何度腕時計を見たら気が済むのかと思うほど、その日は時間が気になった。一人旅先にいて、仕事から解放された後で、時間を気にしなければならない状況ではなかったにもかかわらず。手持ちぶさたから時計を見ていたのだろうか。そうだとしても、時計は手持ちぶさたを紛らわせる道具にふさわしくない。どんな時計も針と文字盤の顔が平凡だからだ。
「場末の酒場」と呼ぶのがぴったりのバーがあった。女主人は気分が良くなると、「♪ 私たちのために時計を止めて、いつまでも今宵が過ぎないように……」から始まる『時計』という歌を唄った。時計は止まったら困るものなのに、あの歌では止まってくれと願う。幸せな人たちは時の流れを恐れる。時計が刻む「イッティックタク」という音さえ彼らの耳には悲しく聞こえる。
家には掛け時計と置き時計が十ほどもある。時計にも個性があるから、示す時刻に微妙な違いがある。どれが正確かはわからない。多数決は面倒だから、わからない時はテレビか携帯で確かめる。この時、テレビや携帯の時報が正しいという暗黙の前提に立っている。その正しい時間は誰が、何が、どこで刻んでいるのだろう。
フランス製の中古の掛け時計がずっと止まっていた。動いた記憶がほとんどない。前の持ち主が、あの歌のように、何度も時計を止めてと願ったせいかもしれない。
先日、その時計の形状がおもしろいと言って、客人が壁から外して触ったら、まるでかかっていた魔法が解かれたかのように動き出した。長期休暇が明けて仕事を再開し始めたのかもしれない。以来、順調に時を刻んでいる。イッティックタクとは聞こえないし、悲しげでもない。正確な機械音である。
時計は時を刻む。それが時計の仕事。あの日、何度も腕時計の仕事を見ていたことになる。今日はちょっと違う。時計が刻む時間とは別に、自分が刻んでいる時間があることに気づいている。