ」と注文すると、カウンター内の店員は即座にカップを取り出して機械にセットし、ボタンを押して「すでに出来上がっているコーヒー」を注ぐ。トレイごと受け取ったぼくはセルフでそれを運んで席につく。この店では、そのブレンドを、なんと「幻の逸品」と名付けポスターとして貼り出してある。
別の日。ブレンド料金にプラスすること20円で「ロイヤルブレンド」にグレードアップできることを知った。こちらは注文してから淹れるのである。おまけに、番号札を渡されて席に座っていれば、店員が出来立てのコーヒーを運んでくれるのである。
ブレンドが幻の逸品なのだから、ロイヤルブレンドにはどのような最上級の表現が与えられているのか……興味が湧いてきた。カウンター内の大きなメニューパネルや店内のあちこちにポスターらしきものを探してみた。だが、ロイヤルブレンドを訴求する表現らしきものは見当たらない。それはそうだろう、先に「幻の逸品」と命名してしまったら、そう簡単にそれ以上の表現は思いつくものではない。「特上・幻の逸品」など鰻丼みたいで違和感が強い。いっそのこと「幻想の逸品」にしてみるか。これも変だ。
表現階段の一段目に足を踏み入れた瞬間から、人はさらなる上の表現を目指す宿命を背負う。しかし、語彙には限度がある。表現したい気持ちが高ぶる一方で、言い表せぬもどかしさに苦悶するのだ。最近の若者たちが何にでも「めっちゃ」や「すっごく」や「超」をつけざるをえないのはこういう事情によるのだろう。

『考えるヒント』のこと

「考える」ことも「ヒント」を授けられるのも三度のメシよりも好きなわけではない。だが、これら二つがくっついて「考えるヒント」になると、俄然目の色が変わってくる。うまく言い表せないが、仕事柄、この言い回しと語感に色めき立つ。自覚などしないが、もしかすると知への憧れとコンプレックスが錯綜する結果なのかもしれない。

文芸評論家の小林秀雄に『考へるヒント』という著作がある。受験必読書だったはずで、60年代末から70年代初めにかけて読んだ記憶がある。最近では「へ」から「え」に変わって『考えるヒント』として文春文庫から出ている。数年前に久々に読んでみたが、かつてさっぱりわからなかったことが普通に読める。四十年間のうちに少しは年季が入ったのかもしれぬと勝手に思っている。

『考えるヒント』の「言葉」というエッセイの冒頭にこうある。

本居宣長に、「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という言葉がある。(……)ここで姿というのは、言葉の姿の事で、言葉は真似し難いが、意味は真似し易いと言うのである。
唐突に読むとわかりにくいが、ことばとその意味を比較すれば、「ことばが第一、意味はその後」ということだ。「ことばはマネできても意味までマネできない」という常識的な見方に対して正反対のことを主張しているからユニークなのである。このエッセイを再読した頃はちょうどソシュールも勉強し直していたので、大いに共感した。本居宣長の言語と意味への洞察に関心したものの、1978年に小林秀雄が日本文学大賞を受賞した『本居宣長』を読まずに現在に至った。そこまでは手が回らなかった。

小林秀雄がある講演で自著に触れた。決して安くもない単行本、しかも通常の教養程度ではちょっと読んでもすぐさま理解できる内容でもない。もっと言えば、本居宣長に関心がなければ読むはずもない本である。ぼくの回りを見渡しても、本居宣長に通じている知性はほとんどいない。
この本が著者と出版社の予想をはるかに超えるほど売れた。何万部も売れたと出版社から知らされた小林本人が驚く。そんなに売れるのはおかしいじゃないかと言わんばかりである。行きつけの鰻屋に行ったら、女将が「買って読んでいますよ、先生」と聞かされてたまげたらしい。
数か月前、これを古本屋で見つけた。貼ってある小さなラベルに300円とある。買ってそのままにしていたのは、これを読む前にもう一度『考えるヒント』『考えるヒント2』『考えるヒント3』などに目を通しておこうと思ったからである。と言うわけで、遅ればせながら読んでみようと思っているが、他にも読みたい本が何冊もあるし併読型飽き性でもあるので、どうなることやら……。

この話、すべってるのか、すべってないのか……(後編)

広告論第2講の当日、女子大に向かう前にデパートのフルーツ売場に寄った。「イチゴ」を買うためである。自分の責任ではないものの、第1講の遅刻は失態だ。遅刻に言い訳はきかないし、そのマイナスを消し去るのは容易ではない。マイナスを消してなおかつプラスに転じるためには、裏ワザを使わねばならない。それが「イチゴ」であった。女子大生の数だけイチゴを買った。よく覚えていないが、40個とか50個という単位だったと思う。
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〈苺一絵〉 Katsushi Okano
「今日は広告表現に先立つコンセプトの話をします。コンセプトとは概念であり、そのモノの特徴をかいつまんで簡潔なことばで言い表わすものです。たとえば……」というような切り出しで講義を始めた。だが、コンセプトをひねり出すのはこんな簡単なことではない。経験を積んだプロでも苦労する。そこで一計を案じ、初学者のためにモノを自分なりのイメージで表してもらうことにした。
何のことはない、持って行ったイチゴを女子一人に一個ずつ配り、そのイチゴを下手でもいい、写実的でも印象的でも抽象的でもいい、とにかく自分なりにノートに描かせるのである。大粒のイチゴを紙袋から出して見せた時点で、歓声が湧き上がる。静まるのを待って、おもむろに「今から遊び心で広告コンセプトを勉強します。イチゴを一人に一個配ります。課題が終われば食べてもいいです」と告げた。再び、歓声が上がった。

同じイチゴはない。すべてのイチゴは総称的にイチゴと呼ばれるが、一つ一つ違っている。いま目の前に配られたその一個のイチゴにしても、置く場所によって光の当たり方が変わる。描き手がどんなふうに見るかによってもイチゴのコンセプトは変わる。学生たちはしばし神妙にイチゴを眺めていた。これほどイチゴを凝視したのは人生初めての経験に違いない。やがてあちこちで鉛筆が動き始める。描き上がったら隣同士で見せ合うようにと言ったので、終わった人たちの間から会話が始まる。
全員が描き終わり会話も静まったのを見計らって話し始めた。「今日皆さんに配った本物のイチゴは、判別するのがむずかしいほど、どれもこれも似ています。しかし、スケッチされたイチゴは現物のように無個性ではなく、みんな特徴があって違っていますね。ただのイチゴに観察者の個性が反映されて、一つ一つにコンセプトが生まれたのです。同じイチゴをいま食べずに持ち帰ってもう一度描いてみると、また別の表情が浮き上がってくるでしょう。」
「いやだ、いま食べた~い」とあちこちで声が上がる。「いいでしょう。どうぞ」とおあずけを解除。おそらく講義中に容認された初めてのデザートタイムだっただろう。しかし、これで終わるわけにはいかない。「いいですか、皆さん」と騒がしさを制して黒板に向かった。「一つのイチゴを描く人、つまりコンセプトを編み出す人は、その時にふさわしく、しかもその時に限定される一枚の絵を描かねばなりません。それを《苺一絵》と言います。そう、まさに《一期一会》なのです」と締めくくった。全員がポカンとして静まり返った。
講義室を出た直後、助教授が近寄ってきて言った。「とても感動的な講義でした。広告っておもしろい。でもね、岡野さん、彼女たちが一期一会という四字熟語を知っていたら、ぼくらも普段の講義で苦労しませんよ」。そして「はっはっはっ」と高笑いした。逆説的だが、この日ぼくは、学び手のレベルに決して妥協するまいと心に誓った。今日のような話へと学び手を引き上げなければ教育は劣化すると思った。ちなみに、ぼくは第3講については何を話したのか、まったく覚えていない。

この話、すべってるのか、すべってないのか……(前編)

三十八歳の頃、知人の助教授から「大学で特別講義をやってみないか?」と声が掛かった。二十代の頃は語学学校で英語を教えていたし、三十六で創業してからも本業以外に講演や研修もこなしていた。だから、場所が大学に変わっても同じことだと軽く考えてオーケーした。全部でたったの3講、プレッシャーなどまったくなかったし、ネタを特別に仕込む必要もなかった。

テーマは『広告論』。言うまでもなく、大学側はアカデミックな内容を期待してなどいなかった。海外広報が専門の在野の経営者におもしろい切り口で話してもらおうという動機だったと思う。その大学は女子短期大学だった。受講生のほとんどが文学部在籍だと聞いた。
1講の前日、「駅まで迎えに行く。駅ビルのどこかでランチでも」とY助教授から連絡があった。快くお受けして、ちょっと洒落たグリルで洋食をいただいた。コーヒーを飲みながら話し込んでいるうちに、時間が気になってきたので助教授に「そろそろですね」と聞いた。「まだまだ。ほんの5分で行けるし、タクシーなんていくらでもある」と平然としている。先に書いておくと、ぼくは自己都合による遅刻・キャンセルはこれまでゼロである。二千回以上全国で講演・研修してきたので、ゼロは自慢させてもらっていいと思う。

ランチをして外へ出ると小雨が降っていた。タクシー乗り場に行くと、タクシーはなく、タクシーを待つ人が十数人並んでいた。講義開始まで20分ほど。助教授は「おっ、並んでるなあ」と微笑み、「タクシーはどんどん来るから大丈夫」とまだ楽観的である。しかし、彼は間違っていた。タクシーに乗った時点で講義開始時刻を少々過ぎていた。「私の責任」と助教授が講義の冒頭で謝罪してくれたのでぼくの過失にはならなかったが、少々肩身の狭い出だしになった。受講生は明らかに遅刻した外部講師を見下しているようであった。軽いジョークが出にくかったし、女子たちのノリもいま一つだった。
さん。あまり受けなかったですね。半数くらいが枝毛を触っているのがよく見えました」と、反省を込めて講義後につぶやいた。「岡野さん、枝毛はいつも触ってるから心配なく」と励まされた。それなら今度は枝毛を触る暇もないほど楽しませてやるかとリベンジを誓った。
帰路、秘策を練った。理屈の広告ではなく、体験体感できる広告の話……実際に何かさせてみよう……キャーキャーと喜ぶようなテーマ……枝毛を触ってなどいられないほど集中する作業……こんなことを考えているうちに、「イチゴ」という逆転ホームランの第2講の構想が浮かんだ。 
【後編に続く】

続・食にまつわる語義と語源

今年に入ってからのテレビ番組だったと思う。分子生物学者で農学博士の福岡伸一が「もし宇宙人がはるか彼方から地球を眺めたら、地球の最大勢力をトウモロコシだと推論するだろう」というような話をしていて、強い興味を覚えた。コメやムギ同様、トウモロコシはイネ科の穀物だ。そして穀物の中で最大の生産量を誇る。地球外生命からすれば、トウモロコシこそが人類や家畜を支配しているという構図である。
さて、食養生を強く意識してからおよそ二ヵ月が経つ。ひもじい思いをしているわけではないが、上記のような食糧や食生活にまつわる知識への関心が別次元にシフトしたような気がする。先週、このブログで『知っておきたい食の世界史』からいくつかエピソードを拾って紹介した。読了して別の本を併読しているが、このまま通り過ごすには惜しい話があるので少々書いておきたい。

【オリーブ】 ジェラート専門店でバニラを注文した。店主が「オリーブオイル」を垂らしてみませんか?」と言うから、好奇心のおもむくままうなずいた。経験上明らかなミスマッチだが、悪くはなかった。イタリア料理でもスペイン料理でもふんだんにオリーブオイルを使う。健康オイルとしてのイメージと相まって、ぼくたちの食生活にもずいぶん浸透し和食に用いられるのも珍しくなくなった。
ギリシア語でオリーブは“elaia”、油は“elaion”という。ほぼ同じ語根もしくは語幹である。オリーブオイルこそがオイルだったという証だそうだ。英語の“olive”のほうはラテン語の“oliva”から派生した。オイル(oil)はこれが訛った呼び名という説がある。そうすると、オリーブオイルは「オリーブオリーブ」または「オイルオイル」という冗長な言い回しをしていることになる。
なます】 なますと言えば、大根と人参の酢の物というイメージが強い。魚へんの「鱠」という漢字もあって、この場合は細く切り刻んだ魚の身も入れた。しかし、通常、なますを漢字にすると、にくづきの「膾」である。「あつものりて膾を吹く」というとき、この膾は生の肉を意味している。熱いスープで痛い目に遭ったから、冷たいものでもふぅふぅするという意味だから、生の肉でなければならない。
膾はもともと肉だったのである。その名残が韓国の「肉膾ユッケ」だ。古代中国では生の細切りの焼き肉が人気で、誰もがよく食べた。よく食べるということはよく知られたということだ。ここから、広く知れ渡るという意味の「人口に膾炙する」という表現が生まれた。この熟語の膾炙は「炙り肉」のことである。