「多大志向」の反省

「大きいことはいいことだ」。1960年代後半、大手菓子会社が繁栄・発展の時代を謳歌するように大々的に宣伝した。コマーシャルソングは耳にこびりついた。冷静に振り返れば、上滑りの空回りに見える。だが、半世紀後への洞察が足りなかったなどと批判はできない。止まるところを知らない高度成長の線上に64年東京五輪、70年大阪万博、日本列島改造論があって、景気のいい話ばかりが歓迎された。

人間の未来予測は明日明後日のことでも信頼性に乏しい。そのことに気づけばよかったのだが、このまま飛ぶ鳥を落とす勢いが続くものだと誰もが信じて疑わなかった。万博あたりから一部で反省の声もちらほら聞かれるようになる。「モーレツからビューティフルへ」(70年)はその一例かもしれない。しかし、ビューティフルというお面を付けたモーレツの変種だったと思う。それが証拠に、1990年代初めのバブル崩壊までモーレツ感が時代を支配していた。

「大きい」の仲間に「大勢」があり「たくさん」がある。まとめて「多大」としておく。さて、多大はいいことなのか……今がよくても先はわからない。そもそも多大への志向性が強くなると、「もっと多大を!」を求めるのが常だ。一度何かがうまくいくと「もっと」へと向かう。小さくていい、少数少量でいいと考える人にとっては、多大を至上命題として掲げる社会は生きづらかった。多大志向が功罪併せ持つことは誰の目にも明らかだった。


重厚長大vs軽薄短小

時が過ぎ、「重厚長大」に代わる「軽薄短小」が待望されるようになる。失われた十年を挽回するのはITやソフトだと信じられた。実際、産業分野では重厚長大企業が苦戦を強いられ、軽薄短小が台頭した一面もある。産業面でも大量生産から多品種少量は必然の流れだった。ところがである。軽薄短小のほうにも色褪せ感が漂っている。

いったん社会にどっしりと腰を下ろしてしまった重厚長大への名残惜しさは容易に消えていない。「じゅうこうちょうだい」の誇らしげで頼もしい語感の後の、「けいはくたんしょう」は心細くひ弱く響いているかのようである。二つの四字熟語間の葛藤、よき思い出と忘れようとする意思の間の二律背反を今も引きずっている。

古き良き時代へのノスタルジーは曲者だ。大きいことやモーレツのウィルスは現代人の生活信条の骨格にまで蔓延している。重厚長大は産業構造の中では影が薄くなったが、マインドのどこかで幻影への憧憬は消えていない。為政者も国民も威勢のよい響きが好きなのだ。響きに合わせて踊ってしまうと、さらなる十年、二十年を失ってしまいそうな気がする。読みもしない重厚長大なおびただしい本に囲まれながら、さてどこから反省を始めようかと思案している。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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