一杯のコーヒー

一日に45杯のコーヒーを飲んでも、そのつどのコーヒーは「一杯のコーヒー」である。喫茶店からカフェへと呼び名を変えた店が多くなった。時代の流れでありライフスタイルの変化を象徴している。外で紅茶を飲むことはなく、店に入ればコーヒーを注文するのがお決まりなので、カフェのほうがしっくりくる。とは言え、ランチ後に誰かと行く時は「喫茶店」と呼ぶ。「近くにいいカフェがあるんです」とは言っても、「カフェにでも行きましょう」はない。コーヒーショップでもいいが、ちょっと古めかしい。

今朝もすでに2杯のコーヒーを飲んだ。朝一番の一杯のコーヒーは自宅で、もう一杯は午前10時にオフィスで。自宅はスペシャリティの豆で淹れたて、オフィスは廉価版のブレンドで作り置き。当然値段の差が味覚の差になる。仕事しながら飲むオフィスのコーヒーはそれで十分だ。寒い日の一杯はどこで飲んでもどんなふうに飲んでもありがたい。今日もたぶん午後に2杯、帰宅して食後にも飲むことになるはずである。最近は心してカップに向き合うようにしているが、惰性的飲み方を捨て切ったとは言い難い。


週末に古書店で『ウィーンのカフェ』(平田達治著)という本を見つけた。十数年前の記憶がよみがえる。空気まで凍てつくような極寒の日に、シェーンブルン宮殿のカフェ「グロリエッテ」で啜ったメランジェ。蚤の市近くの無名のカフェでもメランジェを飲んだ。メランジェはカプチーノのウィーン版。ウィーンに滞在した3日間のうちに一杯のメランジェを何度も味わった。ウィーンの後はローマ、フィレンツェ、ボローニャへと旅を続けた。口当たりのいいメランジェに慣れた舌はエスプレッソの強さにしごかれた。

ウィーンのオペラ座の前には二軒の有名なカフェがある。一軒はその名も「カフェモーツァルト」。そこでもメランジェを注文した。後に知ったのだが、かつてこのカフェは映画『第三の男』でロケされた場所だ。さて、この本に評論家ハンス・ヴァイゲルの次の一節を見つけた。

ワインハウスの主役はワイン、ビヤホールの主役はビール、料理店の主役は料理……しかるにコーヒーハウスではハウスの方がコーヒーよりもはるかに重要である。

同じ飲むならうまいコーヒーがいいのに決まっている。初めて入る場末の喫茶店。スポーツ新聞がカウンターに積んであり常連がたむろして落ち着かない店でも、淹れたてのコーヒーがうまければ満足できる。どんなに雰囲気がよく見え、隣席との距離に余裕があるホテルのラウンジでも、まずければ気分は台無しだ。こういう所見には一理あり、実際ぼくも与する。しかし、この言い分はコーヒーを飲み物としてしか見ていないことに気づく。カフェ発祥の意味と珈琲文化への想像が少し足りないのではないか。

イタリアではヴェネツィアの「カフェフローリアン」などを例外として、立飲みでもいい、エスプレッソはうまくて濃いのを一気に飲むのがいいという風情がある。ウィーンとパリのカフェはイタリアのバールとは様相が異なる。まずテーブルに座るべきである。本を読むにしてもぼんやりするにしても長居するべきである。長居してコーヒーをゆったりと飲む。この時に飲んでいるのが、まさにハウスなのかもしれない。ハウスの文化なのかもしれない。「コーヒーハウスではハウスの方がコーヒーよりもはるかに重要である」と言い切っても、コーヒーの味がどうでもいいということにはならない。つまり、ハウスが上等ならば必然コーヒーにも別格の味が備わるということだ。コーヒーの物性的な品質だけが品質ではない。嗜好者が主観的に感じるトータルな知覚品質である。というようなことに目を向けたら、次の一杯のコーヒータイムが変わるかもしれない。

芸術家の日常

ルネサンスが栄華を極めた花の都フィレンツェ。街の中心となる歴史地区を眺望できる小高い丘に上がるとミケランジェロ広場がある。そこにミケランジェロの手になるダヴィデ像のレプリカが建つ。この位置から歴史地区のヴェッキオ宮殿が見える。アルノ川を渡って宮殿のあるシニョリーア広場に降りて行くと、屋外に同じくダヴィデ像のレプリカが一体置かれている。

ミケランジェロが実際に彫刻したダヴィデ像はアカデミア美術館に収蔵されている。ダヴィデ像の高さは6メートル。この巨像が完成した折り、協議委員会が招集されたという記録がある。時は15041月。委員の一人がレオナルド・ダ・ヴィンチであった。レオナルドは出向いていたミラノから久々にフィレンツェに戻っていた。当時52歳。ちなみに、ミケランジェロは29歳。委員会ではダヴィデ像をどこに設置するかが協議された。

同じ年に、レオナルドは共和国の依頼を受けて、宮殿の大会議室に『アンギアーリの戦い』を描き始めた。発注契約書が残っていて、そこには『君主論』で有名なマキャヴェリがサインをしている。当時マキャヴェリは35歳、フィレンツェ共和国の外交官だった。年齢差はあるものの、レオナルド、ミケランジェロ、マキャヴェリはルネサンス最盛期の同時代人である。シニョリーア広場を歩けば出くわしただろうし会話も交わしただろう。実際、レオナルドとマキャヴェリはアルノ川の水路変更プロジェクトを共同で計画していたという。


歴史的名作を通じてレオナルドやミケランジェロを知っている。芸術作品を残した芸術家としての彼らをである。しかし、人間レオナルド、人間ミケランジェロについてはほとんど何も知らない。彼らがいて作品が生まれたのに、まるで作品に付けられた注釈のように人物を認識している。芸術以外の彼らの活動や生活にイメージを膨らませることはめったにない。言うまでもなく、彼らにも普通の人間と同じ日常があった。食事をし用も足し散歩をしていた。ショッピングを楽しみ自宅でくつろぎもしていたのである。

想像してみよう、レオナルドやミケランジェロが会議に出てメモを取り、受注するためにプレゼンテーションをおこない、契約書を結び、パトロンと打ち合わせをしている姿や様子を。絵を描き大理石を彫る以外の彼らの動きに、天才ではない人間味と日常を垣間見、自分と同じだと知って何だかほっとする。芸術作品は芸術活動のみから誕生するのではなく、芸術以外の業務や雑務との併せ技にほかならない。

ぼくたちの意識から生活者としての芸術家の日常が欠落している。天才を天才として見る視点に凝り固まっている。芸術家の息遣いを作品を通して感知するだけでは物足りない。いや、それだけでは理解不十分である。彼らもまた、現代人とさほど変わらない一生活者であったことが想像できる。想像だからノンフィクションではないが、この想像は真理とほとんど換位できるように思う。

風景としての街

2013年に1,000万人の大台に達し、2016年の今年は10月末現在ですでに2,000万人を超えた。2020年には4,000万人、2030年には6,000万人という推定。わが国に訪れる観光客数である。現在、年間8,000万人超を集める観光大国フランスの足元にはまったく及ばない。しかし、数年前まで毎年800万人が精一杯だったことを思うと、伸び率は凄まじい。

訪れたい観光スポットあっての街の人気である。たとえばパリにはエッフェル塔があり、ノートルダム寺院があり、セーヌ河があり、ルーブル博物館がある。他にも数え切れない名所がある。そういう名所を目当てに人々が集まる。しかし、やがて、観光スポットを巡らなくてもいい、ただそこに佇み街歩きして魅力を満喫できればいいと思う観光客が増えてくる。その時初めて、個々の観光スポットを超越した街のブランドが確かになる。あれこれを見たいという願いが街に行きたいという思いに変わる。

成熟した観光都市のステージとわが国の諸都市のステージは大いに違う。わが国ではスポットで集客している。京都なら伏見稲荷神社、金閣寺、清水寺。広島なら平和記念資料館と宮島。奈良は東大寺と奈良公園である。街のブランドと言うよりは観光地ブランドの知名度が先行している。それでも、これらの観光地は創世期の面影を残していて歴史を感じさせる。対して、ぼくの住む大阪の人気上位はユニバーサルスタジオ、梅田スカイビル、海遊館の3ヵ所である。大阪城の4位を凌いでいる。明らかに現代のテーマパーク的なスポットに人が集まっていて、歴史の街としての人気とは言い難い。


見どころ多彩なだけで知名度が上がるわけでもない。世界には「単機能」だけで固有のブランドを築いている街がある。イタリアはマルケ州のカステルフィダルドはその典型。アドリア海に面した人口2万人足らずの小都市だ。この街について世界的な日本人アコーディオン奏者のcobaが語っている。「イタリアで最初にアコーディオンを作り始めた街。小さな街なんですが、世界中のアコーディオンの8割を生産しているんですよ」。カステルフィダルドと言えばアコーディオン、アコーディオンと言えばカステルフィダルドというわけだ。名産から街を、街から名産を言い当ててもらえれば、一流の街ブランドの証である。

『世界ふれあい街歩き』で紹介されたドイツのリューネブルクなどは、絵筆を取って絵を描いてみたくなる街だという。観光客がどれほど押し寄せるのか知らないが、「絵を描いてみたくなる」とは街の魅力を伝える決めぜりふではないか。一言の表現しかできないのではなく、その一言に固有の価値が凝縮されている。単機能しか持ち合わせない街は特徴的であり、かつ潔い。そんな街を訪れた後は、何でも便利で多機能だが、マルチやメガという形容しかできない大都市がつまらなく思えてくる。

至宝が溢れるアートの街と自他ともに認めるのがフィレンツェ。以前このブログで書いたことがある。

ルネサンスの余燼が未だ冷めやらぬ街。いや、余燼というのは正しくない。156世紀のルネサンス時代のキャンバスをそのままにして、その上に現在が抑制気味に身を寄せているのがフィレンツェだ。美術品は美術館内だけに収まらない。建造物、彫刻、石畳、昔ながらの工房や修復アトリエが中世をそのまま伝えている。

歴史的遺産の原型を残さない街は、早晩飽きられるだろう。なぜなら、現代でいいのならどこにでもあるからだ。わが街にないものがあるから観光地に出掛け、わが街とは違うから遠くの街に赴くのである。

20073月にフィレンツェに一週間滞在し、シニョリーア広場に面したホテルに4泊した。数世紀前の建物をリフォームした古色蒼然としたホテルだ。ラウンジの窓から毎日広場を眺め、ルネサンス時代を気ままに回想していた。

ルネサンス時代という表現が誇張でない証拠がある。ぼくが実写した一枚にはシニョリーア広場、その右端に市庁舎(かつてのヴェッキオ宮殿)、市庁舎前にミケランジェロが制作したダビデ像のレプリカが写っている。この写真に16世紀か17世紀頃に描かれた広場の風景画を対比させてみる。前景は変わっていても、キャンバスである後景がほとんど同じであることに驚嘆する。未来を見据えて何を変え何を変えないかを考え抜いてきた、もう一つの歴史。風景としての街づくりには時間と忍耐とプライドが欠かせないのである。

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思い出切符

別にコレクションしているわけではない。溜まったものをそのまま箱に入れたりクリアファイルに挟んだりしているだけだ。映画館や美術館の入場券、交通機関の切符などである。通常、映画館や美術館のチケットは半券だけもぎられて手元に残る。しかし、電車の切符は出札機か駅員によって回収される。乗降した記憶は残っても、切符という証拠は残らない。わが国の話であるが……。

よくヨーロッパに旅した頃の列車、地下鉄、バス、ケーブルカーなどの切符が何百枚も手元にある。たとえば列車の場合。ターミナル駅でも小さな田舎駅でも、日本の改札という概念がない。駅構内から発着ホームまで誰でも入れてしまうのである。ホームに小さなタイムレコーダーのような機械があって、そのスリットに切符を入れると日付と時刻がパンチされる。これで改札終了。極端な話、切符がなくても乗車できてしまう。いつも車掌がやってくるとは限らないから、無賃乗車は多いはずだ。何回かに一回抜き打ち車内検札があり、その時に乗車券に刻印がないと高額な罰金を取られる。

自分で機械改札して乗車し、稀に車内で検札を受ける。これで切符の役目は終わり。さっさとノートに挟んでしまい込む。到着駅で切符に出番はない。そもそも改札口がないのだ。つまり、切符を回収しない。バスしかり。パリやローマの地下鉄駅では到着駅の出口に機械はあるが、通した切符が出てくる。だから手元に残る。もっとも、日本でも出札機に通さず、「この切符を記念に持ち帰りたい」と駅員に申し出れば、十中八九、何がしかの使用済み証明のスタンプを押してくれるので手元に残すことはできる。しかし、文字と数字だらけの味気のない新幹線の切符や地下鉄の切符を残そうという気にはならない。


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写真の切符はどちらもだいたい名刺サイズである。左の切符はローマのフィウミチーノ空港からテルミニ駅間のもの。券面には「出発:ローマテルミニ、到着:フィウミチーノ空港」と記載されているが、空港から駅への移動に使った。“VICE VERSA”、ラテン語で「逆も真なり」と書いてある。つまり、切符は一種類のみで、空港駅⇒鉄道駅、鉄道駅⇒空港駅のどちらにも使える。フィウミチーノ空港というのは通称で、正式名はレオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港。だから、券面にはレオナルドの肖像が印刷されている。一工夫されたデザインである。

ある日、ミラノから鉄道でイタリア国境に近いスイスの街ルガーノへ日帰りで旅した。ルガーノには湖や四囲の景色を見晴らせる標高933メートルのモンテ・ブレという山がある。ルガーノ湖畔からバスでケーブルカー乗り場へ。山に向かう出発駅は無人。切符も売っていないので無賃乗車する。ほどなく乗り換え駅に到着。そこで写真右の切符を購入した。十数分後ケーブルカーは展望台駅に到着。高山植物の間を歩き、風景を堪能する。ビールとソーセージのランチで腹ごしらえ。実によく覚えている。カラーを使ったこの切符を見るたびにその日のことがよみがえる。

乗り物の切符が記念に残り、その一枚が写真アルバム以上に回想を促してくれる。とてもいいことではないか。事務的な顔をした券面ならこうはいかない。海外からの観光客も増えてきた現状がある。観光都市宣言をするなら、都市のイメージと連動した切符に意匠を凝らしてみればどうか。そして、持ち帰ってもらうのである。タクシーにも応用できるだろう。手元に残したくなるような乗車証明カードを降車時に手渡されて悪い気がするはずもない。

都会の断片

事は思惑通りに進まない。モノどうしは勝手に釣り合いを取ってくれない。都会の風物も同じ。計画通りに統合されることはほとんどなく、部品が寄せ集められたかのようなカオスの様相を呈する。都会の極大化に人の頭脳が追いついていないのである。一極集中化した東京を見ればよくわかる。分業化された専門を足し算しただけの組織には、全体を、未来を構想する人が不在である。新国立競技場の顛末、豊洲市場の現在がそれを物語る。

西洋のように、教会と広場を前提として住居や道路が構築される街は、部分が全体に通じ、全体が部分と調和する。そこで暮らす人々、訪れる人々は、異種雑多な風物に取り囲まれながらも落ち着きを感じる。この国では、行政的な意味での都市の計画はあるのだろう。しかし、暮らしや文化の要素がどこまで計画に組み込まれているのか。当面の必要性を優先しては平気で建物を壊し樹齢何十何百年という木を伐採する。

一人の生活者の工夫ではいかんともしがたいのが都会の暮らしである。他人と共生するのはもちろんのこと、バランスを無視して気ままに足されていく諸々の断片とも折り合いをつけねばならない。都会の断片が生活者に、散策人に歩み寄ってくることはない。こちらから近づいて、断片の存在を知り寛容に接することが求められる。接するのが嫌なら、黙って通り過ぎるしかない。都会に暮らしながら、都会の断片を無視するとは何という生き方なのだろう。


大阪の、最近高感度と格付けされているエリアを歩いてみた。颯爽とストリートを歩き、街角に佇む若い男女はファッション雑誌のモデルと比較しても遜色ない。カフェやレストランは四季の節目単位で模様替えしているかのようである。しばらく足を踏み入れないと、迷宮ラビリンスのさすらい人になりかねない。

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通りを一本変えてみた。突然、存在の意味を即座に理解しかねる一画に出くわす。その断片が何であるかを、おそらく敢えて隠蔽する空間である。ふつうは誰の目にもわかるように身元を明らかにするはずなのに、巨大な組み木の塀の向こう側に姿を隠す。ここはクリニック。誰もこんなふうに塀を設えていることを不思議に思わないのか。そうだ、これは歩行人に足止めさせるための仕掛けなのだ。なるほど、謎解きは愉快なのかもしれないが、都会の脈絡とつながらない、忽然とした現れに断片の断片たるゆえんを感じるのみ。

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しばし歩を進める。断片空間から役割を終えた廃棄物の溜め息が聞えてきた。どうやら再利用される見込みのない残骸らしい。常時入れ替えているような気配がない。それが証拠に、物流用のパレットがどしりと置かれている。人目につかない場所に格納されていていいはずの断片が剥き出しになっている。クリニックの隠蔽性とは対照的だ。

都会で暮らすとは膨大な量の断片との共生を意味する。人もまた環境適応動物である。ありとあらゆる明暗を雑然と内蔵する都会にあって、生活者は自らの五感を研ぎ澄ましておくしかないようである。

車のない街

車を運転したこともなければ所有したこともない。最近そんな若者がちらほらいるのを知っているが、昭和二十年代生まれの世代ではかなり珍しい。ぼくはタクシーをよく利用するし、知人の車に乗せてもらいもする。しかし、主たる移動手段は地下鉄とバスであり、近場であれば自前の脚で歩くか自転車で走る。

二十世紀は自動車の時代と言っても過言ではないだろう。車は生活モデルの基礎となって今日に到っている。利便性の高い車社会は、同時にスピード優先の習慣を、ひいてはファーストライフを人々に強いるようになった。産業革命前の人々はスローライフで生きていた。スローライフからファーストライフへの変化は、人類の歴史上もっとも落差の大きいパラダイムシフトであったことは間違いない。

ヨーロッパでも指折りの名立たる街なのに、車が一台も走らない街がある。ラグーナに浮かぶ人工島、ヴェネツィアである。正しく言うと、浮かんでいるのではなく、海底に打ち込まれた無数の杭によって支えられている。車がないから、住民も観光客も歩く。広場を、運河沿いの道を、運河に架かる橋を歩くしかない。バリアフリーな橋は一基もない。この街は高齢者には決してやさしくないし、日常生活の移動も不便である。しかし、スローウォークを面倒がる人は一人もいない。観光客もその習慣に従う。


ヴェネツィアの帽子

ヴェネツィアには二度訪れている。二度目の訪問は200610月。五日間滞在した。その時に買った麦わら帽子が納戸の最上段にある。あと何キログラムかの物体が上に置かれるとペシャンコになる寸前に救出した。この帽子、ゴンドラの漕ぎ手であるゴンドリエーレがかぶる本物を模したものだ。もとよりかぶるつもりで買ってなどいない。カーニバルの仮面よりも種類が少なく、選びやすかっただけの話である。

空と海が近接し(……)水の反射によって非常に明るく、色彩もきわめて鮮明に映る。(『ヴェネツィア 美の都の一千年』 宮下規久朗)

当時の写真を見れば、この描写の通りだ。ヴェネツィアを端的に言い表わす表現に「ラ・セレニッシマ」がある。「この上なく澄み切った、晴れわたった」というような最上級表現。晴朗きわまる空と海の風土という意味と、この世で一番静穏な国という意味を兼ね備えている。

車がないから歩く。大運河に囲まれ、無数の小運河が網の目のように走っているから、歩くだけでは遠くに行けない。だから水上タクシーが存在する。イタリア屈指の観光地であるから、年中観光客で溢れる。ここにゴンドリエーレの存在理由がある。ゴンドラは生活上の移動手段ではなく、観光客向けの遊覧ボートである。

車がなければ生きていけない街があり、車がなくてもどうにかこうにか生きていける街がある。ぼくの住んできた街はどこも構造的には車社会なのだが、車に依存することなく何とかやってきた。便利に暮らすことと幸せに暮らすことが同期することもあれば、まったく同期しないこともある。車のない街は、「もし何々がなければ、どう生きるだろうか」を考えるきっかけを与えてくれる。

時計の時間、自分の時間

何度腕時計を見たら気が済むのかと思うほど、その日は時間が気になった。一人旅先にいて、仕事から解放された後で、時間を気にしなければならない状況ではなかったにもかかわらず。手持ちぶさたから時計を見ていたのだろうか。そうだとしても、時計は手持ちぶさたを紛らわせる道具にふさわしくない。どんな時計も針と文字盤の顔が平凡だからだ。

「場末の酒場」と呼ぶのがぴったりのバーがあった。女主人は気分が良くなると、「♪ 私たちのために時計を止めて、いつまでも今宵が過ぎないように……」から始まる『時計』という歌を唄った。時計は止まったら困るものなのに、あの歌では止まってくれと願う。幸せな人たちは時の流れを恐れる。時計が刻む「イッティックタク」という音さえ彼らの耳には悲しく聞こえる。

家には掛け時計と置き時計が十ほどもある。時計にも個性があるから、示す時刻に微妙な違いがある。どれが正確かはわからない。多数決は面倒だから、わからない時はテレビか携帯で確かめる。この時、テレビや携帯の時報が正しいという暗黙の前提に立っている。その正しい時間は誰が、何が、どこで刻んでいるのだろう。


フランスの時計

フランス製の中古の掛け時計がずっと止まっていた。動いた記憶がほとんどない。前の持ち主が、あの歌のように、何度も時計を止めてと願ったせいかもしれない。

先日、その時計の形状がおもしろいと言って、客人が壁から外して触ったら、まるでかかっていた魔法が解かれたかのように動き出した。長期休暇が明けて仕事を再開し始めたのかもしれない。以来、順調に時を刻んでいる。イッティックタクとは聞こえないし、悲しげでもない。正確な機械音である。

時計は時を刻む。それが時計の仕事。あの日、何度も腕時計の仕事を見ていたことになる。今日はちょっと違う。時計が刻む時間とは別に、自分が刻んでいる時間があることに気づいている。

どこに旅するのか?

最後に海外に出掛けてからこの11月で5年になる。この間、何度も旅程を画策したが旅立ちは叶わなかった。テロなどの情勢不安に怯えたわけではない。体力の問題と仕事の調整があるので、そう頻繁に出掛けることもできなくなっている。何年かに一度という割合になるのはやむをえず、同じ出掛けるなら半月は滞在してみたいと欲張ってしまう。しかし、半月丸々空けるのはたやすくない。特に、季節のいい時期ほど難しい。今のところ、来年の3月が最有力で、それまでに体調を整えなければならない。

加藤秀俊の『世間にまなぶ』に、旅についての印象的なくだりがあった。ランドサットから撮影した地球の隅々を映し出すカラー写真の図録をパラパラとめくっていた時に、著者は次のように気づく。

なんとなく、気宇は雄大となり、人生や世界についての日常の常識の枠組みから精神が離脱してゆくような気分になっていく(……)
旅するということは、あらたな知的刺激をうけること(……)地球は、まだ未知の空間と事物に満ちている。旅とは、その部分への体験的な突入ということにほかならない。

未知なる領域への「体験的な突入」とは言い得て妙である。突入が一過性であるよりは、突入してそこに留まるほうが常識のパラダイムシフトが生じやすいし、知的刺激の機会にも恵まれる。

ぼくは日常の暮らしを今住んでいる地域で営んでいる。国家の事情の前に、この街で暮らしている。わざわざ国に「地方の時代だ」と言ってもらわなくても、そんなことは身をもって認識している。人は、地勢の風土やそれぞれの暮らし方に応じて価値の尺度を決める。そのことに戸惑いも躊躇もない。だから、ぼくの旅に際してのパラダイムシフトとは、国から国へのそれではなく、街から街への経験的転移を可能にするものなのだ。


5年前の旅ではバルセロナとパリに出掛け、二週間滞在した。その直前、とある大阪のホテルに依頼されて英語版のガイドブックの編著に関わった。表紙に「ようこそ日本へ(“Welcome to Japan”)」と入れたいというのがホテル側の希望だったが、「いや、そうではなくて、ようこそ大阪へ(“Welcome to Osaka”)であるべきだ」と、少々意地を張った。ホテルの幹部は納得しない。激論に到らなかったが議論は長引いた。ある程度良かれと思う主張をして、それで折り合えなければ、それ以上ごり押ししないのがぼくのやり方。先方のプライドを崩してまで粘るのは、お互いに疲弊するだけだ。

「アメリカに旅してきた」と誰かが言っても、何カ月かの周遊旅行でないかぎり、どこかの都市に旅してきたはずである。サンフランシスコに旅した、ニューヨークに旅したということだろう。広大なアメリカだからというわけではない。国土25分の1の日本でも同じこと。一律に日本と言って済ませられる旅などない。東京や京都に旅したのである。もっとも、外国人観光客が日本を初めて訪れる時は「日本への旅」かもしれない。しかし、リピーターになると、旅の行き先は国から街へと変わる。外国人観光客を迎えることにまだ未熟なわが国では「日本」が強く意識される。旅人が日本にやって来るのは間違いないが、経験を重ねて彼らは街に新しい発見を求めようになるのだ。

バルセロナの旅
滞在したホテルの通り向かいの風景(バルセロナ)

再び5年前の話に戻る。先の大阪のホテルの表紙で「ようこそ日本へ」で妥協した直後である。バルセロナで投宿したホテルのフロントでは、まずカタルーニャ語で、次いで英語で「ようこそバルセロナへ」と告げられた。それはそうだろう、スペインに入国したのは間違いないが、スペイン旅行に来たのではなく、バルセロナに旅して数日間滞在しようとしていたのだから。

旅は国という概念からぼくたちを解放し、身近な街での経験を授けてくれる。たとえわずかな日数でもいい、暮らすように滞在するのが旅の醍醐味なのではないか。

風土と緯度の話

地理に詳しいわけではないが、手を伸ばせば届くところに地図を置いていて、気が向けば眺めている。イタリアやフランスによく旅していた頃、街の2キロメートル四方程度がわかる地図を頼りにしていた。現地で国全体の地図を見ることはない。

ところが、帰国すると、旅した街を当該国の中で確認し、さらには世界地図を広げて旅を振り返る。ローマは3月だったのに暖かかったとか、パリの11月は朝夕はまずまず冷え込んでいたけれど、昼間はさほど寒くなかったとか……。「風土」という概念で納得しようとしたこともある。しかし、地図を見ているうちに緯度に目配りするようになった。

日本地図を欧州に置いてみた

ある日、日本とヨーロッパの縮尺率が同じ地図帳を持ち出してきて、マジックで透明フィルムに日本地図の輪郭をなぞり、緯度に合わせてヨーロッパの上に置いてみた。認識が根底から覆された。パリ、ロンドン、ベルリンと同緯度の都市は日本に存在しないのである。旅したミラノやヴェネツィアは、日本最北端の稚内の緯度とほぼ同じ。日本地図の上半分は南欧から地中海、下半分は北アフリカに位置していることになる。ぼくの中では日本はもっと高緯度にあるはずだった。

同じ緯度にある都市なのに、地勢的な条件や寒流・暖流の有無によって寒暖の差が生じる。気候、水質、地質、地形など、総じて風土と呼ばれる特性は、そこで暮らす人々の生活や考え方に大きく影響する。食い意地の張っているぼくは、風土のうち「食」に大いに関心を示し、日本では米と魚類、欧州では麦と肉類と大雑把に対比させたりしていた。学生時代に読んだ和辻哲郎の『風土――人間的考察』を取り出して再読したりもした。「食物の生産に最も関係の深いのは風土である。人間は獣肉と、魚肉のいずれを欲するかにしたがって牧畜か漁業かのいずれかを選んだわけではない」という指摘は実に興味深い。ヨーロッパの人たちはパンと肉が好きだったのではなく、麦作と牧畜に適した風土に食性を決定づけられて今に到っているのである。


昨年の10月末、大リーグのロイヤルズ対メッツの試合をテレビで観戦していた。場所はニューヨーク。ニューヨークの冬は厳しく大雪に見舞われることがある。観客のほとんどはすでに冬装束だった。11月下旬にパリで目撃した服装に比べてスタジアムの人たちは極端に厚着だった。緯度に関心がなければ、ニューヨークのほうがパリよりもかなり北方に位置すると思うかもしれない。ニューヨークの緯度は40度、これは青森と同じ。パリはと言えば、稚内の45度よりもさらに高い48度だ。地理好きから言えば、別段驚くべき情報ではない。しかし、現地に旅しても自覚したり見えたりしないのに、不思議なことに地図の上で事実があぶり出されることがある。ロンドンに数十回も旅した知人は「ロンドンと札幌がだいたい同緯度だよ」と自信満々だった。地図で確認すればその認識が間違いだとわかる。

ヨーロッパは北大西洋海流という暖流の恩恵を受けている。特に北や西の気候が穏やかで安定しているのはそのせいだろう。札幌の冬の厳しさに比べれば、マルセーユやローマやバルセロナはほどよい気候に恵まれている。

都市の緯度比較

日本は緯度が低い。ヨーロッパ、中東、北アフリカの主要都市と比べてみようと一覧表も作ったことがある。大阪に住むぼくはいったいどの都市と同じ緯度に住んでいるのか……。ナポリやマドリードよりも、アテネやシチリアのパレルモよりも低い。なんと北アフリカのカサブランカや中東のバグダッドとほぼ同じ位置だ。このことはもうすでに重々知っているのだが、あの日欧重ね地図を、そしてこの一覧表を見るたびに、まだ信じられない気分になる。ヨーロッパ内で大阪と同じ緯度の場所はクレタ島くらいしかない。本格的な夏間近、クールビズでは間に合わないくらい、亜熱帯大阪は暑くなるのだろうか。

オムニバスな休日

携帯ショップで様々な手続きを終えた。終えたのは手続きだけで、スマートフォンとタブレットの新機種を別々の日に受け取らねばならず、また、光回線の工事の日も自宅でスタンバイしなければならない。IT時代は楽ではない。便利のために手間暇がかかる。手間暇以上にお金がかかる。ショップで説明を受けること、約二時間。胃痛をともなう空腹感に襲われ、さあランチにするか、それとも控えるかと思案した挙句、食欲に負け天丼で腹ごしらえした。

フランドル
フランドル2

近くに喫茶店があったのを思い出す。本町通りに面したビルの通路の突き当たり。何ヵ月か前に通りがかって入店しようとしたら、ちょうど店じまいの準備中だった。と言うわけで、今日が初めて。てっきり「仏蘭西フランス」だと思っていたが、よく見たら「仏蘭」。ドル記号はぼくのPCでは表示できない「Sに二本線」。一瞬、漢字の「弗」かと思った。これで「フランドル」と読ませる。フランスではなく、オランダやベルギーのイメージだ。コーヒーの強い苦味と店の雰囲気に昭和の名残りをとどめている。

綿業会館

綿業会館の前に出た。このあたりはよく歩いている。近くに顧問税理士のオフィスがあった。十数年前に会館1階のレストランでご馳走してもらったことがある。古いビルに入っている老舗レストランでの食事は、ぼくらの世代には贅沢このうえない。大阪ガスビルの食堂での昼餐も印象に残っている。味の印象ではない。ぼくのサラリーマン最後となった会社の幹部に離職を慰留されたのがそこだったから。三十年前のことだ。その一か月後退職して起業した。

花屋

備後町から瓦町へ。色合いと装いがパリで見掛けそうな花屋。このあたりを行き過ぎる時はたいていその先に目的がある。だから、さほど印象に残らない。今日は休日、目当てはない。携帯ショップで疲れ、その流れで惰性で北へ東へと歩いたにすぎない。本町、淀屋橋、堺筋本町、北浜あたりにはレトロな建物が点々と残っている。もちろんリフォームされたものばかりだが、新築のビル群にあって束の間の落ち着きを与えてくれる。

大川大川2

数キロメートル歩いて、最後にいつもの天神橋、大川にやって来た。まばらに人がいて、新緑の春の休日を絵にしたようである。動きも音も何もかもが実にのんびりしていて、風景に吸収されている。東へ向かう船もまったく急いでいない。河岸の小径を歩くぼくが容易に追い越せたくらいである。明日は予定がない。予定のない明日に何となくわくわくする今夜は幸せである。